■2 這いまわる

 デーヴィスに投げる硬貨がポケットから出てこなかったときは、人生と思った。右ポケットを探っても百円硬貨の冷たい感触とぶつからない。焦りで指先に冷や汗が滲んでいくのを自覚していた。もう泣きつかれて顔はブサイクになっているのに、踏んだり蹴ったりはもうたくさんだと泣き喚きたくなった。それでも黒曜のリコリスに見つかるのは絶対に避けたいから、しゃくり上げて左ポケットに手を突っ込んだ。出てきたのは五百円硬貨だったがもうなりふりかまってられなかった。えみりはデーヴィスに押し付けるように五百円硬貨を渡し、改札が開くのと同時にホームに駆け出した。遠くへ行きたい、それしかなかった。

 えみりが乗ったのは上りなのか下りなのか、それすらも覚えていない。えみりにとって大切なことではなかったからだ。真っ暗闇のトンネルに一筋の光が差したとき、えみりは安堵と虚脱感でその場に座り込みそうになった。ひんやりとしたホームのコンクリートにお尻をくっつける趣味はないので、よろめきながらもなんとか脚を叱咤したが。


 地下鉄の乗客なんていても数人、基本的には貸切状態が主だ。地下鉄に乗るのは気軽に外を出歩ける存在、つまりリコリスが基本だ。そしてリコリスは何本も走っている地下鉄に偶然乗り合わせるほど数がいるわけでもない。かつての人間に比べれば、ずっと小さな数だという。

 だから、地下鉄の中に一人の女性が見えたとき、えみりは驚きで目を見張ってしまった。しかも妙齢の女性。黒いブラウスに黒いパンツを穿いた、身綺麗なひとだ。廃墟とテクノロジーが同居するあべこべなトウキョウにおいて、かつての東京を歩いていそうなのひとと出会ったことが奇跡に近かった。加えて女性からはリコリスらしいを感じない。えみりもなんとなくで覚えているため、具体的にどうこうと説明ができないのだが――リコリスは気配でわかる。彼女からはその気配を感じない、だから人間だ。リコリスが補食する対象だ。

 まあそれは、人を食べることを良しとするリコリスの話だ。えみりはもっと平和的に解決する。


「あ、あのお……」


 もうひとつ。人間はリコリスがわからない。人間にはリコリスの気配を察知する能力とか、レーダーとか、そんな装置を備えているわけではない。元々人間だったものがリコリスになったなら尚更、その違いは見てくれでは判断できないのだ。えみりが人ではあり得ない動きをしたらバレるかもしれないが、平凡なリコリスと自称する彼女に優れた特殊能力はない。

 恐る恐る乗客の女性に声を掛けたのは、安心したかったからだ。人肌が恋しかった、なんて言うつもりはないが(初対面の人間に抱きついたら変態さん扱いである)、一人で抱え込むにはしんどい経験をしてしまった。同乗した女性には申し訳ないがしっかりしたひとに見えるし、多少の世間話につきあってもらいたい。どうせ目的地までの関係だ。

 女性は声を掛けられたことが予想外だったようで(当然だ)、えみりを見て戸惑ったように曖昧な表情をする。会釈ともお愛想笑いともとれる顔。積極的にえみりと会話する反応ではなかったが、えみりの孤独が勝った。


「お隣、いいですか?」

「えっ」


 明らかに困った返答をされた。そりゃそうだ。車両の中、いるのはえみりと女性の二人だけ。女性の回りには空白の座席が腐るほどある。それなのに「お隣よろしいですか」なんて、下手なナンパでもあるまいしとえみり自身も思う。言葉が足りない、不審者だと思われる。えみりは焦って言葉を続けた。


「いやあの、あたし、すみません変な意味じゃなくって! なんていうか、普通のひとに会うの久しぶりで……お話、とかなんかしたかったり、して」


 紡げば紡ぐほどにどつぼにはまっている気がしてならない。えみりは己の頭の弱さを嘆いた。勉強は苦手だと自覚している。話好きだが話が上手いとは言っていない。加えて初対面の、それもきっちりとしたお姉さんに話しかけるなんてそれだけで緊張する。えみりが人間だった頃の社会を彷彿とさせる感覚だった。

 あたふたと弁明を重ねるえみりの様子をどう感じたのか、くすりと女性が漏らした。口許に手を当て、困ったように眉を曲げて笑っている。これは苦笑の類なのかもしれないが、えみりを許してくれたのならなんでもよかった。


「いいわ。どうぞ、座って」

「……ありがとうございます!」


 心の底から安堵する。ようやく安息地を得たえみりは、深いため息を吐きながら女性の隣にちょこんと腰かけた。低身長であるがゆえにやや浅く座席に腰かけるのは乙女のプライドもある。足をぷらぷらと宙に浮かせるのはみっともないし、情けなかった。

 女性は指通りのよさそうな、サラサラした短い黒髪を持っていた。ディストピアでは稀有な、手入れされた美しい黒髪だ。隣に座ってわかったがほんのりといい香りもする。身支度のためのアイテムなんて、リコリスはともかく普通の人間がそう易々と手に入れられるものではないだろうに。もしかしたら彼女は「牧場」で飼われているのかもしれない、なんて考えた。詳しくは知らないが、お姫様みたいなリコリスがたくさんの人間を囲って暮らしていると聞いたことがある。

 えみりがそうであるように、彼女もまたワケアリかもしれない。慎重に探りを入れる。


「お姉さんは、一人で地下鉄に?」

「一人……今はね。連れがいて、駅で合流する予定なの」

「一緒に出かける人がいるのね」


 いいなあ、と素直にえみりは吐露した。髪の手入れができる人間を警戒すべきだと言っていた頭はすぐに吹っ飛ぶ。結局のところ、えみりはそういったタイプの存在ではないのだ。警戒心は薄れ、女性の同行者を純粋に羨んだ。


「一人歩きは危険だものね。寂しいし」

「お嬢ちゃんは一人なの?」

「お嬢ちゃんじゃないわ、あたしは十八歳よ」


 お嬢ちゃん、と呼ばれたことにえみりは即座に反応した。こればっかりは反射と言ってもいい。子供扱いされることは我慢ならないことだった。

 それはごめんなさいね、と女性は丁寧に謝った。さすがに土下座しろとかまで言うつもりはないから、「わかってくれればいいの」とそれ以上追及しなかった。

 地下鉄はガタゴトとレールを走る。音がトンネルに反響して、時折会話を塞いでしまう。それすらもかつての日常を思い出して、えみりはストレスだとは思わなかった。

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