■4 あなたはそれを愛と呼んだ

 ***


 地下鉄の天井が思い切りとき、ドロシーは純粋に殺意を覚えた。恋人に手を出そうとした愚かな羽虫……もとい雑草を、一切の躊躇なく刈り取った矢先のことだ。ただでさえ単独行動は危険だと里砂が言っていたのに。今回のそれは完全なるドロシーの落ち度だった。リコリスだって反省はするのだ。

「ごめんね里砂、一人で勝手に出歩いたりしないから」――衝動という本能に打ち勝つことは並大抵のことではない。快楽を追い求め、胸のうちに燃えたぎる熱い欲望の喜悦を知っていればなおのこと。けれど、それで里砂を悲しませてしまうのならと、ドロシーはそれなりに頑張って理性を使おうとはしている。必ずしもうまくはいかないが。


 謝罪もムードも、キスの雨も夜の約束もどこかへ飛んでいってしまった。脳天を貫く不快な破壊音。真新しい黄金の破片が視界を舞い落ちる。ドロシーは里砂に覆い被さるように抱き直す。反吐がでるくらいナンセンスな登場シーンだった。


淑女レディの部屋に入るときはノックしろって教わらなかった?」


 穴の空いた天井をちらりと見つつ、落下してきた黒い影にドロシーは悪態をつく。見知った顔だ。世界が色を塗り忘れた少女……たったひとつ、手にした錫色の刀を除いて。


「ここは地下鉄です。部屋ではありません」


 ボブカットに貼り付いた金属片を緩慢な所作でふるい落とし、無彩色のリコリス、クロユリは淡々と応じた。仕事をしていない表情筋が、彼女にとってそれが「なんてことない仕草」を意味しており、余計にドロシーを苛つかせる。クールぶった殺戮人形マネキンなんてお呼びではないのだ。


「何その返事。英語の構文かってーの!」


 あらゆる衝動を寸どめにされ、怒り心頭のドロシーは沸き上がった新しい衝動に身を任せた。里砂から離れ、愛用のチェーンソーを駆動させる。血を撒き散らしたばかりの相棒は刃先を赤いまだらにしたまま、高速で回転を始めた。

 突撃。ドロシーは戦闘狂ではないから、手練れの殺人鬼シリアルキラー相手に渡り合えるほどの実力を持ち合わせていない。快楽のための殺人、食事のための解体、そのために磨かれた手腕である。愚直に襲いかかったところで歯が立たない、それはお互いにわかっていた。


 ――では、何故狭い車内で突撃してくる?


 相手クロユリだったらそう考える。疑問に思う。理屈や理論で武装されているのなら恐らくは。そもそもリコリスは本能に突き動かされる生き物で、わずかばかりの理性がどこまで思考を促すのか、個人差がある。斬ることにすべてをかけるクロユリは、戦というものをどこまで思考して実行するのか。

 ドロシーの答えは簡単だ。。だから狭かろうが真っ向からチェーンソーをふりかぶるのだ。


「でえええええええっ!」

「小癪、な」


 小癪、なんて時代劇じみた言葉を幼い見た目の少女が使うのは滑稽だ。しかし嘲笑している暇はない。ドロシー渾身の初撃はクロユリに紙一重のところでかわされた。回避のモーションが遅れたというよりは、ギリギリまで見極められたような形に近い。ドロシーは舌打ちすることを自重しなかった。唾を飛ばしてやりたいくらい悔しい。


「なら!」


 一撃で仕留められないなら二撃で当てればいい。二撃で足りないなら三回目、四回目と。相手が嫌になるくらい執着して、要は。海浜公園の一件で戦力差は痛感している。何度も頭で繰り返した悲劇だ。命からがら逃げ出したと揶揄されても仕様のない醜態だっただろう。それこそクロユリのような戦闘狂なら、屈辱で腹を切ってしまうのではなかろうか。

 ドロシーは違う。どうせ動く車体からは出られない。轟音をあげて暗闇を走る箱のなかで、ドロシーはチェーンソーをふるう動きを止めることはなかった。


「何回、それを繰り返すの」


 無駄なのに、と言ってクロユリは刀でチェーンソーの刃を受け止めた。ゴリゴリと耳を抉りとるほど障る音が至近距離で鳴る。聴覚が鋭敏なリコリスなら騒音被害で死んでいただろう。細い刀身の黒百合はどういう理屈かチェーンソー相手に一切の刃こぼれをしない。むしろ一瞬押し返されたくらいだ。鉄の匂いに顔をしかめながら、ドロシーは歯を見せて笑う。


「決まってるじゃん。あんたが倒れるまでよ」

「……なら、そのときはずっと来ない」


 押し返す力が強まった。黒衣に包まれた身体は細く見えるのに、どこからそんな力がでてくるというのか。ドロシーは一度距離を置く。

 クロユリが反撃に転じた。スマートな刀身から繰り出される音速の太刀捌きは、やはり目では追いきれぬほどに速い。どうにか紙一重のところで身体をのけぞらせたけれども、それも鉄の匂いを察知したからに過ぎない。クロユリの太刀が振るわれる刹那を、ドロシーは捉えられなかった。


「ねえ、里砂!」


 今度は二時の方向から、突き刺す鉄の匂い。空を切り裂いて目玉を抉ろうとする残酷な一閃を、ドロシーは床にへばりついて回避した。明後日の方向にローファーの蹴りを繰り出してみたけれど、何の手応えもなかった。

 そんな命をかけた殺し合いの最中、ドロシーは努めて明るい声で背後にいるだろう恋人に声をかけた。里砂は戸惑っているのか返事をしない。それでもいい。百八十度身体を回転させ、上体を起こしながら彼女を見た。


 不安げな顔の里砂。

 ドロシーの愛した人だ。


「こいつ倒したら、楽しいところに連れていくから……応援、してくれる?」


 はっ、と里砂が息を呑む。そんな音が聞こえた気がした。ちりりと肌を焼くキツイ匂い。殺意に満ちあふれた少女の身体は、わずかに葬式みたいな線香の香りがする。姿は見えなくても、真後ろに。


「連れていって、ドロシー!」


 里砂が泣きそうな顔で叫んだのは、そのときだ。


「私が信じたドロシー、あなたを愛してる!」

「……最ッ高!!」


 不思議だ。栄養ドリンクを飲んだわけでもないのに、体力は削がれる一方なのに、里砂の言葉はドロシーの四肢にエネルギーを与える。まるで魔法だ。心がぽかぽかするし、口許は緩んでしまうし、何より祈るように乞われてしまっては……早く片付けて、抱き締めてあげないといけないではないか。

 脳天に迫っていた黒曜の真剣を、烈火の意志がついに捉えた。

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