■8 矛盾
力なく、有栖はその場に崩れ落ちた。剥いた目は光を失い、チェーンソーはその手を落ちる。ズタズタになったドレスはさも激しい戦いを繰り広げたかのような出で立ちだが、有栖もドロシーも、互いが欲する赤い液体を一切流してはいなかった。
ドロシーはもう襲い掛かってこなかった。というのも帽子屋が有栖の姿を隠すようにしゃがみ込んだからだ。二人の関係を完全に察することができないドロシーでも、今この瞬間首を落とすことが野暮だというのは知っている。それに、彼女の獲物であるチェーンソーは髪に奪われてしまった。どのみち殴るしかできない。
「撤退をお願いできますか、烈火のリコリス」
低い声でそう願い出たのは、他ならぬ帽子屋だった。思いもよらぬ要求に里砂は息をのむ。対してドロシーは不機嫌そうに唇を尖らせた。どう見ても不利なのは(チェーンソーを奪ったとはいえ)精神的に壊れた有栖の方だ。
「は? あんた状況がわかってる? そこのリコリスがあんたにとってなんだか知らないけど、たかが人間の男一人あたしなら簡単に……」
「あなたは疑問に思わないのですか」
ゆっくりと、リクルートスーツの男が立ち上がる。無機質な黒で身を包んだその姿は胸板の厚さもあって気圧されてしまいそうなほど。加えて全身黒ずくめというのが、ドロシーに
「彼女がどうして、あなたをドロシーと呼んだのか」
ドロシーの顔色が変わる。挑発的な笑顔は消え、頬の筋肉が強張る。ドロシーというのが「偽名」であるというのは周知の事実だ。通称は「烈火のリコリス」、そして人間たちは彼女をドロシーとは呼ばない。呼んでいるのは里砂とマダム、知っていてもドロシーの手を免れた獲物くらいのものだ。
帽子屋は続ける。
「彼女がどうして、あなたが海が好きだと知っていたか」
妄想ではない。烈火のリコリスことドロシーが海が好きだということを知るものは少ない。それもまた里砂くらいだろう。マダムには特に言った覚えはない。自然と行き先に海辺が増えてしまうのは、あのさざなみの音を聴きたかったから。それが行動パターンとして現れていることに、彼女は気づいているだろうか。
「あなたのことを、この方は理解しているからです。あなたが本名ではなくドロシーという愛称を望んでいたことを彼女は知っている。あなたが海を美しく思い、輝く水平線をずっと眺めていた日々を彼女は知っている。それでもなお、あなたはこの方を妄想の姉だと断言するのですか」
「…………」
手っ取り早い話だ。有栖がドロシーの姉を自称するのなら、家族しか知りえない情報を流せばいい。それこそドロシーの毛嫌いする本名で抱きつけばいいのだ。人間だった時の生年月日なり住所なり、言ってしまえばすぐに解決する。でもそれを有栖はしなかった。彼女自身、そういった発想がなかったからかもしれないが……有栖はそういった方法でドロシーと再会することを望まない。歪んではいても、そこにはひとつの思惟があった。
「受け容れろ、とは言いません。この方がどこかで要らぬ個人情報に洗脳されて、あなたの姉だと盲信している可能性だって否定できない。けれど、もしあなたに完璧な幼少期の記憶がないのなら……この方を殺すのは今でなくてもいいはずです」
ドロシーはしばらく何も言わなかった。それが答えになっていることをきっと若い彼女は理解していない。苦い顔、何か心につっかかりのある重み、殺してしまった場合の消化不良、二度と情報を得られないという確信――帽子屋の言葉にドロシーは自覚がある。即答できないのなら、彼女は部分的に記憶を失っている可能性があるのだ。
「……それともうひとつ」
「何よ」
「こちらはお願いなのですが」
さっきのもお願いだったんじゃないの、というドロシーは目に見えて不貞腐れていた。里砂が窘めるように肩に手を置くが気にする素振りはない。不快になると唇を尖らせて機嫌を損ねるのは有栖と一緒だ。
「もし、この方があなたに助けを求めた時は、どうか力になって頂きたい」
「バカじゃないの?」
ドロシーに嘲笑が戻った。顔に華やかさが宿る。
「さっきまでのヤツ見てたでしょ、あたしとソイツは殺し合ってたの。それがどうして手を組むことに」
「もしも、の話です。ここからは私の個人的な感情で申し訳ないのですが」
そう前置きして、帽子屋は「私見」を述べた。有栖がピンチに陥ってもその場から動かなかった男がだ。
「私たちには頼れる相手というものがいない」
「何よソレ、自業自得じゃない」
「おっしゃるとおり。ですが私はこの方を是が非でも生かしたいのです」
初耳だった。有栖は背を向けた男をぼんやりと見て思う。こいつはこんなにも情熱的な男だったかしら、と。相変わらず言葉に感情は乗っていないけれど。
「私の命を差し出して保証しますが、この方はあなたに執着することはあれど、あなたを悲しませることはしません」
「殺さない、じゃないの? そこは」
「それは保証しかねます。愛ゆえの殺意をお持ちですので」
帽子屋の言葉は面白いほどに真理だった。交渉というテーブルに載せる材料ではとてもない。なのに、それが愉快でたまらない。有栖は喉を鳴らした。
「あなたが悲しむこととは、つまり。そこの恋人を、彼女は絶対に殺さない。それで彼女の理性というものを、信用に値するか判断してもらえればと」
「……ふふっ」
笑ったのはドロシーではない。有栖だ。ボロ雑巾のような姿になってもなお、彼女は輝きを放っている。少女らしい可憐さは理性とともに戻ってきた。帽子屋が背後を振り返り、主人を見下ろす。普段とは違う距離感。いつもよりも彼が近く見えた。
「王女さま」
「もういいわ、帽子屋。帰りましょう」
「よろしいので?」
さっきと同じ問い、同じ口調。けれど有栖を責めるものは存在しない。有栖は困ったように苦笑した。
「もういいの」
帽子屋が身を低くして、ボロボロの王女を横抱きにした。「お姫さまがするものじゃなかったの?」と悪戯っぽく問いかけたら、帽子屋は瞑目して何も言わなかった。無傷の従者はそのまま踵を返す。ドロシーが動く気配は感じられなかった。
無言の妹に対して、姉は優美に微笑む。色欲も愛欲も一切ない、穏やかな春の微笑だった。
「またね、ドロシー。あなたに会えてよかった」
――明朝、有栖は屍血山河となった王国を見ることになる。
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