■4 烈火のリコリス

 ***


「赤い髪をしたリコリスを知らない?」


 王国に初めてやってきた人間に対して、有栖は必ずそう聞くことにしている。

 リコリスというのは、人間が突然変異した生命体とも言える。人間の腹から産まれるものだし、まあ有栖の例もあるからハーフの子供でもリコリスになる可能性はゼロではない。とにかく理性的な生き物から狂気に満ちた化け物が生まれるという。そしてそこから、人間生活を送り、ある日突然開花する。その明確なトリガーは明らかになっていない。


「赤い髪の……?」

「ええ。人間でもリコリスでも、真っ赤な髪をした女の子は珍しいでしょう? ここに来るまでにそんな見た目の子に会わなかったかしら」


 新入りの男は記憶を辿っているのか、城の天井を見つめたまま硬直している。数秒経ってもその表情が晴れやかになることはなかった。


「……いえ。俺は見たことがないですけど。トウキョウにいるんですか?」

「ええ」


 有栖は強い口調で断定した。


「あの子は必ず、トウキョウのどこかにいるわ」

「噂ですが」


 やはり曖昧な表情を崩さずに、男は視線を王女に戻す。不確かな黒い眼は有栖の視線と重なることはない。


「烈火のリコリスがいる、って聞いたことはあります」

「烈火の……!」


 有栖の声が上擦った。興奮で体温が上昇する。心臓がばくばくと叩く音が早くなっていくのも感じる。天蓋の夜に味わい尽くした――否、マンネリな夜以上の純粋な好奇心。そのたかぶりを有栖は心地よく感じていた。


「ねえ、その烈火のリコリスとやらはどこにいるのかしら!?」

「いやその、あくまで噂ですけど」


 息巻いてまくしたてる有栖に戸惑っているのか、男はしどろもどろになりながら滑舌の悪い口で具体的な地名を告げる。ダイバ、カサイ。海辺を中心に挙げられた土地に、有栖は納得したとばかりに頷いた。


「海か……そうよね。あの子は海が大好きだったものね」


 ありがとう、と王女は優秀な家畜たみに親愛のキスを送った。そっと触れた唇から熱がじんわりと伝う。たった一秒の魔法で男は呆けたようにのぼせた顔をして、それから慌てて応接室を後にした。王女のキスに骨抜きにされてしまったのだろう、よくあることだ。


「どちらに?」

「海のある場所へ」

「無謀が過ぎます」


 男が退去して扉が閉まった次の瞬間から、有栖は外出の用意を始めていた。瑠璃のカーディガンと白いワンピースを迷いなく脱ぎ捨て、濃密な一夜を過ごしたベッドの上に放り投げる。質感の良い下着だって一息に取り払う。帽子屋が控えているのも構わず有栖は一糸纏わぬ姿を晒した。


「マダムの地下鉄があるし、決して回れない距離じゃないわ。あの女の技術に頼るのは不本意だけど、使えるものは使っておかなくちゃね」


 どうせだから真っ赤な下着を頂戴と、有栖は帽子屋に言った。仏頂面を少しも歪めることなく、執事役の男は粛々と仕事にとりかかる。黄金の縁取りがされたタンスから、レースのふんだんにあしらわれた一品を取り出した。受け取った有栖はフリルをまじまじと見てしかめっ面をする。


「タイトめのドレスを着たいの。これじゃあ胸回りが浮いちゃうわ」


 却下された深紅の下着がベッドに投げられる。帽子屋は嘆息したのち、鮮やかな赤の上下を選んだ。ぴったりと身体に吸い付くようなデザインは王女のお気に召したらしい。「そうそう。最初からこれを持ってきてよね」と、わかりもしない好みを押し付けられる。


「とりあえずカサイとダイバ。あとは思い付く海辺を片っ端から回ってみるわ」

「国の方はよろしいので?」

「夜には帰ってくるつもりよ」


 形の整った胸を、小ぶりな尻を、それぞれ赤い下着で包む。言わずもがな烈火のリコリスを意識しての色合いだ。この姿をお披露目したらきっと彼女も自分の魅力に気付くことだろう。

 ドレスは白ではなく空を思わせる水色にした。主張の強い赤い下着が透けてしまっては、はしたない女だと思われてしまう。譲れない勝負下着を密やかに、しかし鮮やかに仕込んでおく。さながら燃え盛る火焔のようであった。


「帽子屋。デーヴィスに投げ銭をしておいて。質の悪い鉄屑でいいから」


 本当に女帝マダムを毛嫌いしているなと、帽子屋は冷めきった目で思った。考えればこれほど道理なこともない。国を治める王女にとって、他国の女帝なぞ自国を脅かす存在でしかない。借りを作りたくないし、いずれは排除しようとするやもしれない。帽子屋は黙して首肯した。


「ああ……今日こそ、今日こそ会いたいものだわ。私の銀の靴ドロシー


 瑠璃色のストールを羽織る。まるでこれから舞踏会に向かうような装いだ。靴はガラスではないけれど、気分は愛しの王子に会いに行くお姫さまプリンセス。そう、ドロシーという存在は有栖にとって必要不可欠な王子さまに他ならなかった。


「行きましょう、帽子屋。会えるなら今すぐにでも会いたい」

「本当に、彼女のこととなると見境がなくなりますね。急に出立を告げられるこちらの身にもなってください」

「それくらいなんとかなるでしょう?」


 小悪魔めいた微笑みには欠片の罪悪感も見受けられない。有栖がドロシーというリコリスを求めてふらりと出掛けるのは、今に始まったことではなかった。今回も同じこと。不確かな噂や伝聞を頼みに、いつ見られたかもわからない蜃気楼を追い求めている。王国を留守にすることもないわけではなかった。その決断が己が生死を分けたのだと、きっと彼女は回顧録に記すだろう。


 デーヴィスに瓶ビールの蓋を押し付けて――光れば本当になんでもいいらしい――有栖と帽子屋は鉄の箱に揺られる。フォーマルなお嬢様とボディーガードも兼ねた側近。二人の出で立ちは地下鉄の乗客としてはあまりに異質が過ぎた。もっとも、貸切状態の車両で見てくれなど気にするべくもない。


「カサイには臨海公園があるんだったかしら」


 地下鉄に揺られながら有栖は知識を整理する。


「ええ。あとは生き物のいない水族館と、錆び付いた観覧車が」

「観覧車……恋人たちの定番アトラクションね」


 有栖は懐かしむように笑った。トンネルを突き進む地下鉄の窓に、優しげな横顔が克明に浮かび上がる。


「私もね、小さい頃に乗ったことがあるわ。あの子はてっぺんが大好きで、何回も乗ろうとせがまれたっけ」


 また乗りたいものね、と有栖は穏やかに言った。

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