■5 愛しのドロシー

 燻った表情のままダイバに降り立った有栖に、咎める帽子屋の視線が突き刺さる。周囲はすっかり日が落ちきっていた。日が高いうちに王国を出て、午後はずっとカサイでリコリス探しをしていた。海辺にいるかもしれないという曖昧な情報を真に受けて、というか藁にもすがる思いで有栖は探し続けたのだ(無論、帽子屋も伴って)。結果として、有栖の勘は間違っていなかった。彼女特有のが漂っていたから。けれど探せど探せど見つからない。臨海公園を中心に海浜公園にも足を伸ばしてみたが、彼女の残り香があるだけで肝心の姿を見られなかった。

「もう帰りましょう」と帽子屋に諌められたのは夕日が眩しくなった頃合い。だが有栖が諦められるはずがなかった。雲を掴む話が現実味を帯びてきたのだ。間違いなくドロシーはこの辺りにいる、その希望をおいそれを手放したくはない。夜には帰ると言っていた約束は反故になった。


「それで? カサイで見つけられなかったからと言ってどうしてダイバなんですか。残滓はカサイにあったわけでしょう」


 暗くなったダイバは静まり返っていた。無音という訳ではなく、穏やかな波の音がちゃぷちゃぷと寄せては返す。普段ならば心を落ち着けてくれるはずの音も、今の有栖は気にかけていられなかった。帽子屋の説教を真に受けるつもりは毛頭ない。頬を膨らませて視線を逸らした。


「あの子のにおい、公園から外の街に行くほどに薄れていたのよ。てことは公園の中にいないとおかしいじゃない」

「でも見つけられなかった」

「なら、公園の用事を済ませて地下鉄で移動したってことなのよ」

「それとダイバに何の関係が」

「……カサイの他の海辺って、ダイバを候補にあげていたから」


 誰が、とは聞かなかった。有栖が海辺のエリアとしてメジャーどころを想定しただけだ。本能のままに行動し、そのパターンが破綻したリコリスという怪物のなかで、有栖は存外理性的な方だ。餌がほしいなら自分で増やせばいいと考え、実行する脳味噌があるという意味では。しかし、それでもリコリスはリコリスだ。頓珍漢な理屈や駄々をこね、結局彼女はドロシーを諦めきれないだけなのだ。


「それで。いつまでやるつもりです。すっかり日も落ちました、丸一日城を空けるのは好ましくありません」

「どうしてよ」

「あなたの洗脳まほうが溶けたら彼らは逃げ出すでしょうね」


 有栖が苦々しい顔をした。己の王国の統治に懸命なのはいいが、その致命的な脆弱性も見落としているわけではない。一人の王女に心酔し、身を捧げる国民たち。その魔性は有栖が傍にいてこそ発動するもので、接点が減ると心は覚めていく。有栖が無闇な遠出を避け、ひとつの土地に執着する理由もここにあった。複数の王国の経営……有栖のようなカリスマ性を持つ存在が分身して駐在していなければ、それは成立しない。


 言い返せば、大切な王国を離れてでも出会いたい王子さま。それこそが烈火のリコリスことドロシーだった。


「あと一時間だけ」

「ご随意に」


 ただし、その時間はあなたが国民を蔑ろにした時間と心得よ。帽子屋の非情な瞳はそう物語っていた。執事のくせに、ただの人間のくせに――子供っぽい自分が出てしまうと帽子屋への恨み節が炸裂してしまう。だが統治者としての有栖はそれが正論だと知っている。子供と王女の境界線で揺れ動いた有栖は大股で歩き始めた。

 廃線になったモノレールの線路を辿るように歩く。大きな船舶を模した博物館だかがあったはずだ。何か目印になるもの、目的地らしきものを見つけないとやっていられない。ドロシーを探すという本質から有栖の旅路はずれていく。


「……海が好きな理由は、正直私にはわからないわ」


 無言と波音の繰り返しが辛くなったのか、前を行く有栖は回想を始める。色欲の王女としての側面を除けば、彼女を彼女たらしめているコアのようなものなのだろう。


「私たちを引き剥がしたのもまた海だから。波が寄せて……あの子を奪っていきそうで。でもそんな海をあの子は求めているの」

、ですか」


 有栖は沈黙でもって返す。情け容赦のない男である帽子屋は淡々と続けた。


「あなたがリコリスとして開花した事件。それを思えばあなたが烈火のリコリスを恨むことはあれど、愛せるとは信じがたい喜劇です。彼女に会って何をするつもりですか」

「言うまでもないわ」


 有栖は慈愛をたたえた瞳で柔らかく微笑んだ。


「愛してるといってキスをするの」


 理解できません、と帽子屋は肩を竦めた。――本人は愛だと言っていかないが――正気の沙汰ではない。きっと彼女はリコリスになる以前からおかしかったのだろう。帽子屋は主人を理解するつもりはない。理解しようと努めたところで、人間とは相容れない壁があるのを既に知っているから。


「ああ、ドロシー。私の――」


 うっとりとした表情かおをした有栖の足が、ぴたりと止まった。王女さま、何かありましたか――そう声をかけようとした帽子屋は、彼女を見てその言葉を飲み込んだ。言うだけ無駄だ。彼女はこれ以上ないほどの快感に打ち震えている。


「この、におい……あの、髪は……」


 視線の先を追う。朽ち果てて沈没船もどきと化した科学館だか博物館の前に、ぽつんと佇むふたつの人影。詳細な背格好や服装を見るには距離があるし暗く不鮮明だが、真っ赤な髪はここからでもわかる。本当に燃える赤をしたリコリスがいるのだと、帽子屋は内心感激した。有栖が纏った赤の下着はあれよりも深い、ワインに似た赤だ。

 烈火のリコリス、名をドロシー。初めて見る姿でも間違いようがない。


「ドロシー!」


 有栖は駆け出していた。ああ、愛しの、会いたくてたまらなかった王子さま! 不貞腐れた顔は波のさざめきが連れていった。恋をした少女は一直線に、思いを伝えるために坂を下っていく。最後に会ったのはいつだったか。観覧車に乗ったのは何年前だったか。海にさらわれてしまったのは不問にしよう。だってあなたは生きているのだから。

 ドロシー、ドロシーと名前を呼んで駆けていけば、さすがに向こうも気づいたようだ。真っ赤な髪の少女と目が合う。強気で華のある、つりあがった双眸だった。いとしいひと、有栖はそう叫ぶ。


「ドロシー、会いたかった! 私よ、!」

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