■6 挑戦
***
窓を割り、家に土足で飛び込むことになんら躊躇いはなかった。刀で美しくガラスを切り抜くこともできなくはなかったが、どうしてか身体で割ってダイブしたい気分だった。そのまま
「っえ、何なに!?」
「お前――まさか、リ」
騒ぐ男女は素肌を一枚の布で覆っただけの、最中も最中という出で立ちだった。明かりがなくてもクロユリにはよく見える。汗が浮かび前髪が額に張り付いていた女を見てクロユリは顔をしかめる。能面は飛び込む前に割れて消えてしまった、もう感情を圧し殺す術が見当たらない。
刀というのは皮肉なもので、殺意を冷静に束ねていかねばならない。散漫とした思いを迸らせるだけでは霧散し、見定めるべき標的さえも見失う。冷静さと殺意、その二つを天秤にかけて左右を等しく釣り合わせる。みっつの心とはそのプロセスだ。
男の声は聴きたくなかった。リコリスかとわかりきったことを問われそうだったので、煩わしくなり口を塞いだ。口を閉ざすのは簡単だ、首から上を落とせばいい。迷いのない三日月の軌跡は鮮やかに夜を斬った。月光の届かない厩舎にもよく映える。白銀の牙は赤い華を産み出した。
「ヒィヤああああ!?」
女の悲鳴は耳に突き刺さった。尖ったナイフで鼓膜を破ろうとするかのような不愉快さだ。びりびりと耳を刺激する耳障りな音もクロユリは聞きたくなかった。落とした首は目もくれず次の獲物へ。交尾をしていた男とお揃いにするのも気が立ったので、黒百合を大きくふりかぶる。剣道の素振りのような大袈裟な動きで、重力も味方につけながら女を真っ二つに引き裂いた。
クロユリの殺意に理屈は要らなかった。肉を断ち骨をも斬ると呼ばれた銘刀黒百合。それは逸話のひとつと言われていたが、リコリスと化したクロユリが手にすればそれを現実にできた。彼女はみっつの心に従って殺意を研ぎ澄ませればいい。それさえ整えば彼女に斬れないものは存在しないのだ。
無惨な死体がふたつ、愛を育んでいたベッドを血染めにした。クロユリは激しく出血する肉塊に刀を突き立てる。ずぶりと肉を蹂躙する感触に何の感傷もなかった。蠢く黒百合を握る手に、細かな振動が伝わる。
黒百合が満たされるまで啜ればいいから、クロユリ自身が口に血を含むことはほとんどなくなった。刀が満たされれば不思議と己も空腹を感じなかった。親族の血を浴びたあの開花の日からきっと自分はこうなった。そんな奇妙な確信があるから、もうクロユリは些末な異常など歯牙にもかけなかった。
「……他にも、家を漁る?」
そう問いかければ、黒百合は呼応するように刀身を振動させた。クロユリにしか伝わらない波動が手の内を疾走する。もっとだ、もっと多くの血が欲しい――そう鳴いている。
クロユリは「わかった」と呟き、ぶち破った窓ガラスからまた外へと飛び出した。そうやって一軒一軒、片っ端から潰していく。気を張りながら偵察していた自分が嘘のようだ。殺気を隠すこともせず、寝静まるはずの時間に夜更かししている悪い家畜をことごとく斬り伏せる。そうやって腹を満たし、刀身を赤く染めあげていくことができれば万々歳だろう。マダムのシロガネダイも牧場が営業不能になれば取り返せる。自身がリコリスではなく多くの血としての人間を求めていることに、クロユリは気付かないふりをしていた。あれだけ強いものを求めていたのにとんだ皮肉ねと、きっと心のなかで誰かは嗤う。
「……それがどうした」
クロユリは五感と
あるものは心臓をひとつきにした。
あるものは皮を薄く剥いだ。
あるものは腱を切ってから失血死させた。
たとえようのないほどバラエティー豊かな殺しを繰り返した。真っ黒いセーラー服に赤がこびりつきじっとりと重たくなっていく。それも乾けば関係のないこと。血液の重みだけでクロユリは止められない。新たな餌へと挑み殺す。クロユリの本能は誰にだって阻むことはできないのだ。
「……主人はどこ?」
どれくらい殺し尽くしたかわからなくなってしまったが、とある厩舎は男が四、五人川の字で眠っていたので――今日は「非番」だったのだろう――口だけは動かせる程度に弱らせてから問い質してみた。シロガネダイの丘を使った牧場は土地として想像以上に広大で、クロユリの腕をもってしても一日で回れるか怪しくなってきたためだ。男は涙と鼻水を垂らしながらふごふごと口を動かし、必死になって情報を吐き出した。
「今日、今日はいない! 他に行くところがあるから一日中外出して、だからッ」
「……そう」
命だけは、と動いた唇をクロユリは削ぎ落とした。濁音の混じった悲鳴が宵闇を切り裂く。鼓膜に訴える陳情も聞かずにクロユリはそのまま身体を微塵に刻んでみせた。転がった死体は微塵切り、銀杏切り、輪切りと斬り方を試すように無惨な姿になっていた。無論、血は根こそぎ奪い取っていく。
ここに
まず、ひとまず朝までは。誰にも横槍を入れられない血の宴を満喫するとしよう。睡眠は明け方に取ればいい。マダムへの報告はいつだっていいだろう、いつまでにやってほしいと言われたわけでもないのだ。クロユリはそう自分を納得させて、赤が滴る黒百合を一度振る。ぱた、と液体が床に落ちたのを確認してから凄惨な厩舎を後にした。
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