■6 暴れまわる
食べたい。そう思ったのは、何もリコリスになってからではない。口に含んだ鉄の味、それで成分やら人となりやらが理解できるなら、それがえみりの特殊能力になったのかもしれない。だが、特別な力なんて彼女にはない。食べても食べたという結果しか残らないのだ。食べたいと思い、知りたいと願い、鉄の味を知った。それでえみりは満たされる。
「私を、食べるの」
リサの声は僅かに上擦っていた。恐怖に起因するものだろうか。えみりは相手の心情を推し量ることはできても、読み取ることはできない。だから強張った顔からリサの様子を観察するしか術はない。少なくとも、余裕綽々ではなさそうだ。虚勢を張っている、と言ってもいいのか。
――ああ、ゾクゾクする。
新しいリサの顔を知ることができた。食べたらきっと、もっと素敵な顔を見せてくれる。「知りたい」の肥大化をえみりは止めなかった。それが本能だというのなら、なんて甘美でとろける感覚なのだろう。
「あたしグルメでもなんでもないの。むしろ舌はバカかも。だからね、リサさんすっごく美味しいのかもしれないけど、ゆっくり味わって食べることはできないと思う」
ポテトチップスを頬張るみたいに、一思いに完食してしまいそう。
「!」
リサの瞳に明確な敵意が宿った。先程までの怯えと警戒の混ざったものではない。短い髪の一房が彼女の頬を掠めるけれど、気に留めず精神を集中しているようにも見えた。真剣な眼差しに射抜かれて興奮するような
えみりに武器なんてない。平凡なリコリスだもの、その牙で喰らって堪能するだけの生き物だ。
「壁ドンって、夢見てたんだよね」
反対側の座席にリサを追い詰めようとする。えみりが一歩踏み出したのと同時に、リサは脇をすり抜けて逃げた。試み。挑戦というワードも別に嫌いではない。変質は平凡なえみりにとって憧れにも似た個性だ。人間のときとさほど変わっていないからこそ、えみりは自覚しない狂気に侵食されていくのに。
隣の車両に逃げたところで、誰かが乗っているとも限らない。だがえみりとリサしかいないこの車両に留まることが事態を好転させないと彼女は考えたのだろう。えみりだって黒曜のリコリスから逃げるために地下鉄に飛び乗ったわけだし、理屈は変わらないのかもしれない。
「誰かッ! 誰かいない!?」
「イケメンに追い詰められて、迫られて。ゾクゾクするよね、女の子のロマンスよね。でも存外するのも悪くないって気づいちゃった」
防音ではない地下鉄を利用してリサが叫ぶも、特にこちらに向かってくる足音や人影はなかった。隣の車両も空っぽと見て良さそうだ。それでもえみりから逃れようと隣に移動しようとするリサを、ついに端っこに追い詰めて捉えた。
「……っ!」
「だってさあ」
車両をつなぐ透明なドアのノブに手をかけたリサを、えみりが制する。右手を掴んで、ガラスのドアに張り付けて。乙女が夢見た「壁ドン」の視界には、驚愕に彩られた
「こーんな近くで、リサさんのことがたくさん知れるんだもんね」
「やめ……っ」
味見をする感覚で、えみりの蛇に似た舌がリサの頬を舐めとった。執拗に、なまあたたかい感覚がリサを襲っているだろうことは容易に想像できた。嫌悪か何かに支配され、きつく目を瞑ったリサにえみりは更に快感を覚える。
「……ん。ああ、やっぱり美味しい。リサさん、ぎゅって目瞑るとキス待ちみたい」
「ふざ、け、ないで」
「本気で思ってるのに。唇はどんな味がするの? もっと教えて」
べろ、と出した舌を前に身を引こうとしても、逃れる先はどこにもない。それでもリサは顎を高くあげ、えみりの舌から己を遠ざけようとする。頬の唾液が伝ったあとも、本当はごしごしと拭いたくて仕方がないだろうに。結構なことだ、とえみりはほくそ笑む。
「あたし、リサさんみたいなお姉さんが欲しかったな。優しくて諫めてくれて、でも最後には身体を捧げてくれるの」
「冗談も大概に」
「恋愛するなら男の人がいいけれど、つまみ食いする程度なら誰でもいいかなってあたしは思ってる。あたしはとにかく、素敵な人のことをたくさん知りたいだけなの」
献身的。好奇心の塊。むしろ擬人化。もはや異形化。知的なんたらと頭につけることもあるが、えみりの探求心は小さな災厄に他ならない。一方的な興味の押し付け。それでえみりは満たされる。
満たされない。もっともっとと、骨までしゃぶりつくす。
「リサさん、恋人いる?」
「は……」
「いたら悪いなって。あたしがこんなにリサさんのこと占領しちゃって。ジェラシー強い男だったらどうしよう、でもリサさんが好きになった人ならあたし」
新たな獲物を見つけたと言わんばかりに、えみりの両目が爛々と輝く。
「その人のことも知りたいな」
「――――」
地下鉄が、徐々に減速していく。クダンシタに着いてしまったのだろうか。時間はたっぷりあるからと遊びすぎた。メインディッシュにありつかず、オードブルだけ食べて満足するような腹ではないのだ、
名残惜しさに身を焼かれそうな思いだが、えみりは改めてリサを拘束する。もう両手は抵抗しないだろうと、肩をガラスのドアに押し付ける。追い詰めた。チェックメイト、というやつだ。
だというのに、
「あなたが、あの子を食べる? 無理よそんなの。だって」
艶然と微笑むリサは、今日見たなかで一番美味しそうな顔をしていた。カメラで切り取って脳裏に刻み付けておきたいくらいに。
残酷に彼女の唇は紡ぐ。
「あなたには理解できない。私が愛した
若草えみりの首から上が芸術的なまでに吹き飛んだのは、その直後だった。
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