■3 転げまわる

「あなたは……」

「若草えみり、あたしの名前よ。お姉さんは?」

「……リサよ」


 リサと名乗った女性は一拍の空白の後答えた。初対面のえみり相手にどんな名を名乗ればいいか、考えたのかもしれない。えみりにとって名前は相手を呼ぶための記号だ。もちろん込められた意味や愛着もあるからあるに越したことはないが、同時に隠すものでも正直に名乗るものでもないと思っている。名前を忌む人もいるし、素性を明かしたくない人もいる。頭脳派のリコリスなら名前からどんな人間でどこに繋がれていてと調べあげるのかもしれないが、えみりにそんなつもりは毛頭なかった。

 リサが本名でも偽名でもいい。音だけで漢字も知らないし無意味だ。ただ、リサと呼ぶ彼女に親しみを覚えるという意味で、えみりはリサという名を歓迎する。


「素敵ね。よろしく、リサさん」

「ええ……といってもいつまで一緒に話せるかわからないけれど。えみりちゃんはどこまで行くの?」

「え!?」


 地下鉄に乗っていればまったく違和感のない質問に、えみりは大袈裟に動揺してしまった。黒曜のリコリスから逃れるという思いばかりがはやり、飛び乗った鉄の箱だ。行き先なんて考えていない。そも、この地下鉄はどこが終点の路線だったか。魔境とも言われたトウキョウの地下鉄は、路線が多過ぎて何がどこを通るのかきちんと理解できていない。


「いやその、あたしは……あいつから逃げられればどこでも……」

「追われてるの?」

「うん、まあ」


 歯切れの悪い返ししかできないことに、えみりは一種の罪悪感を覚える。リサは見る限り普通の人間だ。えみりがリコリスだとわかったら怖がられてしまうかもしれない。そうしたら間違いなく、彼女は逃げ出す。リコリスは人間を喰らう化物だと、えみりも人間だったときに教わったから。

 もし、自分が黒曜のリコリスに追われていると言ったら……それは許容される「事実」だろうか。えみりだって彼女からは逃げるために特殊能力を使ったわけでもない。急に殺されかけたのだから逃げるという表現も間違っていない。いきずりのお姉さん相手とはいえ、嘘をつくことにえみりは耐えられない性分だった。


 でも。でも、とえみりは思いとどまる。黒曜のリコリスは「同族殺し」として名高いシリアルキラーだ。襲ってきたのが黒曜のリコリスだと言ったら、リサはえみりがリコリスだと見抜くかもしれない。それも避けたい事態だった。だからおとしどころを必死で考えた。


「……リコリスにね、襲われたの」


 妥協点はそこしかなかった。化物に襲われたのだと、えみりは静かに繰り返した。自分を化物と呼称するのは、今も小さな胸をちくりと刺す。

 リサは可哀想に、怖かったでしょうとは言わなかった。てっきり恐怖を共有して慰めてくれるのかと思いきや、冷静な声でこう返す。


「どうしてリコリスだってわかったの?」

「え」


 えみりにとっては予想外の言葉だった。襲われたといえば十分だと思っていたからだ。


「どうしてって……あたし、殺されかけたんだよ? あたしたちを殺そうとするのなんてリコリスしかいないじゃない」

「人間だって人間を殺せるわ」

「こんなに少なくなったのに?」

「少ないからこそよ」


 リサの言っている意味が、えみりにはわからなかった。


「その、リサはトウキョウに来て長いの? あたし、最近来たばっかりだから詳しく知らないんだけど……トウキョウはリコリスで溢れているじゃない。人間はリコリスに喰われるだけ。数も減る一方なのに、なんで人間が人間を殺そうとするの?」


 リサはしばらくの間黙っていた。すぐに答えが見つけられないというよりは、答えを口にするのを躊躇っているような。そんな苦さが、伏せられた瞳から滲んで見えた。

 沈黙が降りた間も、鋼鉄の箱はガタゴトと揺れて進む。明確な目的地のないえみりをよそに快走する地下鉄を、いっそ羨ましくさえ思った。


「殺せるわ。人は人を殺せる」


 リサの手のひらが、そっと左頬に当てられる。傷の見られないすべらかそうな頬をさすっているのに、リサは渋面を作っていた。両の瞳から感情が抜け落ちていく。氷みたいな表情に、えみりはぞくりとした。


「たとえトウキョウをリコリスが支配したって、人間の根っこが変わるわけではないもの。えみりちゃんがトウキョウに来る前、ニュースでたくさん辛い事件を報道していたでしょう」

「……うん」


 連続通り魔、DV、虐待、テロ。人間が人間を殺すことは、現代日本では「当然」のニュースだった。トウキョウに来てそれを忘れたわけではない。けれど、トウキョウにはリコリスがいる。頭上に天敵がいるのにしている暇なんてないと、えみりは思ったのだが。

 リサは諦めたように首を横に振った。


「トウキョウに来たってそれは変わらないわ。殺したいほど憎い人が隣にいたら、たとえリコリスがいても殺すでしょうね。その人が憎い気持ちに変わりはないから」

「そっか。なんだか悲しいね」

「悲しい?」

「うん。結局人は変わらないんだってこと」


 それもそうね、とリサは静かに首肯した。瞑目する彼女の眉間には、苦悶にも見える皺が深く刻まれていた。


 会話は一度途切れる。リコリスについて深く問い詰められなかったことはえみりに幸いしたが、別の思いが彼女のなかでぐるぐると渦巻き始めた。リサの話を聞いていて、より一層強くなった思いだ。


(じゃあ結局、人間とリコリスの違いってなんなの?)


 人間だって同族を殺す。なのにリコリスを化物だと言う。元々は人間だった存在を、リコリスというラベルを貼った途端に枠の外に追い出そうとするのだ。人間は人智を超えた存在に出会ったときにコミュニティから排斥しようとする、と昔何かの番組で見たことがある。頭の弱いえみりにはちんぷんかんぷんだったが、それは今のこの状況を言いたかったのではないか、と思いだす。

 リサは人間で、えみりはリコリスだ。でも会話ができるし思いも伝えられる。意見をぶつけたり理解したりできる。それでも、人間であるリサとの間には触れられない壁がある。「リコリス」という、乗り越えようがないラベルだった。

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