■2 回想……蒼い呪縛

 冴木蒼は俗にいうリア充だった。

 鎌倉の歴史を勉強していると言ったが、そこまで熱心に研究をしているわけではない。見た目通りの軽薄さで、大学生活の八割をサークルに費やしている男だった。ちなみに残り二割はナンパだ。人たらし、と言えば魅力にも受け止められるが要するに八方美人で、誰彼構わず声を掛ける。人との関わりというよりかは、人脈を広げていくことに一種の快楽を見出だしているようにも見えた。


『俺さ、里砂みたいなタイプの女性ひと初めてかも』


 長谷寺のカフェで会話を交わして以降、当然のように連絡先を交換され、なし崩し的に会うことが増えた。それをデートと表現する者もいるだろうが、里砂からすれば蒼に恋愛感情を抱いているわけでもないし、今時男女の友人でお茶することは当たり前だろうと考えてもいた。恋人になる気もなかったのにどうして逢瀬を重ねているかと問われれば……弟のような彼が「また会いたい」と懇願したからに他ならない。それが彼のテクニックであることはさすがに気付いたが、その頃には里砂も蒼に弟以上の感情を抱くようになっていた。

 人間というのは単純だ。現金すぎて反吐が出る。そんな枠の中から出られない自分にもまた、里砂は辟易していた。


『ねえ里砂。俺たち付き合ってみない?』


 もう弟のように可愛がることはできないと、里砂も蒼もわかっていた。小動物のようにひたすら撫でていたくなる愛らしさも、男としてのそれに変わるというのなら。今までの、他意のない喫茶店での日々に違う意味を与えるというのなら。里砂に「その先」を見せようと、蒼は誘ってきた。

 里砂は男性経験が豊富とは言えなかった。人をして「気持ちがわからない」と言わしめた女だ。どれだけ淡白で見物人を決め込んで風景を眺めてきたか、自身が一番知っている。同時に、蒼という未知のタイプが「新世界」に見えたのもまた確かだった。


『……蒼にはたくさん女の子がいるじゃない』


 どうして私なの、と聞いた時点で里砂は彼に呑まれていたのだと思う。箱入り娘の箱をこじ開ける男に、里砂は多くを期待してしまった。蒼は出会ったときと同じ、人懐っこい笑顔を綻ばせて告げた。


『そうだよ。たくさんの女の子の中で、里砂が一番素敵だと思ったんだ』


 ……貴島里砂は普通の女だった。恋をして、結婚して、子どもを産んで。そんな将来設計を考える程度には、社会一般のレールから大きく外れることもなかった。人生も思想も愛情も。リコリスの住まう街に身を投げることだって、きっとせずに済んだだろう。

 冴木蒼に出会わなければ。


 結論だけ言ってしまえば、冴木蒼は二面性のある男だった。愛想の良さと憎みきれない振る舞いは、里砂が感じたように女に「見捨てられない」感情を芽生えさせる。仕方ないな、と気づかないうちに上から目線に彼を庇護し、構ってやりたいと願うのだが……冴木蒼の真価はその先にあったと言える。

 里砂が見たいと期待してしまった「その先」に待っていたのは、甘い恋人生活でも快楽の海でも何でもない。奴隷と主人、そんな暴虐の続く関係だった。


『んだよテメェふっざけんなよ!』


 拳のような重みを感じる平手打ちが、毎日里砂を襲った。付き合って数ヵ月で同棲をねだられ、親を説得して手に入れた一人暮らしの小城は瞬く間に蹂躙された。彼との生活のすべてを目撃している脆弱な牢と化したこの空間で、里砂は蒼に暴力の洗礼を受ける。

 DV、という言葉もすっかり浸透してきた世の中だが、里砂には何もかも初めての経験でどうしたらいいのかがわからなかった。最初はどうして殴られたんだったか。同棲を始めたことで彼の舌を満たそうと、慣れない料理に手を出したことがきっかけだった。天真爛漫に映っていた彼ならば多少不格好でも「美味しい」と言ってくれることを、期待しなかったわけではない。浅はかにも里砂は優しい彼を待ち望んでいた。


『よくもこんなブタ箱みてぇな飯を俺に食わせようと思ったな、ええ!?』


 何を言っているのか、豹変した彼を冴木蒼と受け入れることができず、里砂は目を白黒させていた。反応の悪さも蒼の逆鱗に触れたらしい。「黙ってないでなんとか言え」と、さらに重い一撃が腹に入った。さすがの鈍痛に獣のような唸り声をあげ、里砂はフローリングにうずくまった。

 信じられない。何が彼をさせた? 私が? 私が美味しくないご飯を彼に与えようとしたからいけないの――?

 きっと悪夢を見ているのだと、里砂は思うことにした。長谷寺でボールペンを拾った彼。カフェではにかんだ彼。そのどれもが貴島里砂の信じる冴木蒼であり、目の前にいる男は少し、虫の居所が悪いのだろうと結論付けた。出会って最初の数ヵ月で築き上げてきたものを、里砂は虚構だと受け入れることができなかったのだ。


 ところが、冴木蒼の暴力行為はエスカレートする一方であった。夜に帰ってこないことは増えていったし、たまに帰宅したかと思うといちゃもんをつけて里砂を殴りにかかる。左頬が鏡も見られないくらい赤く腫れるようになった。目につく場所に暴力の痕を残すのは初心者ビギナーのやることだが、蒼はそれすらも自らの所有痕に変えてしまう横暴な男だった。

 里砂は追い詰められていく。潔癖症に端を発する完璧主義が、ますます彼女を殻に閉じ込めた。「ご飯を美味しく作れない私が悪い」「あんなに笑っていた蒼を不機嫌にさせる振る舞いがあった」――自己嫌悪をこじらせていく里砂の姿は蒼白く、食事をしても吐き出す日々が増える。自傷行為に走らなかったのは、彼がそれ以上の痛みを与えたせいかもしれない。


『お前さ、なんで生きてんの?』


 大学卒業の春、かろうじて単位をとった貴島里砂は、それでも冴木蒼の呪縛から解き放たれることはなかった。どうして生きているのか。それはこっちが知りたい。痣になった頬をファンデーションで無理矢理薄くし、家族には努めて明るい声で電話する。友達とも睦まじく過ごし、表面上は何の問題もないように振る舞った。それが蒼の命令おどしだったから。

 逃げられなかったのだ。出会ったときのはにかんだ彼が忘れられなくて、それを取り戻したくて……里砂は五年近い歳月を蒼のために捧げた。

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