■6 王子さま

 有栖にとって、彼女は魔法の銀の靴だった。

 運命付けられたような冬の日に生まれた愛らしい双子。可憐な姉と明け透けな妹。有栖たちを表現する言葉はいくつか挙げられるけれど、一番しっくり来るのはお姫さまと王子さまだった。少なくとも有栖はそう信じている。

 アリス、なんて夢見がちな名前をつけられたことに関して、有栖はコンプレックスにも似たものを感じていた。引っ込み思案で飛び出せない、輪の外側で一人静かに本を読む。確かにそんな自分を引っ張ってくれるウサギでもいれば自分はアリスなのかもしれない。だけど有栖の前に三月ウサギは来なかった。代わりに来てくれたのがドロシーだった。


「有栖、海に行こう。あたし海が大好きなの。水平線の向こうまで、キラキラして綺麗なんだよ」


 お姉ちゃんと呼んだり、有栖と呼び捨てにしたり。その日の気分でドロシーは呼び方を変えたが、そのどの響きも有栖にはかけがえのないものとなった。ドロシー、ドロシー、私の銀の靴。ガラスよりもずっと輝いて、不思議と歩きやすい。心地よい靴を手に入れた有栖は海原を見たいと思った。

 ドロシーに何故海が好きなのかときいたことがある。返ってきたのは「だって綺麗でしょ」という、なんてことない理由。山だってビル群だってときには美しく見えるというのに、やっぱり一番は海ねとドロシーは言った。その横顔は海面よりも煌めいていた。


 ***


「私を連れ出してくれた王子さまドロシー、やっと会えた……!」


 隣で呆けている女には目もくれず、有栖はドロシーの首にきつく抱きついた。ぎゅうぎゅうと両腕の力を強めても、ドロシーは「は?」とか「え?」という気の抜けた返事をするだけ。そうよ双子と言えど私がお姉ちゃんなんだから、しっかりしてるのは私の方よねと有栖は自分を納得させた。


「ちょっと、ドロシー? この人は……」


 戸惑ったようにドロシーに詰問するのはスレンダーな女性だった。短い黒髪は手入れをちゃんとしているらしく、家畜とは違って毛先まで潤っている。きっと上等な椿油をマダムから仕入れているのだ。でなければ身綺麗にできる代物をトウキョウで得られるはずがない。ドロシーの洋服だってマダムから簒奪したものばかりだ。城の調度品はシロガネダイにあった家から拝借したものも多いけれど。

 ドレスアップしてよかったなと、改めて有栖は思う。見せつけるように頬を擦り寄せて、柔らかい素肌に口づけを落とした。


「私は有栖。王国シロガネダイの王女で、ドロシーの姉よ」

「姉……?」


 怪訝そうな顔をする女には同情する。有栖の髪は真っ赤とは程遠い朽葉色。瞳は青みがかっていて、ドロシーとの共通点はまるでない。顔立ちもそっくりかと言われると、二卵性だから似通っているとは言えなかった。


「いいのよ、顔に書いてある。でも私とドロシーは正真正銘の姉妹なの。もう何年ぶりか、数えるのもやめちゃったけど私は忘れてないわ」

「本当なの、ドロシー?」


 疑うというよりは確かめるように女はドロシーに問いかける。突然押し掛けた少女が姉を自称して、猜疑心が働くのも無理はない。まあ小綺麗な人間であるぶん頭も幾分か回るようで、キスを落とす有栖に襲い掛かることや嫉妬心を剥き出しにすることはない。ドロシーはひとを見る目があるのねと有栖は妹を評価した。

 有栖に密着され、女に問いを投げられ、ドロシーは返答に困っているようだった。久方ぶりの再会に言葉を失っているのだろうか、と盲目の有栖は耽っていたが、次に出てきた言葉は耳を疑うものだった。


「……え……」


 知らない。知らない? 誰が? 誰を? 有栖はその言語の意味を正確に理解できなかった。口元がひきつる。


「な……何を言っているの? 私のドロシー、私はあなたのお姉ちゃんで」

「確かにあたしはドロシーだけど、あんたみたいなリコリス見たことないし」

「嘘よ!」


 ヒステリーを起こす。有栖は聞き分けのない子供を諭す心持ちで、ドロシーの首根っこを乱暴に掴んだ。ドロシーが不快そうな殺意を向けるが知ったことではない。有栖には証明する義務があった。ドロシーの白いうなじが晒される。


「ここよ、この首をあなたは絞めあげられたの! こう、やって――」

「ちょっ……」

「ドロシーに何をするの!」


 有栖の両手がドロシーの首にかかる。爪の先まで磨かれた美しい女性らしい手が、ぎりぎりと音を立てて妹の首を絞めた。指の痕ひとつひとつが狂気となってドロシーに牙を剥く。警戒のため距離を置いていた冷静そうな女も、これには黙っていなかった。

 女が有栖に掴みかかる。主人の危機だというのに帽子屋はその場から微動だにしない。予備動作くらいあってもいいものをと有栖は舌打ちする。傍観者というのはああいう手合いを言うのだ。そういう「契約」だから、有栖だって本気で助け舟を期待していたわけではないがさすがにカチンとくる、それは我慢ならない。


「ドロシーから離れて、離れなさい!」

「里砂、無理はしないで」

「無理なんていっていられるものですか、あなたが危険なのに」

「っ、人間、風情が……!」


 反吐がでる。ああ、この禍々しい感情をなんと呼べばいいのだろう。人間の非力な女の腕、そんなものに阻まれる有栖リコリスではない。それは向こうの女――ドロシーに里砂と呼ばれていた――もわかっていそうなものだ。それでも理性を上回る感情が、それを良しとしない。なんだこれは、こんなのまるで――


「あなたはドロシーを、愛しているとでもいうの……!?」

「ええそうよ!」


 有栖の朽葉色の長髪を引っ張りながら里砂は言い切った。明らかに二十代の女が、恥ずかしげもなく。


「私とドロシーは!」


 里砂の告白に、辺りは水を打ったように静まり返った。有栖がドロシーの首を絞めるのをやめたからだ。その隙をついてドロシーは有栖を思い切り突き飛ばし、里砂はドロシーに駆け寄る。大丈夫かと声をかけ、すぐにきつく抱き合っていた。ほんの数瞬前まで、有栖がドロシーと夢想していたことだ。


「嘘よ……」


 幽鬼のごとく、ゆらりと。有栖はおぼつかない脚で立ち上がる。やっぱり帽子屋が動くことは無い。明らかに精神状態のおかしい女主人を前にしても、だ。

 里砂が声をかける。ドロシーがそれに応じる。互いの無事を確認し合う二人。そっと頬にキスをひとつ。有栖がドロシーにしてみせたそれを上塗りするみたいに、二人で有栖の痕跡を否定していく。

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