■5 黒百合

 ***


『あの女は気をおかしくしている』


 自分の母親だという女に対し、家の人間はそう陰口を叩いていた。

 母親の何度目かの再婚相手は、由緒ある道場を構えた家の息子だった。真剣を扱い、使い方を誤れば人を殺すことだってできてしまうそれを、ただ己の精神を研ぐために極める。刀の道に求められるのは自己鍛練だ。斬ることが本懐ではない。一種の精神修行のような道は生半可な覚悟では歩めない。流派の師範は祖父が務めているが、息子である父親は家を継ぐ気はないらしい。当時もなんとなく感じていたが、今回想すればはっきりと不向きな理由がわかる。だってあの母親に捕まった男だから。

 母親の再婚は少女にとっては二度目だったが、実際は何回目かわからない。結婚する前に別れた例の方が多いし、子供だって何人も手放したという。そのなかで何故少女は母の連れ子となれたのか、今でも事情は不明なままだ。


『何人もの男をたぶらかしてきたらしい』

『娼婦の真似事をしてきたんだろう』

『あの娘もどこの男との間にできた子やら』


 母親への陰湿な悪口は、その子供である自分の耳にも届いていた。表向きは嫁ということで邪険にできないとしても、家のなかには「早く別れて出ていってほしい」という空気が漂っていた。情に狂った母親がそれに気づかないはずがない。わかっていながらも、母親は知らぬふりをした。少女も、そのとげとげとした視線を一身に受けつつも毎日を目立たぬように生きた。下手な反抗はしなかった。


 少女に刀を修めさせようとしたのは、やむにやまれずの事情だった。家には流派を継ぐ者が必要だ。祖父ももう六十の後半にさしかかっている。しかし頼みの息子は軟弱者で刀の道には微塵の興味も示さず、孫にも恵まれていない。苦渋の決断、あるいは正統な後継者が出てくるまでのつなぎとして、であっても唯一の「孫」である少女にお鉢が回ってきたのだった。

 しかし、少女は刀が好きだった。精神を束ね、鏡のような水面の心で刀を振るう。その過程に雑念があればどんなに力をこめようとも刀は真価を発揮しない。藁束だってまともに斬れないのだと祖父は言った。とにかく「何も考えなくていい」ことが生きづらさを感じていた少女には救いだった。逃げるようにのめり込むのも道理だった。周囲の薄い期待とは裏腹に、よそものであったはずの少女はめきめきとその腕をあげていった。


百合香ゆりか、今日このときをもって、お前は我が流派の礎となるすべてを修めた。お前にはこれから、この道をゆく者としての更なる覚悟が求められるだろう』


 祖父から正式に認められて、本格的な真剣での指導が始まったのは十一歳のとき。若い、あまりに若い、習いはじめて数年で基礎を修めた少女に周囲もどよめいていたのを覚えている。何よりも厳格で修練に一切の妥協をしない祖父が認めたのだ、周りが野次を飛ばせる状況になかった。

 黒百合は、基礎を修めたときに祖父から譲り受けたものだった。真剣の重みと小柄な少女にはそぐわない長さ。刀に「持たされている」ような格好悪さに少女は喜びよりも不安を感じた。


『お祖父様、百合香にはこの刀を頂く資格がありません』


 重圧に耐えかねて祖父に懇願するも、祖父は黒百合を取り上げることをしなかった。何故です、と聞けばただ一言「お前にはそれを持つ覚悟が必要だから」と。覚悟を得るために真剣を持つのも甚だおかしい話だ。けれど家の者の噂話を聞いたところ、黒百合は祖父の期待の表れだったと言う。


『百合香は必ず、我が流派を立派に修め、心身ともに師範に相応しい人間に成長できるだろう』


 ――その期待は、少女が十二歳のときに脆く砕け散った。


『あの女はどこに行った!』


 きっかけはやはりと言うか、少女の母親だった。夜の仕事をしていたとはいえ朝になっても帰ってこないことが増えた。太陽が真南に来る頃に、なんてことない顔で帰宅することもざらで、義父はそういったことに耐えられない男だったらしい。母親は言わば止まり木を求める鳥だ。ひとつの木で身体を休めることはせず、次の木を求める。いくつもの木で眠ることが彼女の常識だった。

 恋を深く知らず、一人の人間を真っ直ぐに愛すというお家とは相容れない。火を見るより明らかな結果だ。


『おい百合香、お前の母親はどこだ!』


 娘が知るはずもなかろうに、男はなかば八つ当たりで少女をきつく問い詰めた。知りません、わかりませんと答えると大きく舌打ちをしてずかずかと廊下を歩いていった。母親への敵意がこちらに向けられる、それもまたよくあることだ。

 けろりとした顔で母親は夜に帰って来た。普段なら昼には帰るのに、普段以上に遅い日だった。義父の苛立ちもピークに達しており、掴みかかるように母親の手を乱暴にとった。「話がある」――そう言って、怒り心頭の義父は母親と二人で自室に籠ったのだ。


 あのときの母親の顔を忘れられない。

 何時になっても二人が部屋から出てこないから、少女は心配になって真夜中にそっと、閉じたドアに身を寄せた。 どうかこれ以上義父が怒りませんように、二人が仲良くいますように、まだこの家で修練ができますように。少女は祈る思いでドアの隙間からこぼれる音を聴いた。


 そのときの、女の艶めいた声を、なんと言えばよかったのか。


 母親の「謝罪」とは、つまりそういうことだった。会話とは。弁明とは。和解とは。すべて、あの女性ひとは身体で語る、表現する。そうやってすべてを呑み込み、男を丸め込んでいくのだ。そして自分にもその血が流れている。どんなに無心で刀の道を極めようとしても頑張っても頑張っても……自分の母親は、あの女なのだ。


『……いやだ』


 出てきた言葉は拒絶だった。父親と呼ぶべき男の苦しげな声が聴こえた。母親と言うべき女の悩ましい声が聴こえた。少女には何もできない。それはどんなに浅ましく、愚かで、ああ――なんて腐敗した営みなのだろう!


『いやだ、やだ、やだやだやだやだやだ』


 何かが音を立てて切れた。何かが綻び花開いた。自身の生まれを呪い、母親の営みを赦せず、極めたかった道は歪み、少女はした。


『――――ッ!!』


 百合香という少女が十二歳のとき。人間だった彼女はその命を彼岸花リコリスへとさせた。人ならざる生き物に成り果て、衝動のままに目の前のすべてを否定した。刀の名を継いだ少女はその日のうちに一家を皆殺しにしたという。

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