■5 開花―ブルーミング―

 リコリス計画とは新しい人間を産み出すことです、と研究者を名乗る男は告げた。

 深夜に焼かれるような「拒絶反応」に耐えて一晩。鎮静剤が効いてきた頃にはもう夜明けを迎えていて、女の声は完全に嗄れていた。身体中は汗でぐっしょりと濡れて、押さえつけられていた手足には赤い痕が残る。下手な人造人間よりも手酷い改造だと、今なら振り返ることができる。

 夜が明けて、男は改めて女に説明をしにやってきた。「峠を越えたあなたはですから」と、見た目に大きな変化はないのに妙な確信をもって言われた。どこが新しい人間だというのか、女にはその変化を自覚できていない。


「遺伝子組換え技術、というものが存在するでしょう? より強く、より優秀な個体を産み出すために設計図を書き換える技術。私はその着想に感銘を受けたのです。ならば人間もより強くと」


 女の背筋を汗が一筋垂れていった。ならば自分は書き換えられた? 何を? 普通に生きていてはあまりにかけ離れた異常さに、女は目の前の淡白な男に恐怖さえ覚え始める。


「トランスファー・ヒューマン・バイオロジー。日本語で言うのならとでも表現しておきましょうか。私はより完璧な人間を作るために、人間の遺伝子を他の生物の遺伝子と掛け合わせることにしたのです」

「改造って……じゃあ、私は」

「あなたには植物の遺伝子を組み込んであります」


 さらりと言われた言葉に女は二の句が継げなかった。


「そんな……コト……」

「出来るんですよ、私が信頼した学者ならね。遺伝子単位での作業は生物学だけではなく医学的な見地も必要ですから、実に苦難が絶えませんでした。けれど私は成功した」


 正直理屈はどうでもよくなっていた。急に小難しい学問の話をされてもすべては理解できないだろう。女にとって大切なのは、自分がとんでもない倫理的冒涜とも言われかねない実験のモルモットにされたこと、己の身体はどうおかしくされてしまったのかだった。


「植物の遺伝子を組み込まれたあなたは、まあ簡単にいうと人間よりも長い寿命を手に入れました。細胞もいくつか若返っていますから、老い方も人間のそれよりはゆるやかになるかと」


 あとは要経過観察です、と男は告げる。


「拒絶反応が落ち着いたとはいえ、今後どう細胞が同調していくかは見守っていくしかありません。私としても貴重なデータは次の世代に残しておきたいのです」

「……デメリットは?」


 震える声で女は問いかけた。ベッドの無機質な白が目にしみるほど痛い。


「こんな公にできない人体実験の、リスクは? 私の身体の拒絶反応が激しくなったらどうなるの?」

「……ああ」


 まるで今まさに思い出しました、と言わんばかりの白々しさだった。棒読みみたいな台詞に怒りさえ覚えた。わかっている、この男はわかっているはずだ。クローンとか遺伝子組換えだってあれやこれやと叫ばれるご時世に、人体に他生物の遺伝子を組み込むなんておいそれと認められるはずがない。非難を浴びるに相応しい理由と危険があるはずだ。

 男が躊躇ったのは一秒だけだった。さっきと何ら変わらない、怒りを煽る淡々とした口調で告げる。


「最悪の場合死にます」

「――ッ!」


 殴りかかろうと身を乗り出すも、左手の点滴チューブが大きな枷となった。ガタリとポールにぶつかり、点滴パックの液体がゆらゆらと揺れる。脳に直接鳴り響くような大きな心音が、自身の興奮の程度を物語っていた。鏡なんて見なくてもわかる。自分は鬼のような形相で淡白な人でなしを睨み付けていると。


「なんてこと……なんてことをしてくれたの!」

「最悪の場合と言ったでしょう。あなたは峠を越えた」

「死ぬかもしれない実験に一般人を巻き込んだってこと!?」

「書類、同意したでしょう」


 男は冷淡に言い放った。治験を受けるにあたっての同意書……確かに、始める前に署名をした記憶がある。臨床実験のなされていないものだからどんなリスクも負いかねるとか、自己責任に近い表現があったような気もする。しかしそれは治験に参加するに当たって毎回見てきたような文言だ。まさか人体を弄くられる薬を飲む羽目になるなんて、微塵も想定していない。

 食い下がろうとする女に対して先手を打つように、男は静かに論証する。


「どんなリスクも承知で治験に参加するとあなたは署名した。今更反故にするわけではないでしょう」

「植物人間になるなんて聞いてないわ!」

「書面上は何の不備もありません」


 書面、証拠、手順。男は理路整然と狂った理論を証明していく。「そんなことは知らなかった」の一点張りである女の感情的な言い分は通るはずもない。

 理不尽、巧妙な罠、詐欺も同然だ。事前のきちんとした説明もなしに書面のサインひとつで自分の人生を転がすようにあつかった。それを言うに事欠いて「自業自得」とは、責任転嫁にも程がある。


「大丈夫ですよ」


 きっととどめは、男の一言だったのだと思う。


「あなたから得た貴重なデータは、今後の被験者サンプルに活用していきます。あなたより完璧で進化を遂げた、新しい人類を産み出すために」


 ……果たして。果たして完璧とは何なのか。進化した人間とは何を定義してそう呼ぶのか。もしも自分をただのサンプルケースとして処理するつもりなら、その「進化」とやらのための捨て石だと言うつもりか。結局自分がどう変わって、どうおかしくなって、マトモに説明されないままに。

 窓の向こうの椿が落ちた。


 きっと、それは女の本能だったのだと思う。憎い、憎い、憎らしい、目の前の飄々とした人間が憎たらしい。点滴のチューブを引きちぎり、立ちくらみでちかちかと点滅する視界も気にせず、女は男の喉元に。殺す、殺す、この憎悪は形にせねばおさまらない――得物を持たぬ女は極めて原始的な方法でその殺意を具現化した。


「あッ、ギ、ア――!?」


 喉笛を引きちぎればもう声は出せない。振動させるはずの声帯も機能しない。ブシャッと赤いねっとりとした液体が噴出する。女は顔面にそのシャワーを浴びた。咄嗟に目を閉じるも瞼の裏にあたたかい赤が染み付いていく。噛みついて開いた口の間から血液が流れ込んできた。


 ――それを甘露と、脳髄が叫んだ。

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