■5 恋人繋ぎは離れない
真剣白刃取り、という神業を聞いたことがある。上から振り下ろされた刀身を、その通り両手で掴みとってしまうものだ。両手で挟み込むだけで刃が止められるとは思わないし、野球の空振り三振みたいに掴み損ねて身体をスッパリいかれそうな難題だ。だから現実にそれを見たことはない。ドロシーはもちろん、クロユリも。
クロユリの振るった一撃は、血の匂いをまとった軌跡に「みえた」。実際にはそんなものは視認できない。だけどドロシーの鼻が感じたこれをどう表現するかと言われれば……そう、匂いが軌道のように感じられるのだ。
「な――」
わかったなら、受け止めればいいだけの話だ。
クロユリが絶句する。ドロシーはクロユリの刀を両手で鷲掴みにした。両の掌で美しく取ることなんてできない。もっと獰猛に、確実に動きを止めてやればいいのだ。ボタボタと床に滴るリコリスの血液は、ドロシーの髪よりも黒みがかった色をしていた。あたしの血って期待してたほど鮮やかじゃないのよね、とドロシーは内心残念に思う。
「黒百合を、掴むなんて、そんな」
「もしかして、自分を超絶手練れの刀使いだとか自惚れてた?」
「ッ!」
煽ればわかりやすく気色ばむクロユリ。ドロシーにもこの少女の沸点がわかってきた。冷静に事務的に、確かに彼女は斬ること以外にはさして興味を持たない存在なのだろう。より強くより多くの屍を積み重ねていくことにこそ、最大の意味を感じている。
だからこそ単純だ。彼女にはたったひとつしかない。「斬る」ということひとつだけ。ひとつを磨いて、磨いて、磨きあげてきた職人ならば――相応のプライドというものがあるはずだ。かける思いが強いほど、それに依存するほど、自尊心は肥大化していく。クロユリは典型的なタイプだった。
ドロシーは挑発を続ける。
「どれくらいやってきたのか知らないけど、ド素人のあたしに掴めちゃうくらちだもの。まだまだ修業が足りないってことじゃない?」
「だま、れ……!」
ドロシーの手の中でガチガチと黒百合が震える。血をすする妖刀は確かにドロシーの内側で脈打っているようにも感じられる。事実ドロシーからは大量の血が流れているはずなのに、黒百合を伝っていく血液はあまりにも少なかった。刀身が取り損ねた残滓なのだろう。
ああ、頭がクラクラしてきた、かもしれない。多少丈夫に作られているとはいえ、リコリスは人間を強化した怪物だ。血を多く失えば死ぬ。他の血を求める生き物だからこそ、死ぬ。
「私はッ」
憎悪の暗い灯がドロシーを射抜く。見ているこちらが笑ってしまうくらい必死な顔だった。真剣な表情を嗤うのはよろしくないと里砂は怒るかもしれないが、魂が感じたまま動くドロシーはそこまで聞き分けがよろしくない。安い挑発に結局のせられているのだから、これを滑稽と呼ばずして何と言えばいいのか。
ぶち、と肉を裂く音を聞いて、ドロシーは「やばい」と察知した。煽られた少女の怒りを受け止めるつもりなど微塵もなかったが、どうやら本気を見せるらしい。両手で掴んで拮抗していたはずの勢力図がクロユリに傾き始める。
「斬る。すべてを斬る……斬り殺す」
「本音が出たわね殺人狂!」
ドロシーは刀から手を離し飛び退いた。刹那振り下ろされるクロユリの一閃は、禍々しい憤怒の具現化にも思えた。硬質な黒曜の色をした瞳が濁った光を放つ。鋭いのにどこか終わっている、本能に支配された相貌をしていた。
「斬ることは挑むこと。殺すことは成し遂げること。挑戦は勝利、克服と勝利に他ならない……!」
「トンチキな格言語ってる暇があるならその目をやめなさいよね!」
乾き始めた返り血が視界に入りドロシーは舌打ちした。里砂を誑かしたウジ虫の血痕。それもドロシーと一緒で鈍い赤へと黒ずんで、まったく好みでない。鮮血を求めるこの身には不快極まるビジョンだ。クロユリを殺したところで得るものは同じだろう。空しいリコリスの
狂った光を灯したクロユリは、自我を本能に譲り渡したようにさえ見えた。日本人形にも似た淡白な顔立ちがウリだったのに、目は獰猛に煌めき血走っている。それなのに口許は笑みを浮かべるでもなく、真一文字に結んだまま襲いかかってくる。結局
「自惚れ屋がバカになったところで……!」
振り下ろされる。音速の一撃をドロシーはチェーンソーで薙ぎ払った。腕を振って加速させ、なんとか弾き返せるレベル。そして弾いたあとのドロシーはチェーンソーに身体をもっていかれる――要するにがら空きだ。
「ドロシー!」
里砂の警鐘。わかってる、とドロシーは荒っぽく応じる。負けるわけにはいかないし、負けるはずがなかった。孤独に研がれた狂気の刀ごとき、ドロシーたちの敵ではないはずだった。それを証明したくてドロシーはチェーンソーをがむしゃらに振り続ける。
嘘だ。そんな理性的な理由は存在しない。
里砂と一緒にいたいから、邪魔者を排除するだけだ。
「クソがッ!」
ひどい悪態をつき、ドロシーは床を転がった。脚で逃げるよりも被害が小さいと睨んだためだ。確かに失血死はしなかった。息もある。だが噴き出す赤を前に、ドロシーは苦々しげにチェーンソーを左手で握り直した。
右手の指を持っていかれた。すぱん、と鮮やかに斬られている。狂気に身を堕としたとはいえ、その腕は素人のそれとはまったく違う。第一関節だけで済んだが獲物を握ることもままならない。否、それよりもドロシーは他のことが心配だった。
「恋人繋ぎ、やりにくくなったかな」
クロユリの追撃が迫る。痛みに顔をしかめる時間すら惜しい。チェーンソーでの受け身は諦め、ドロシーは身を捻って回避する。体勢を立て直したときにはクロユリが間近に来ていた。
かち合う視線。紅蓮の炎と黒曜の灯。ドロシーは一層目を爛々と輝かせた。
「面白いじゃんかッ!」
燃えろ。燃えろ。食事とは衝動だ。快楽とは衝動だ。殺戮だって衝動だ。愛のためにドロシーは動く。誇りのためにクロユリは動く。衝動と挑戦の華が、豪奢な鉄箱の中で咲いた。
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