■3 劣情

「人間とリコリスの間に産まれたものは、最早人間と呼べないのでは。……きっと、理性ある人間ならばそう言うでしょう」

「あら、半分はちゃんと人間よ?」

「純血でない以上人間とは呼ばない。半分は化け物リコリスの血を持っているのだから、と」

「なんてこと!」


 心外だわ、と有栖は大声で嘆いてみせた。


「むしろ光栄に思うべきだわ、半分も私たちの血を受け継げるなんて! それでいて食糧としての役目も果たせる。私は人間と違って、感謝されてもいいものなのに」


 有栖は小さな口を尖らせて不平を漏らす。デスクに置かれた書類はぐちゃぐちゃと文字が書き散らかされたままだ。帽子屋はそんな王女に必要以上の意見はしない。


「ああ……でも、考えてみればなんの問題もないじゃない」


 思い出したように有栖は身体を起こし、両手を重ねて可憐に笑んだ。


「だって私の国シロガネダイの国民は、


 帽子屋は黙して語らず、満足げに笑う有栖をただ見つめる。椅子をくるくると回しながら有栖は今夜に思いを馳せていた。


「あの女の人、すっごく幸せそうだったわ。私もとても楽しみ。ああ、早く夜にならないかしら! でないと私……」


 じゅるりと、はしたない水音がこぼれる。有栖の舌が我慢できないと唇を執拗に舐めた。伝奇に出てくる吸血鬼よろしく、犬歯の尖った彼女の姿はたちまち王女を娼婦に変える。


「耐えきれなくて、殺してしまいそうだわ」


 ***


 有栖のリコリスとしての本能は、言うまでもなく「快楽」である。耽溺であり恍惚でもあり、征服であり愉悦でもある。愉しいことがあればなんでもいい、自分が悦の海で泳ぐことができるなら。手っ取り早い快楽が刹那的な遊びという話だ。


「だからね、あなたとのひとときが私はたまらなく嬉しいの」


 期待に胸を膨らませた名も知らぬ女が少女を組み敷く。天蓋付きの豪奢なベッドは二人が転がってもお釣りがでるほどの広さだ。荒廃していくトウキョウでこんな上等な品が備えられていたのも、金持ちが住んでいたシロガネダイの遺産と言える。有栖は悠然と微笑んだ。自分が下にいるのに、女に馬乗りにされて身体の自由が奪われているのに、心は完全に有栖が掌握している。

 理性の飛んだ女の瞳が物欲しげに有栖を見つめてくる。堪え性のない家畜だ。


「王女さま、私……」

「ここでは有栖と呼んで」


 名前を呼ぶ光栄。貴き王女の名前を口にすることは、国民にとってこの上ない名誉である。それが理性の箍を外す、一種の引き金であることを皆刷り込まれている。有栖からの「許可」とともに、女は人間から獣に堕ちた。


「有栖さま……っ」


 物欲しげな唇が乱暴に押し付けられた。無作法さえもいとおしい。寛大な心で有栖は欲望を受け入れた。浅ましい愛情だ、情けない醜態だ。有栖はしかし、愛欲の獣と化した彼女を咎めることはしない。この本能に従順な陥落した姿にこそ、有栖は最高の快感を覚えるのだから。

 乾ききった唇は、有栖と深く口付けることで徐々に湿り気を帯びていく。呼吸さえ荒々しく、息が止まってしまうのではないかと思うほど執拗に求められた。有栖は抵抗しない。受け入れること、相手に主導権を握らせる。瞼を開けて覚醒した意識で、少女を貪る女を静観していた。


(ああ、なんて、素晴らしい景色なのかしら)


 組み敷かれているのに、支配しているのは有栖の方だった。乱暴に愛されても、性急に求められても、有栖はそのすべてを受け入れた。身体の上下など関係なかった。だってこの女はもう、有栖なしでは生きていけない。正気を失った眼をしている限り、有栖からは逃れられないのだから。


(私はこの国で唯一の、王女さま)


 女の息があがるにしたがって、有栖の征服欲も強くなっていく。充足感。心が満ちて、満たされていく。身体の交わりは本質ではない、有栖の心が空虚から快楽で塗りつぶされてしまえば……それだけで有栖は

 女が果てた。呼応するように有栖の口角が一気にあがる。可憐な少女の顔が魔女のそれに変わる。満足、制圧、 達成感――! じくじくと膿んだ傷を見て笑っているかのようだ。今の有栖は上でよがる女を見下し、子を産み落としながら嘲笑していた。


「……帽子屋」

「手筈通りに」


 有栖の身体に崩れ落ちてきた女は、肩で荒く呼吸をしていた。浮かんだ玉の汗がじっとりと気持ち悪い。有栖は部屋の入り口に控えさせていた――すべてをお披露目していた――帽子屋に声をかけ、後片付けをさせる。まずは子供を取り上げて湯浴びをさせた。その間にお湯で絞った温かいタオルを有栖に渡し、汗でベタベタになった身体を小綺麗にさせる。気絶した女は有栖と少し距離を置いて寝かせた。事後処理は赤子の対応が終わってからになる。


「私も双子を産めるのかしら」


 三週間前に双子を産みましたと言った母を見て、ぽつりと有栖が呟く。問いかけとも言い難いその言葉に感情は乗っていなかった。


「なんとか言いなさいな、帽子屋」

「……気分を害されても知りませんよ」

「今更でしょう。あなたに紳士的振る舞いなんて期待していないもの」


 赤子をお湯で洗い終わり、バスタオルで水分を丁寧に拭き取る。ただでさえでかい帽子屋が抱えるものだから、遠近感が狂いそうな光景だ。帽子屋は数拍の空白ののち、耳に響くテノールで答えた。


「……リコリスの身体のことはわかりません。もし人間と同じなら、運次第ではないかと」

「リコリスは純血の人間じゃないんでしょう?」


 皮肉っぽく言ってみせると、「私が言ったわけではありません」と帽子屋は愛想なく答えた。王女を恐れぬ素っ気なさを有栖はむしろ心地よく思っている。彼女が唯一、家畜としてではなく人間として傍に置いている男だ。

 天蓋をぼんやりと見つめる。王国をつくって、毎晩誰かと夜を過ごして。数えきれないほどの子供を産み落としてきた。おかげで国の人口は順調に増えている。そこにいるのが人間かリコリスとのハーフかなんて、食用としては関係のない話だけれど。


「ねえ私、世界で一番ここが幸せな国だと思うわ。誰も苦しんでいないものね」


 恍惚とした表情で微笑みかける王女に、帽子屋は何も言わなかった。

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