■4 嗅ぎまわる
地下鉄が止まる。キンシチョウ――どうやらシブヤ方面の路線に飛び乗ったようだ。どうせならシブヤまで行ってしまおうか。オシアゲに比べれば人の数は多いし、同時にリコリスも増えているわけだが、とにかくえみりは遠くへと逃げたかった。シブヤから別の路線に乗り換えてしまうのもいい。そうだそうしようと、えみりは心に決めた。行き先が決まるまでは漠然とした不安もあったが、とりあえずの場所が決まると不思議と気持ちも軽くなるものだ。
「あたし、シブヤに行くことにしたわ」
「……行くことにした?」
苦渋の顔で沈黙を守っていたリサがゆっくりと問い返す。えみりが努めて明るい声を出したのも効いたのかもしれない。終点まで隣で無言を貫くのはえみりには無理そうな話だ。えみりはにやりと笑って言う。
「うん。リコリスから逃げるだけで、正直どこに行けばいいかわからなかったから。ひとまずシブヤを目指して、あとのことは着いてから考えようと思って」
「ポジティブね」
「そうなの?」
「考えなしとも言うけれど」
「ひどい」
ごめんなさい、とリサは困ったように笑う。泣いているわけでもないのに、なんだか辛そうだった。
「私の連れを思い出す明るさだったから」
「リサさんが会う予定の人?」
「……ええ、そうよ」
踏み込んでいいものだろうか。えみりはどこか憂いを帯びた妙齢の女性に対して、ひとつの戸惑いを覚えていた。たとえば友達ならば、悩みや繊細な問題にも突っ込んでいける。それだけの付き合いが前提としてあるからだ。しかしリサは違う。他人だし、どうやらワケアリの様子である。果たしてこれから会う予定だという人について聞いていいものなのかと。
「あの、リサさん。嫌だったら答えなくていいからね」
「何かしら」
それでも、野次馬根性というか、「知りたい」という気持ちはどうにも抑え込めそうになかった。
「これから会う予定の人って、どんな人?」
リサは一瞬目を丸くした。不快そうな顔ではないが、毒のない表情の変化にむしろえみりが驚く。大人びてきりりとした印象のリサが見せた柔らかい表情だったから。
「そう、ね……天真爛漫、っていうのかしら。明るくて笑顔で、私のことを考えてくれる。素敵な子よ」
「へえ。たぶん女の子だと思うんだけど、もしかしなくてもリサさんより年下なの?」
「ええ。どうして?」
「リサさん、お姉さんみたいにその人のこと話すから」
目を離せなくて放っておけない。リサの瞳は呆れるような、でもそれ以上にあたたかいものが感じ取れた。険しかった眉も穏やかに下がり、薄い唇にも柔らかい笑みが戻っていく。リサはよほどこれからあう少女(と予想する)を大切に、親しく想っているのだろう。えみりにもよくわかるくらいに。
「お姉さん、か……本人が聞いたら不機嫌になるかもね」
少女の見せる顔を想像したのか、楽しそうにリサが声を弾ませる。
「子供扱いするなって。えみりちゃんと同じくらいの年齢だったはずだから」
「思春期の乙女は繊細よ?」
「わかってるわ」
二人で顔を見合わせて、くすりと微笑みあった。地下鉄で出会ってまだ十分も経っていない。だというのにこの打ち解け具合、えみりは貴重な出会いに感謝した。黒曜のリコリスに追われていたことも頭の隅っこにいってしまうくらい、えみりにとって楽しい時間だった。
――ああ、この人と話すことはとてつもなく心踊ると、えみりは自覚していた。
「リサさんと話すの、すごく楽しい。久しぶりに人に会えたからかもしれない」
「えみりちゃんは一人で過ごしてたの?」
「うん。ほんと、寂しくて怖くてたまらなかった!」
「そう……」
同情のような慰めのような、憐れみにも似た沈んだ声。また眉間にヒビが入ってしまうと、えみりはそれを悲しんだ。せっかく出会えた話し相手なのだ。笑顔が控えめで素敵だとも知った。
もっと知りたい。
もっともっと、この時間を永遠にしていたい。
「リサさんはどこで降りるの?」
「えっと……クダンシタで落ち合う予定、だけど」
「じゃあそれまであたしと話しましょう!」
ずい、とえみりが距離を縮めるように身体を前のめりにした。リサはぐいぐい押してきたえみりに困惑しているのか、口を薄く開いて仰け反っている。日本人らしい暗い色の瞳が、答えを探るように虚空をさまよっていた。
「あたし、とっても嬉しいの。リサさんに会えて、こうやって普通のお話ができて。あたし、トウキョウでこんな普通なことできると思わなかったから、この出会いを無駄にしたくないの」
「そう、なの」
「クダンシタまでお互い無言でいるのも嫌でしょ? あたしは嫌よ、せっかく仲良くなれそうなのに。ねえもっと話しましょう? リサさんのこと、もっと知りたい」
えみりの両手がリサの手の甲に重ねられた。腿をぴったりと閉じ、そこに載せていたリサの指先はびっくりするほど細くて白くて美しい。先端まで美しい、とはこういうことを言うのだろうか。
リサは手を重ねられたことに対してぎょっとしていたが、今更身体を強張らせたところでえみりには関係のないことだった。勇気を出して話しかけて、会話をしたのだ。笑ってももらった。これはもう、心を許したも同然であろう。ならばえみりが彼女の手に触れることにも何ら問題はないはずだ。
「リサさんの手、すっごいキレイ」
ディストピア・トウキョウで人間がその辺で美容品を調達することはほぼ不可能だろう。少なくともえみりはその方法を知らない。爪も手入れされ、透明な膜が人工的な光に照らされてキラキラと輝いた。マニキュアもやすりも爪切りも、誰かからもらわなければ手に入らない。
「リサさんはどうやってお手入れしてるの?」
リサの左手薬指を手に取り、えみりはゆっくりと爪の先へとたどっていく。
「マニキュアなんて支給されないと思うの。ってことは、リサさんにはマニキュアを手に入れるアテがあるってことよね。人間ならやっぱり誰かリコリスの協力があるの?」
指の腹でなぞっていく感覚に、疑問がふつふつと沸いていく快感を覚える。知らなかったことを埋めていく悦楽。知りたいことが増えていく傲慢。それはまるで空腹のようで、空白を埋めていく問答はえみりにとって最も楽しい瞬間になっていた。
「ねえ、教えてリサさん。リサさんはどうやってトウキョウで生きているの?」
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