黒紅篇 ルージュ ト ノワール

■1 回想……マワル・ロンド

 燃え盛る赤を、彼女は憎んでいる。


 認めたくはなかった。視界にちらつく炎を。自分はただ、獲物を斬る剣であると信じたかった。求めるものは強さ、とは少し違う。斬ることは存在意義と同じ言葉だ。血をすするおのれと肉を断ち切る音が彼女の世界だった。黒百合を預かったときから、斬ることに邁進する自分は変わっていないはずと。言い聞かせていた。

 そう嘘をついた。


「なんで……なんで、なんでぇっ!」


 泣き喚く標的は、正直拍子抜けするほどの無能だった。マダムからの指示にあった、殺すべきリコリスのリスト。あの人は「間引き」と呼んでいた気もするけれど、彼女には呼称なんて些事だ。彼女が固執するのは黒百合を背負って生きるための責、だけのはずだから。

 若草……と命名されていたか。その無能なリコリスはえぐえぐとしゃくりあげながら、オシアゲの地下迷宮に身を投げた。マダムの管理する地下鉄に乗るつもりらしい。追跡は容易だ。シンジュクではなし、隠れんぼに興じるような遊び心を彼女は持ち合わせていない。


 迷わず地下鉄に乗り、その姿を捕捉して斬り殺そうと。彼女は腰の黒百合に静かに手を伸ばした。


「……!」


 貴島きじま里砂りさの姿を見るまでは。

 ざわつく。胸の奥がじりじりと焦げていくかのよう。息が乱れ、詰まり、歯を軋ませる音を聴いて彼女は我に返った。貴島里砂。知っている、一度見たことがある。どうしても忘れられない、斬りころし損ねるという屈辱を刻み込んだ、あの女の――


「……行かなければ」


 会いに行かなければと、彼女の薄い唇は紡いだ。斬らねばと。魂が雪辱に燃えていた。あの鮮やかな赤を、彼女は結局忘れられずにいた。冷静を心がけていてもどうしてもぶり返してしまう。無双を誇っていた刀剣少女リコリスには耐えかねるだった。負けに等しかった。斬れなければ、それは勝ちなどではない。

 殺さなければ、と少女は繰り返す。若草の処分はもう少しあとでもできる。貴島里砂はきっと烈火のリコリスに会いに行く。ならば地下鉄で事を起こすのではなく、彼女が烈火のリコリスと会うまで尾行すればいいのだ。


 噛み締める。歯ではなく唇を。赤い血が滲むことはない。血は飲み下し、自らの糧とすべきものだ。昏い憎悪を黒檀の瞳に宿し、クロユリは車両の屋根に飛び乗った。


 ***


 緋色の髪。燃え盛る炎を具現化したかのようなその色は、ドロシーという少女にぴったりとも言えた。人工的に染められたはずなのに、日本人の典型とも言える茶色の瞳とはミスマッチのはずなのに、ドロシーがインストールされるとたちまち。その絶妙なバランスをどう表現するのか、言葉では難しいなと里砂は思い悩む。キレイとかカワイイとか、そういう見目を着飾る言葉は適切でない。何といえばいいのか……ドロシーの燃える髪を、彼女のだと里砂は思ったのだ。


 初めて会ったときのことを思い出す。貴島里砂の、運命の日だ。


 本来であれば里砂は一般人として一生を歩み、リコリスとは無縁の鎌倉の地で命を終えるはずだった。離婚も別居もしていない、難病も抱えていない。平凡で健在な両親の間に産まれたのが里砂だ。出生について特筆することもない。特筆することもないくらい、当たり前であることが幸せな家庭だった。

 小・中・高と陰湿ないじめの被害者になることもなく、かといって加害者に与することもなく。言い方は悪いが傍観者を決め込み、見て見ぬふりをして「当たり前の風景」を生きてきた。十二年の学校生活で飛び降り自殺を目の当たりにすることもなかったし、教室の空白の机に何を思うこともしなかった。冷めているわけではない、無感情なわけでもない。ただ、貴島里砂は干渉しないという意味において、クラスの誰よりも残酷だったと言えるかもしれない。


『貴島さんは何を考えているかわからない』


 いつか、誰かが放課後の教室で囁いていた言葉。ああその言葉は真理だったろう。そういった雑音ノイズを真に受けるほど里砂も暇ではなかった。否、心のゆとりがなかった。彼女のなかで確立されていた完璧なる心の平穏、それを乱す環境の変化を許せなかっただけで。正義に駆られることもなく、己の潔癖症あくへきを押し付けないためにひたすら己を律していた。


 変化。そう、自分で自分の箱を作り、テリトリーを守っていた里砂にとって、致命的な変化が大学生のときに訪れた。

 大学は地元……鎌倉にある方が親の目も届くと、特に異論もなくそこに進学した。仏教に関する研究をしていたが、別に熱心なわけでもなかった。欲しいのは学徒である自分の偶像だけ。あるいは就活のときに話すエピソードを作るため。地元のくせに一度も訪れたことがない長谷寺にも、このとき初めて行った。


 に会ったのはそのときだ。長谷寺で信心深くもなく、氷のような心を抱えたまま仏像を見上げていたら、背後からそっと声を掛けられた。


『お姉さん、これ、落としましたよ』


 お姉さん、と呼ばれたものの、相手だって年齢はそう変わらない。白に近い金髪が目に眩しい、いかにも軽薄そうな男だった。肌が浅黒かったり耳に大振りのピアスなんかつけていたら、江ノ島や湘南にでも転がっていろと暴言を吐いていただろう。だけど笑顔は憎めないほど可愛らしいし、どうしてか庇護欲を誘う。言うなれば背伸びをしている弟を見ているような心地、だろうか。里砂は彼にそんな「放っておけない感情」を抱いてしまった。

 男が差し出したのは確かに里砂のボールペンだった。レポートのためにメモを持っていたが、ポケットに手を突っ込んだ際に落としてしまったのだろうか。警戒をしつつ、しかし人懐っこい笑みの青年を無下にもできず、里砂は中途半端な仏頂面でボールペンを引ったくった。


『……ありがとう』

『どういたしまして。お姉さん、仏教の研究してるの?』

『ええ、まあ。大学の方で専攻して……』

『ほんと!? 実は俺もなんだよね。いや厳密には鎌倉の歴史の方なんだけど、まあ仏教も鎌倉の歴史では触れないわけには行かないっていうか』


 流れるようなタメ口に、里砂はぽかんとしていた。抗議するタイミングを逸していた。ボールペンを受け取り、そそくさと立ち去ればいいものを、青年のマシンガントークに圧倒されてしまい……つまり、彼のペースに巻き込まれてしまったのだ。いわゆるナンパというものを初めて経験したのもあり、里砂には何の対策も打てなかった。


『ああ俺、冴木さえきあおいっていうんだ。お姉さんは? 近くにいいカフェ知ってるんだけど、そこで仏教の話もっと詳しく聞かせてよ』

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