■2 マダム
不愉快だった。
不愉快という感情を覚えたことが不愉快だった。常に心は穏やかな海のように、ひとしずくの波紋だって許さない。そうやって何事にも動じない心がなければ、少女はまともに斬ることだって叶わないのだ。少女の極めようとした刀の道とは、いわば修羅の道である。それをお祖父様からずっとずっと教わって、この「
銘刀「黒百合」。少女が提げている刀の名である。少女が家の流派を修めたときに、祖父から祝いの品として拝領した。まごうことなき真剣だ。それを弱冠十二歳の孫娘に持たせるのもどうかと思うが、刀の技量だけがすべてだった家においてはなんら不思議なことではなかった。
漆黒に塗られた鞘からすらりと抜けるのは、さながら白銀の月とでも言うべきか。黒百合はそこまで刀身が反っているわけではないが、一閃したときの軌跡がまさしく三日月と言って相応しい弧を描く。少女の修めた刀とは美しくも信念に満ちた一振りだ。しかし……あの烈火のごとき少女の安い挑発のせいで、満足に血を啜れていない。刀身が赤い滴りを求めて鳴いているのが少女にも伝わる。柄がカタカタと震えて手のひらに陳情した。餌の男を追いかけるか? きっと遠くには行っていないはずだ。だが少女の本能がそれを阻んだ。手放したものよりも新しい獲物に挑みたい。
「……マダムに、相談を」
少女の声色には疲労が滲んでいた。
***
リコリスであれば、マダムの世話にならない者はいないだろう。トウキョウという狭くて広い檻を移動するにしても、とてもじゃないが乗り物がないとままならない。腹をすかせて徒歩で路上を徘徊するのは自ら「食べてください」と言うようなものだ。不名誉なことに少女は共食いのリコリスとして有名だが、共食いするのは少女だけに限らない。
そこでお役に立つのが地下鉄だ。デーヴィスというよくわからない機械人形に駅員じみたことをさせ、金ではなく光り物を対価に要求する。廃墟ばかりの地上からはまったく想像ができないピカピカ、もといギラギラに輝いた車体が真っ暗なトンネルを走り抜ける姿は、初めて見たときは卒倒しそうになったほどのインパクトだ。
いかに少女の身体能力がずば抜けているとしても、それはここからシンジュクまで瞬間移動できることと同義ではない。徒歩よりも地下鉄の方が早くつくし体力も温存できる、それくらいの常識は弁えているつもりだ。
カサイ駅のデーヴィスに、ポケットから一枚の銀貨を取り出して放り投げる。外国の銀貨だと聞いたが、どうやら貨幣価値は一円玉の六十分の一らしいと聞いた。それでも一円玉よりキラキラと輝くためデーヴィスには十分だ。
東西線でイイダバシ、乗り換えて大江戸線トチョウマエ駅。大江戸線には少女の他にもう一人、怯えた顔をした痩けた女がいたが、とてもじゃないが斬る気にはならなかった。車両を返り血で染め上げてしまったときのマダムへの弁償が厄介なのもある。
かつて「東京都庁」と呼ばれた日本の首都、その政治の中枢とも言える高層ビル。錆び付いた建物が溢れ返るトウキョウでここだけは新居のような輝きを放っている。無論外装は金と銀だ。あとひとつ大きな違いを挙げるなら、かつてツインタワーだったランドマークは片割れが瓦解し、一人っ子となっている。マダムが破壊したという噂もあるが真偽のほどは不明だ。目に痛い輝きを悪趣味だと感じることもあるが、マダムの機嫌を損ねるメリットが見当たらなかった。
高層ビルとはいえ、少女が入れるのはフロアが多くあるなかでもごく一部、マダムが応接室として使っている二階くらいのものだ。エントランスには地下鉄で見たデーヴィスの色違いが並んでいる。少女の体温を感知した途端に『こんにちは。デーヴィスはあなたを歓迎します』と不格好な礼をされた。
デーヴィスに感知されると同時にマダムに来客の報告がされるのも少女にはわかっていた。何度か通えば慣れてくるものだ。レッドカーペットの果てにあるエレベーターは止まって動かないので、左側にある殺風景な階段を昇る羽目になることも。いかにも「スタッフオンリー」といった無機質な階段が、少女はむしろ安心した。
二階に辿り着けばそこは応接室。何事もなければ質のいい革張りのソファーに深く腰かけたマダムがいる。明るい茶髪に金のスパンコールは一人だけ生きていく場所を間違えたかのような異物ぶりだ。
「あら、クロユリじゃない。いらっしゃい」
「……マダム、ご機嫌よう」
名乗る名前を捨てたと言った
クロユリはおずおずと一礼する。親身にしてくれる商人であるマダムだが、こういう引き締まる場所での振る舞いは学んでいない、だから苦手だ。
「クロユリ、そんなに緊張しないで。お掛けなさいな、お茶にしましょう」
目尻に皺をつくって笑うマダムに言われるがまま、クロユリは革張りのソファーに浅く座った。メタリックシルバーの色味はご愛敬である。マダムはコーヒーでも紅茶でもなく緑茶を出してくれる。以前クロユリが「実家を思い出す」と漏らしてしまったのを、ずっと覚えているらしい。
唐草模様の湯呑みをそっと両手で包み、ちろりと舌を少しだけ出して飲む。熱さにやられないように、猫がミルクを少しずつ舐めるように。みっともないと怒る大人はもういない。ほんのり赤い舌が唇のなかから覗いた。
「修行は順調?」
「……いえ」
マダムの問いにクロユリは能面の顔で答えた。心を乱すことなかれ。これも修行の一環である。
「今日は……失敗だった。余計な感情を殺せなかった」
「茨の道ね」
マダムは形のいい唇から息を吹き込み、湯気をゆっくりと冷ましている。湯呑みのなかを見ながら悩ましげに言った。吐息にすら艶を感じる。
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