■3 回想……彼岸花の恋
『ハラジュクで服でも買ってこいよ』
二十一世紀初頭なら、それは何ら違和感のない言葉であったと思う。流行の最先端、若者たちの集う情報の奔流。その波に呑まれ、揉まれ、イケてる自分になるのだという。里砂も人並みに興味はあった。
だが、今の日本は……というかトウキョウは違う。リコリスと呼ばれる化物たちに占領された、ぽっかりと空いた地獄の釜だ。
『……それは』
『聞こえなかったのか? その汚ぇナリをどうにかしろって言ってんだ。ハラジュクなら服屋のひとつやふたつあるだろ』
潔癖症の里砂の衣服が汚れていることはない。シャツのシワはしっかりと伸ばしているし、着ているものもシンプルな衣服ばかり。間違ってもダサいと揶揄されたことは彼以外にはない。適当な理由がほしいだけだと、里砂もぼんやり理解はしていた。抗えるかと問われると、必ずしも是ではないが。
しかし、よりにもよってトウキョウに行けというのは、言い換えれば「死ね」と宣告されているも同然だった。
人間は突然変異で現れたリコリスという異形に制圧され、交渉という脅迫のもとに首都を明け渡した。かつての二十三区を奪われた日本は政治の中枢を東京都の郊外に移し、国政を今までどおりに動かすという非常事態となっている。リコリスはトウキョウから外に手を出す素振りは見せず、しかしトウキョウに迷いこんだ人間を喰らっていくのだとか。とにかく、リコリスを実際に見たことはない里砂でも、トウキョウに足を踏み入れることは死を意味すると、それだけは脳髄が理解していた。
『……ええ』
死ねと言われたら、死ななくては。貴島里砂の精神は、すっかり疲れきっていた。回らない頭を抱えたまま、鎌倉から電車を乗り継いでいく。トウキョウの入り口まではすんなりと繋がってしまうのが、滑稽な話だった。
トウキョウは、閑散としていた。リコリスが住まう異形と退廃、血と絶命の街。隔絶絶命都市だなんてまるで現実に存在する名前だとは思えなかったけれど、その世界に足を突っ込んだ瞬間悟りを得る。ここはまさしく「俗世と隔たれた場所」だと。
ハラジュクまでは地下鉄に乗っていく。SF映画で見たような低姿勢のロボットが駅員を勤めるシステムにも、暗闇を切り裂く黄金の車体にも、里砂は呆気にとられるしかなかった。しかし驚こうにもそれを伝える相手がいない。オートマチックな街並みと崩れかけたビルの群れが、ここを一層狂った空間にしている。里砂以外誰も乗客がいない地下鉄に揺られながら、彼女はハラジュクへと向かう。
ドロシーと出会ったのは、ハラジュクのクレープ屋の前だった。今まで人の影をひとつも見ずに来てしまったため、異様な空気に呑まれていても身の危険には至らなかった。
『美味しそうな香水のニオイ。若い
『!』
呼吸を乱す。気配すら感じなかった。甲高いソプラノが耳元で鳴ったとき、里砂はようやく警戒心というものを思い出した。圧倒されて呑まれていた、トウキョウという虚空の街。腹を開いて臓物を喰らう化物、と
胸元を大きく開けたカッターシャツと短い丈のプリーツスカートは、女子高生の一般的な装いだ。太股は肉感的で肌色を惜しげもなく晒している。若さゆえの、というやつかもしれないが、喉の奥からせりあがってくるものを堪えるように里砂は視線を逸らした。
しかし、何よりも目を引くのは華の女子高生らしい装いではない。燃え上がる炎にも似た真っ赤な髪だ。毛先をカールさせひとつにまとめたその姿は、華やかという言葉では済まされない迫力があった。苛烈――彼女そのもののような。
恐ろしい。
毒気を微塵も見せない少女に里砂は恐怖していた。
『あ……ッ、あああ……』
『キレイな見た目のお姉さん。なのにどうしたの? 泣きそうな顔して。何かイヤなことでも』
『……リ、コリス……』
「ああ、そっちね」と少女が呟くと、途端に表情から鮮度が消えた。機械的な、あるいは不機嫌にもとれる眼差し。茶色の虹彩がわずかに曇った、そう感じた。
少女が里砂の喉元に手を伸ばす。無造作に見えて繊細に掴まれた指先は、化物とは思えないほど平凡な少女のそれだった。タコができているわけでもない、赤いネイルが施されたカワイイ女の子の手。爪の先端を食い込ませれば里砂の首筋に赤い液体を滴らせることができるだろうに、何故か少女はそれをしなかった。
少女の顔が至近距離に寄る。華やかな顔立ちもあるが、目を逸らせない「何か」が里砂を硬直させた。
『あたしお姉さんのこと気に入っちゃった。キレイだし。食べてもいい?』
『……あ……』
待ち望んでいた言葉が少女から零れた。食べる。咀嚼し噛み砕かれる。行方不明のまま、あの男の前に二度と姿を見せることはなく、空っぽの墓に埋まったふりをする。それもまた、空虚な自分には似合いなのかもしれない。傍観者を決め込んだはずなのに、結局里砂はレールから外れてしまった。最早それも些事に過ぎないが。
『して』
掠れる声で里砂は嘆願した。
『殺して』
つう、と瞳から涙が流れた。乞うように少女の手のひらを掴み、赤いネイルを思い切り突き立てる。玉の深紅が鮮やかに膨れ上がり、溢れて里砂の喉を流れていく。鈍い痛みが脳髄を刺激するが、里砂は構わず続けた。
『殺して。食べてもなんでもいいから、私を早く連れていって』
『……どこに?』
思わず、と言った様子で返された言葉に、今度は里砂が戸惑う番だった。どこに。どこに? おぞましいあの男の手の届かないところへ、そのためのトウキョウだ。逃走はすなわち死を意味するとしか考えていなかったが、日本語が通じる相手に思いがぐちゃぐちゃになる。
『苦しくないところへ』
少女はぱちくりと目を一度瞬きさせ、それから何か考え込むように唸りだした。食い込ませた爪も困惑で力が緩んでしまう。里砂は宙ぶらりんの心のまま、赤い髪の少女が口を開くのを待った。
それから数拍の沈黙。少女はにっこりと、それこそ一輪の花が綻ぶように笑い……里砂にこう告げたのだ。
『じゃあ、あたしと一緒に行こうよ。楽しいところへ』
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