若草篇 平凡なリコリス

■1 駆けずりまわる

「なんなの、なんなの、なんなのよお……!」


 泣きべそをかいてトウキョウを駆け回る、ひ弱な少女がひとり。年齢の割に小さな背丈、中学生に間違われる童顔、将来有望と言い聞かせている幼児体型。そんな小娘が目を真っ赤にしながら逃げ回っているものだから、まあいたいけというか可哀想というか。肉体的には間違いなく十八歳の彼女、若草わかくさえみりは外見年齢相当の幼さで何かから逃げ惑っていた。


「どうしてっ!」


 路地裏に逃げ込む。かつての繁華街のいいところは、建物が多くて隠れる場所が多いことだ。決してトウキョウの街に詳しいわけではないけれど、とりあえずいりくんだ道をなぞればうまく相手を撒ける気がした。根拠はない。

 ひんやりとしたコンクリートの壁に背中を預け、乱れた息を整える。うまく深呼吸ができず浅く空気を求めようとする胸をぎゅっと掴んだ。肺が何度も膨らみ、しぼむ。慎ましやかでなだらかな丘が唯一膨れる瞬間だ。


「あのリコリス、ヤバいやつじゃん! なんで!? どうしてあたしを狙ってるワケ!?」


 同族殺しと名高い漆黒のリコリス。セーラー服を残酷になびかせて命を刈る姿は死神とも形容できるかもしれない。実際は返り血で染め上げた服をまとう猟奇的殺人犯の方が性質に合っている。黒曜の……と誰かが呼んでいた気もする。とにかくリコリスであることは間違いない。リコリスとしては新米に近いえみりも、その危険性は噂で聞いていた。

 えみりがリコリスとして覚醒したのはほんの数ヶ月ほど前のことだ。世間がリコリスという化物に怯え、トウキョウの外で暮らしている歪んだ時代。えみりもそのおかしな常識の枠の中で暮らしていた。「リコリスの覚醒条件ははっきりとわかっているわけではない。ただ、人間がリコリスに変質するときは憎悪や殺意といった感情が爆発することがトリガーになるケースが確認されている」――よくわからないけれど、ときにリコリスになることがあるらしい。なんていい加減で恐ろしいきっかけだ。そしてえみりも、いつの間にかリコリスになっていた。ぶちギレた程度で化物になるなんて、にわかには信じがたい話だったけれど。


 だがしかし、それはそれ。今は自称「無害」なリコリスである自分に迫る危機を脱しなければならない。肩でしていた呼吸も落ち着いてきた。

 ほんの、一瞬の邂逅。「比較的」平和と言われるかつての観光名所、オシアゲ。スカイツリーはかろうじてその姿を留めているが、外装の白はすっかりはげて薄汚れた錆色になっている。この街を支配する女帝さんは、新たなトウキョウに電波塔を補修する価値なしと判断したらしい。女帝の住まうトチョウを離れ、烈火のリコリスがいるという海沿いのエリアを回避し、猟奇的殺人犯である黒曜のリコリスが好まなそうな人のいないエリアを求めて生きているのに。かつての観光名所も今はただの廃墟だ。人口だって多くない、なのにどうして黒曜のリコリスはオシアゲにやってきたのだろう。

 繁華街……というよりは唯一賑わっていたショッピングエリアを走り回る。動かない自動ドアはとうの昔に蹴破られていたし、エスカレーターは階段となんら変わらない。電気というものの恩恵を受けないこの廃墟において、逃げたり隠れたりするための場所としての役割しか期待できない観光地が妬ましい。えみりはもう一度深く息を吸って吐いた。


 黒曜のリコリスの姿はすぐに捉えられた。見たことがなくてもすぐにそれだとわかった。真っ黒いセーラー服に日本刀をぶら下げている、そんな目立つ情報があれば特定は一瞬でできる。だから、オシアゲの空から殺気かのじょが降ってきたときは信じられない思いだった。予習していたことが現実に。これは噂の勉強していたことがテストに出た、というやつでは?

 ジョークを飛ばせたのも束の間、黒曜のリコリスは日本刀を携えてえみりに斬りかかってきた。もちろん戦闘能力皆無のえみりに勝ち目など万にひとつもあり得ない。煙幕や観葉植物を蹴り飛ばして目眩ましをして逃げてきたのだ。体力も脚力も彼女の方が上。正直、うまく撒けるか自信がない。


「なんで……なんで、あたしが……!」


 答えてくれる黒曜のリコリスには、まだ見つかっていない。


 ショッピングモールの動かなくなったエスカレーターを下り、えみりは躊躇していた。というよりも思案していた。このまま下っていけば地下鉄に繋がっている。デーヴィスに対価を支払うことで現代の遺産とも言えるテクノロジーの力を借りられる。こういうのを渡りに船というんだっけかと、えみりはなけなしの語彙を引きずりだす。勉強は生来苦手なのだ。

 何故考え込んでいるかというと、地下鉄に乗り合わせたらジ・エンドだからである。確かに自分の足よりもずっと速く、地下鉄はえみりを行きたい場所に運んでくれるだろう。しかしえみりは知っている、地下鉄とは動く密室なのだ。もし黒曜のリコリスがしてきたら? 自動ドアが閉まってしまってしまったら? 一秒も待たずにミンチになる、えみりには確信にも似た絶望があった。


「うう……ううううう……」


 半泣き状態で呻いたところで解決策は降ってこない。降ってくるのはリコリスしにがみだけ。時間だけが刻々と過ぎていく。このままショッピングモールで追いかけっこをしたところで、えみりが生き残れる確率はさほど上がらないだろう。

 逃げること。生き延びること。平凡なリコリスであるえみりは、それを最優先に選びとる。


「もう、なるように、なれッ!」


 若草えみりは駅に向かってエスカレーターを駆け降りた。

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