■6 憎悪―ヘイト―

 目を刺すような白が、安らぎの赤に染まっていく。顎を伝い患者衣に伝播していく赤い川を塞き止めることはせず、女は呆然と噛みついたものを見つめていた。

 言うまでもなく絶命している。防音ではないから男の奇怪な悲鳴も廊下まで届いたことだろう。病室に医療関係者が押し掛けるのも時間の問題かもしれない。何をするにしても急かされる状況のなかでしかし、女の心はどこかに置き去りにされていた。


(……なんなの、これは)


 脳髄が歓喜している。アドレナリンだかドーパミンだか、何という名称か忘れてしまったが、身体中を興奮させるようなものが分泌されている気がする。人を殺した。理不尽の前に感情が爆発して、半ば衝動的に自分は人殺しをした。研究者気取りの男を噛みちぎったのだ。口内に残る肉の食感は美味とは言い難い、鉛のような重たい感情とリンクしていく。

 だというのに、その赤い液体だけはジュースのように思えた。味覚が機能するというよりは、そう。


「あ、わた……し」


 喉を震わせて音を鳴らせば、口の端からぼたりと血液が零れた。鏡では見ていられない惨状だろう。己を見ることはしなかったけれど、さぞやおぞましい姿をしているに違いない。何せ真っ赤な海に不完全な損傷をした死体が転がっているのだから。


「――さん! どうかなさいましたか!?」


 名前を呼ばれた。白衣の天使の到着が存外早く、その皮肉さに女は笑ってしまう。ナースコールを求めて空を掴んだ夜は誰も来てくれなかったくせに。どうでもいいときだけ颯爽と駆けつける。それこそが人間の真理なのかもしれない。哲学じみた普遍的思考など、最早何の意味も持たないが。

 ひっ、と、喉に張り付いた悲鳴が看護師からあげられた。普通の人間であれば当然の反応なのだと思う。血の海……転がった研究者の男と血塗れで直立する自分がいれば、きっと同じ結論に辿り着く。けれど確保しようとか殺そうとか、危険分子を阻むためのモーションはすぐに取れないはずだ。得体の知れない恐怖が脳内を支配している間は。

 女の方は違う。はじめての恍惚を堪能したとはいえ、快楽に突き動かされる獣は恐怖よりも俊敏に動ける。


「これは……」


 女は研究者と同じように、看護師の女を射程に捉える。さっきは衝動的に身体が動いたが、今回は違う。自らの頭が命令して、自覚あるままに身体を動かせる。左腕で女の肩を掴み、一気に引き寄せた。怯えたままの非力な贄に何ができようか。「なに、え」と戸惑いの言葉を短く漏らしたのを最後に、彼女は絶命した。

 血を美味しいと思うなら吸血鬼らしくと、女は首筋に美しい八重歯をめりこませた。別にストローのような吸引機能があるわけではないから、啜ろうとしても口の端から溢れてしまうのが難点か。口いっぱいにひろがる耽美な味わいに女は酩酊した。


(いい)


 女の脳髄は繰り返す。


(とても、いい)


 まるで絶頂にも似た快感。本能にも類する喜悦。ああ、この身体に吸血これは必要不可欠だと、刹那に女は悟った。麻薬にも例えられそうな中毒性だ。かといって律することでどうにかなる代物でもない。この喜びがなければ己は生きることに意義も見いだせないだろうし、禁断症状の果てに自分で自分の皮を剥いでしまいそうだ。本能で理解した。これが遺伝子を弄くられた代償なのか、食虫植物でも混ぜられたのか、理屈をこねることはできたがきっとどれにも当てはまらない。ただ自分は道を外れた。人ならざる快楽を覚えたてのだからもう人でなしなのだと。


「ば……けもの」


 あとからあとからやってくる医療従事者を、ことごとく喰らっていく。そのうちの誰かが絶命時にそう揶揄したが、何も驚くことではなかった。人ではない――女は指摘される前に、自らの異常性を自覚したのだから。

 臓物の詰まった腹を切り開き、中身を暴きながら女はひとりごちる。


「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」


 ああ、醜い。人の中身を喰らうことで狂っていく。そんな生き方しかできなくなった己はなんて醜く……輝いているのだろう。切り売りする臓物も、繰り返す治験も、もう必要ないのだ。首が回らないほどの借金だって人の理だ。そんな狭い枠の中で生きることはない。女はもう、人間の理不尽に縛られることはない。それを自由と呼びたくはなかった、それすらも人の定義した言葉だから。


 さて。

 は、デザートを味わいながらこれからについて思案していた。綿のはみ出したボロボロのソファの座り心地は最悪だ。待合室だからと経費を節約しているのか。

 素知らぬ顔で人間社会に溶け込むつもりは毛頭なかった。化物になる前の己の仮初に戻る必要もない。異形の力と、研究者への憎悪。それを殺戮で昇華してしまうにはあまりに惜しい。


「……なら、そう。復讐ね」


 作ればいい。己の「復讐」というカタチを。金がすべて、弱者はいたぶられるだけの世の中への反旗を。ご大層な御託も大義名分も必要ない。ただそう、この景色をもっと見ていたい。増やしていきたい。病院という空間に並ぶ死体たち、その上に座る自分はひどく居心地が良かった。だから、どうせ力があるののならこの景色を

 己を咎めるもの、馬鹿にするもの、揶揄するもの無視を決め込むものすべてを……掌握し、踏み潰してしまえばいいのだ。


「たったひとりの化物に蹂躙される国家……ふふ、ふっ……!」


 ゾクゾクとした快感がこみあげてくる。その悦びに女は身体を震わせた。想像だけでは足りない。もっと、もっとこの快楽に身を浸していたい。人間の作ったルールを支配し、壊し、食らい尽くすのだ。


「殺してやるわ。この世界全部、私が……」


 彼女のことを「リコリス」と最初に呼んだのはどこの学者だったか。マダム・カメリアと名乗る謎めいた女が突如として集団虐殺を初め、全国民の命を人質にして国家とをする。人ならざる彼女の異常性を究明した彼らが「リコリス計画」のところに辿り着いた、由来があるとすればきっとそこだろう。

 計画当初の「進化段階」を大きく超越したマダムは、己の身体を更に繁殖できる個体になった。リコリスが新たなリコリスを産む。リコリス計画を元にして更なるリコリスを作り出す。ただの女であったはずの彼女は、いつしか国を喰らう悪の華に成り果てていたのだった。

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