■7 幾万の怨嗟

 ***


「そう。シロガネダイの牧場にリコリスはいなかったのね」


 マダムの御殿を再び訪れたのは、太陽がすっかり昇りきった頃だった。血をたらふく食べた黒百合は満足げに黒塗りの鞘に収められている。クロユリ自身も夜明けに空っぽになった厩舎を寝床とし、だいぶ健やかな朝を迎えられたものだ。起きたときには太陽はかなり高い位置にあったけれども。

 マダムは今日は銀色のナイトドレスに金のストールで肩を包んでいた。かつての母親を思い出させる装いは――母は赤とか青とか、原色ばかり着ていたけれど――昼間の太陽をバックにギラギラと輝いている。まったくありがたみのない光り方だ。品のない、自己顕示欲の権化とも形容できるだろう。クロユリはいさかいを起こすつもりはないから何も言わない。


「……牧場にいた家畜は根こそぎ殺しておいた」

「全員?」

「見付けられる限りは」

「あなたの第六感から逃げられる人間がいれば、の話ね」


 マダムはクロユリの心眼のことをそう読んでいる。五感に次ぐむっつめの感覚という意味で使っているらしい。クロユリにとっては、目も心眼も「みる」という意味においては視覚に相違ないのだが。

 ともあれ、生身の普通の人間であればクロユリが感知できる。そこから人の血で満たされた牧場は嗅覚がバカになってしまったけれど、それ以外の情報から得られる「生存している人間の反応」は見つけられない。そう判断するに至るまで少女は殺戮を続けた。そんな彼女の腕前をマダムは確かに評価している。


「シロガネダイの牧場、施設はそのまま? 燃やしたりしていないかしら」

「……人間を殺し尽くして、それ以外は何もしていない」


 乾いて床に染み付いた血まではさすがに啜れなかったし、干からびた死体だってするような心意気は持っていない。炎を操ることができるリコリスでもいれば、人間らしい弔いでもできたのかもしれないが。斬ることしか能のないクロユリには関係のない話だ。

 マダムは何やら考え込む素振りをしていた。ぎんぎらのソファー、出されたのはもちろんあたたかい緑茶。クロユリの湯呑みには茶柱がひとつ浮かんでいる。


「……わかったわ。クロユリ、ご苦労様。私の用心棒としての初仕事、無事にこなしてくれたようね」


 裏切らないあなたらしい素晴らしい仕事ぶりだったわと、マダムは悠然と微笑んだ。艶を消した柔らかい微笑みにクロユリは戸惑う。別にマダムは夜の蝶でもないのに。色を撒き散らす女と同じようなを感じてしまった。そういう人が色気を殺した顔をする、そんな穏やかな微笑みにクロユリは慣れていないのだ。


「……別に。私はリコリスを斬りたいだけ。そういう意味ではまだ、私はリコリスを斬れていない」

「牧場の経営者ね」

「……マダム。シロガネダイの女主人は他に行く場所があったと言う。他にも牧場を経営しているということ?」


 牧場を作り、そこに人間を集めて血を摂取する。そういう営みをしているリコリスは一人ではない。シロガネダイのリコリスはかなり大規模な牧場を持っているのではなかろうか。あの土地と、飼っていた人間の数と、行く場所。これはとんでもない大捕物になるかもしれないとクロユリは期待していた。そんなリコリスを、クロユリは斬りたくてたまらない。


「なるほどね。複数の牧場を持つリコリス……私の情報ではまだ得られていないけど、他の牧場を当たってみるわ。だって」


 そう言って言葉を切ったマダムは、何故かとても愉しそうな顔をしている。クロユリは何か興味深い報告をしたのだろうか。疑問が残り首をかしげる。


「あなたが楽しそうだから」

「――え」


 楽しい。楽しい? 私が?

 クロユリは瞠目した。被り直したはずの能面の奥で目が丸くなる。毒気が抜かれるというか、マダムの言葉がにわかには信じられなかった。殺しを、餌の補食行為を……違う、リコリスを斬ることに楽しみを見いだしているというのか。


「いいのよ、まだ気づかなくて。それはあなたが大事にとっておいて」


 絶句するクロユリを察したのか、マダムはそれ以上深入りして来なかった。代わりに蠱惑的な微笑みを返し、話は終わりだと告げた。


「報告ありがとう、クロユリ。これからあなたが私の用心棒として見せてくれるだろう成果に期待しているわ」


 ***


「……ちがう」


 ちがうと。クロユリは繰り返していた。

 楽しんでなどいない。新しい血を求め、強きものに挑むこと。それはクロユリの本能であり突き動かしていくエネルギーだ。それは認める認めざるを得ない、リコリスとして仕方のない仕様なのだから。だがこれは認めない認めることはできない、己が殺しに愉悦を見出だしているなど。マダムの犬として泳ぐことが愉しいなど。そんなことはあってはならない。リコリスとは孤独で孤高で、馴れ合わない生き物のはずだ。


「……違う!」


 歯噛みする。感情を抑圧できない、そんな自分はやはり未熟者だ。黒百合の鞘をきつく握り、高ぶっていく感情を静める。鳴く。鳴く。黒百合は求めている。更なる血を、嘆きを、幾重にも編まれた怨嗟を。

 深呼吸をひとつ。それからこの先の身の振り方を考える。

 マダムのいいなりになるつもりは毛頭なかった。マダムを利用して自らの飢えを満たす、それだけのためにクロユリはマダムと手を組む。彼女の思惑など知ったことではない、ただリコリスを切り刻むことができればクロユリは何も言わない。逆に言えば、マダムが同士討ちを許してくれなくなったときが手を切る合図だろう。


 黒百合は血を求めている。己の半身ともなった白銀の刃は、満たされた今も新しい獲物を探し始めている。クロユリもまた、血を求めている。強者の肉を断つそのときを待っている。

 目下、シロガネダイの牧場の女主人を。


 それが執着であることに、やはりクロユリは気付かないふりをする。かつての母親を彷彿とさせる、生き地獄を管理するもの。その顔は拝んでころしておかねば気がすまない。自分でも探そう、自分で殺そう。ああ、忘れはしない、烈火のリコリスもこの手で斬らねば気がすまない。リコリスは生かさない、この黒百合に血を啜らせる。会えば会うほどに標的は増えていく、それは喜ばしいことなのか愚かしいことなのか。

 青く澱んだ思いをクロユリは正当化する。


「……マダムが、殺せと言うのなら」


 そうすればクロユリは無機質なリコリスのまま、この思いを遂げることができる。

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