■4 実験―モルモット―

 ***


 女が治験をすることになったのは、正直言って金のためだった。お世辞にも裕福とは言えない家ではあったが、加えて大学の奨学金、とどめに両親の借金を肩代わりする羽目になり、控えめに言っても金がなかった。女がいくら正社員で働こうとも得られる月収には見えない天井があるし、払うべき金に対して入ってくる金はあまりに心もとない。女は禁止されていた副業にいくつも手をだし、どうにか金を工面していた。

 そのひとつが治験だった。一日拘束されてしまうが、溜め込んでいた有給を消化するにも都合がよかった。薬の試飲や健康療法の実施、学説の根拠としてのデータ採取など。臓器を売り飛ばすのは最後の手段にしかったので、五体満足の範囲内で多くの治験に参加した。


「新薬のサンプル、ですか」


 今回の治験も数多い「安全」なもののひとつだと思っていた。臨床実験のなされていない薬品とはいえ、人体に害悪を及ぼすものをおいそれと試すわけにもいくまい。何度も治験を繰り返し、金稼ぎのツールとしていた女だからこそ、その危険性を軽んじていた。


「ええ。経過観察をしたいので、一晩病院に泊まって頂くことになります」


 珍しいことではない。女は休みを取ってその治験を受けることに決めた。実施する場所は聞いたことのある巨大な大学病院で、主催の財団の名前はそれらしい漢字が並んでいたけれどよく覚えていない。

 治験は一日がかりだった。昼間に薄水色の患者衣に着替え、与えられた病室にて待機。他の治験者もいるとかで順番までだいぶ待たされた。個室だったのはせめてものVIP待遇だったのだろうか。他にどんな人が治験を受けるのか、女以外に何人いるかもわからなかった。「期待」した女を複数人ピックアップしていたというのは、後の研究データを解析して判明したことだ。


「いつまでこんなことをするんだ」


 婚約者となった男には病室で派手に絞られた。治験をして金を稼いでいたのは隠していたわけではないが、回数の多さに渋面を作ったのだ。そんなことをしなくても俺がなんとかするから、もっと身体を大切にしてくれ――口先だけの優しさは、しかし女の心に届かない。愛していなかった男との婚約だ。これも財布を共有し、収入を補おうという女の魂胆からだった。端的に言って金。金の亡者であり借金に追いたてられる彼女は、どんな手を使ってでも大金を手に入れなくてはならなかった。心身の心配よりも月々の支払いを気に病んでいた。


「私にはお金が必要なの。あなたに迷惑はかけない」


 借金の金額を言えば、婚約者ごっこをしている男は驚きのあまり閉口していた。無理もない。自分が背負ったものはろくでもない両親の負の遺産なのだから。自己破産する選択肢がないわけではなかったが、今後のことを考えると安易に選びたくはなかった。

 治験に向かう女を、男は沈んだ顔で見送った。かける言葉を見つけられていない。気安く「払うよ」と言えるような単位ではなかった。黙っていたけれど、もしかしたら婚約を反故にされるかもしれない。今心配事があるとすればそれだった。


 今回の治験は「リコリス計画」と呼ばれていた。本来実を結ばない彼岸花リコリスに例えられたその計画は、しかし完全な彼岸花の再現を目指したわけでもない。「実を結ぶ彼岸花を作るように、不完全な人間に新しい可能性を」という抽象的なスローガンからは、女は治験の全容をまったく掴めなかった。今まで通りよくわからない液体を注射されての経過観察。手順自体は普通の治験と同じだったから、惰性で聞き流していたのかもしれない。

「トランスファー・ヒューマン・バイオロジー」とかいうよくわからない学問ジャンルとその研究団体を名乗る男は、こんな感じのことを言っていた気がする。


「これは新しい人類の可能性を切り開く研究です。人口が減少していくこの日本において、より……リコリス計画は人類の未来を明るくするための計画です」


 その結果が、人間を化け物にすることだったとでも弁明するのか。

 女の身体に異変が起こったのは、薬を注射されて十時間くらい経ってからだった。深夜に突然として身体中を蝕んだ激痛を覚えている。病室にて点滴を受け、とりあえず安静にということでベッドに繋がれていたが、こんなにもそれらを煩わしく思うこともなかった。その場で大人しくなんてしていられない。胸をかきむしり、悲鳴をあげ、内側からの炎から逃れられるならどんな手段だってとりたかった。


「あああ、あ、あああああッ!」


 ナースコールに手が届かない。点滴をした左腕に腹が立つ。右腕は爪を立てて心臓を抉りださんばかりの勢いに胸を掻いている。喉を潰してしまうほどの絶叫を繰り返した。滑り落ちたナースコールを拾うほどの余裕もない。

 深夜に泣き叫んでも、連れ添う男はいなかった。いつもの治験だということで家に帰ってしまった。別に愛していないのだからそのあたりを恨むこともしない。けれど、深夜に痛みに苦しみもがくのが己一人だけというのは、何か心臓の真ん中が空虚になった気がした。


 駆けつけた看護師と医師に身体を押さえつけられ、鎮静剤とおぼしき注射を打たれる。それでもすぐには痛みは引かなかった。肋骨の向こう側で咲いた燃える炎が、そんな苛烈な痛みが女を蝕んで燃やし尽くすようだった。


「痛いですか?」


 もう一人、女が暴れる視界の端に捉えたのは、例のトランスファー・ヒューマンなんちゃらという研究をしている男だった。白衣にマスクをした別に目立つわけでもない容姿は、恨めしいほど冷静な言葉を投げてくる。睨んでやったが涙の膜でぼんやりとし始めていた。


「拒絶反応は想定の範囲内です。あなたが時間をかけてそのを飲み込んでいけば、無事に実験は成功します」


 何をいっているのか、女にはすぐには理解できなかった。治験で打ち込まれた薬なのか、今注射されている薬なのか。いずれにせよ、この男は無感情な眼鏡の奥でとんでもない実験をしようとしている。これがただの治験ではないことを、今更ながら女は思い知った。

 病室の窓の外には真っ赤な椿が咲いていた。

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