■2 色欲の城

 人間が赤子を産むには十月十日かかると言われる。それは有栖にとってとても長い時間に感じられた。十ヶ月待って一人の子供をようやく産み落としても、その十ヶ月の間にリコリスは何桁の人間を殺しているというのか。たとえ有栖が繁殖に成功したとしても人口は減るばかり。リコリスの主食が絶えてしまえばリコリスは共食いをはじめる。殺気だった彼岸花たちが行う生存戦争は、身体能力と殺傷能力の高さが物を言う。外見年齢十六歳、運動音痴な有栖には負け戦であることは自明だった。

 ならば、人間を絶やしてはならない。殺しあいになれば自分はすぐに殺される。そうならないように、自分が食べるものは自分で調達しなければ。王国――牧場と他のリコリスは呼んでいるが――の建国にあたってはそういった事情も絡んでいる。理想の王国の王女さまとなった有栖は、その国の運営に頭を悩ませる日々を送っていた。


「人間というのはとても手のかかる動物ね」


 有栖は報告書を流し読みしてから嘆息した。全体重を委ねた椅子の背もたれがぎしりと鳴く。有栖は気にも留めなかった。


「赤子は免疫力が弱く、清潔にしていないとすぐに感染症で死んでしまう。文明が発達したからこそ衰えてしまったものもあるのね」


 野生動物と同じ感覚で人間を飼育することはできない。快適な環境で生きることに慣れてしまった人間という社会的動物は、少しの環境汚染で体調を崩すし病気に罹患する。そして放置してしまうと最悪死んでしまうこともある。リコリスによる殺戮以外で人間が死ぬのは避けたい事態だった。だが健康体を維持しようと思えば、食事に気を遣い病気にならぬよう清潔さを保たなくてはならない。はっきりいってコストパフォーマンスは悪い。

 そこで、有栖が着目したのは人間の思考する特性だった。リコリスにはないも同然の理性というもので律されている人間は、脳が発達した生き物でもある。自分で考え行動を効率化することもできる。だから有栖は、人間に自分自身の世話をさせることにしたのだ。


「今日のお掃除当番は? 調理当番も確認できているかしら。洗濯当番にはお洋服が生乾きにならないように注意させないと」


 ああ忙しいと言って有栖は報告書から目を離した。人間に人間らしい生活を与えたことは、お互いに得をする提案だった。有栖は面倒な人間の世話を省くことができるし、人間は比較的質の高い生活をすることができる。朽ちていく一方のトウキョウで彷徨うよりは、かつての生活に近いものが再現されるわけだ。歪な世界だからこそ成立する関係でもあった。


「王女さま」

「王女さま」


 もうひとつ。有栖が考え出した繁殖のアイデアがある。人間をして早く、たくさんの子供を産めるようにしてしまおうかとも考えた。だが有栖には遺伝子を弄くる技量も知恵もなかったので生産性を向上させることはできない。十ヶ月待っていたら人間はあっという間に駆逐される。ではどうしようかと悩み抜いた果てに、彼女はひとつの答えを見つけたのだ。

 厩舎を回っていると、王女である有栖を求める声に包まれる。右では昼食を作る雌が。左ではゴミ袋を持った雄が。それぞれ懸命に職務を全うしながら、無秩序な色欲いろをたたえた瞳でこちらを見てくる。その目に、有栖はたまらない征服感を覚えていた。ぞくぞくと背筋をかけ上がる感覚に思わず身震いする。青いカーディガンで隠された二の腕をぎゅっと強く抱き締めた。


「こんにちは、みんな。今日頑張った人は誰かしら?」

「私です」

「私です」


 有栖が穏やかな声で問いを投げれば、厩舎にいた人間たちは我先にと功績を口にする。私は国の半分の厩舎を掃除しました、私は国民全員分の朝食を用意しました――どれも人間を人間らしさに繋ぎ止めておく大切な機構である。

 だがしかし、有栖じぶん家畜かれらも知っている。一番の功績は繁殖にあると。


「王女さま。私は三週間ほど前に双子を産みました」


 何軒目かの厩舎でそう報告してくれた女性は、産後も大きな問題なく、健康体となって職務に復帰していた。有栖も報告は受けていた、赤い屋根の厩舎で双子が産まれたと。それは喜ばしいことだ、単純計算二倍の生産力なのだから。

 有栖は今日一番の微笑みを浮かべ、膝をついて成果を報告する女性の髪を撫でる。艶めいた指先、その行為。女の黒髪の一房がたちまち妖艶に見える、まるで王女の魔法にかかったかのように。


「いいこね」


 耳元でそっと囁かれた声に、女の肩がよろこんで跳ねる。熱い吐息すら麻薬のごとく女を歓喜させ、王女に心酔していく。


「今夜、お城に招待してあげる。シャワーを浴びてからいらっしゃいな」

「ッ……はい。はい!」


 情欲。上気させた頬を隠すこともせず、とろんと光を失った瞳が何度もハートを飛ばす。王女有栖からのご褒美のために彼ら彼女らは日々繁殖に励んでいると言ってもいい。一番手柄の者は男女問わず、有栖と一晩を共にする権利が与えられる。そしてそれこそが有栖の考えた効率的なアイデア――リコリスであるという狂気だった。


「それをね、おかしいというひとがいるの。どうしてかしら」


 査察を終え、今晩の伽相手も決まった。有栖は自らの執務室に戻り、物憂げな溜め息をつく。まったくの裏がない純粋な疑問。おかしいという理由がわからない、それがまさに彼女の異常性であると微塵も疑わずに。

 有栖が問いを投げたのは虚空に対してではない。執務のために誂えたデスク、その脇にしゃんと背筋を伸ばして待機している男。有栖は面白がって彼を「帽子屋マッドハッター」と呼んでいる。帽子なんて被っていない、リクルートスーツの出で立ちなのに、だ。


「さあ。私には皆目検討もつきません」

「意地悪を言わないで」


 しらを切る帽子屋相手に有栖はわざとらしく頬を膨らませてみせる。十六歳の乙女がするには計算高い顔だ。


「あなたには一般常識ってやつがあるの、知ってるんだから。ねえ教えてよ帽子屋、私には人間の言うがわからないの」


 帽子屋は純血の人間だ。実は女ということもなく、容姿も胸板が厚く肩幅がある。優男というものとは真逆の、スポーツマンタイプの大男だった。それがパツパツのスーツを着ているのもまた、滑稽な姿ではある。咎める人はどこにもいないが。

 一度目を閉じた帽子屋だが、諦めたように話し出す。有栖が頑として引かないことを知っての対応だった。

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