黒曜篇 愛と呪い

■1 延命措置

「……これを持って、釣りを」


 黒衣の少女に渡された道具を見て、男は不可思議そうに首を傾げた。目の前の少女はリコリスだ。腰に提げた白銀の日本刀がその異様さを物語っている。髪は黒、瞳も黒、セーラー服もタイツもスニーカーだって黒。黒一色で塗りつぶされた少女がどう見積もっても中学生にしか見えなかったのもあるかもしれない。男は少女を軽んじていた。

 リコリスはおぞましい化け物だと、かつてトウキョウに住んでいた同僚は言っていた。日本国が総力をあげて「閉じ込めた」化け物たち。どんな圧力が働いたのかは知らないが、日本は首都を明け渡し、化け物はその与えられた土地から外に出ることはないという。ちゃんちゃらおかしい話だ。その同僚とはトウキョウへ行ったきり音信不通だが。

 ……リコリスに出会ったことのない男は、みんなそう言う。


「はあ。釣り……?」


 少女から与えられた道具は何の変哲もない、オーソドックスな釣竿とバケツだ。あとは擬似餌が何個か。自動でリールを巻き上げるわけでもないシンプルすぎる構造に男は不安というか不満を覚える。


「えーと、リコリスさんよ。さすがにこんなチンケな装備じゃ魚の一匹も満足に釣れねえと思うが」

「……いいえ。道具はそれで十分。一番のは」


 一閃。

 男には何が起こったかわからなかった。何か、目にもとまらぬ速さで空を裂いたものがあって、でも何かはわからなくて、気付いたら頬から赤い血がつうと零れている。


「ヒッ……!?」

「もう、仕込んである」


 斬られたのだ。目の前の少女に。中学生くらいの少女が何を日本刀なんざ持ち歩いているのかと思ったが、男は確信する。この少女はリコリス化け物だ。


「……十二時間後。カサイの海浜公園で釣りをすること。海浜公園であれば場所は任せる。できるだけ、見晴らしのいいポイントがいい」

「あ……あ……」

「返事は」

「はいぃ!」


 そして十二時間後、男は更なる地獄を目の当たりにするのだった。


***


 待つことは嫌いではない。待つというよりは静寂に身を置き、己の精神を統一するための時間を持つことがむしろ彼女にとって必須だった。乱れた心では何者も斬ることができない。刀を両の手で握り薙ぎ払うとき、必要なものはみっつの心である。それを積み重ねるように彼女は瞑目する。


 ひとつ。さざめく心を鎮めること。大海の上、さながら波紋のひとつも起こさぬように。

 ひとつ。止んだ心を束ねること。それはひとつの殺意となる。

 ひとつ。研いだ心で貫くこと。斬るべきものを正確に見定め、その心眼で軌跡を重ねる。


 少女は刀を手にしてそれを振るう。迷いのある刃では決して斬ることはできない。たとえ、命を奪い血を流すことはないであろう。相手を斬る。そのために少女はみっつの心を得た。幼き頃より叩き込まれた業は、迷いがなければ鮮やかに血の華を咲かせる。


 のリコリスと、目の前の血気盛んな少女は言った。しかし厳密には少女は共食い目的にリコリスを斬るのではない。ただ、相手に説明する義理も理解を求める意義も感じなかった、だから無言を貫く。

 餌が命乞いをして一目散に逃げ出す。男にもう興味はなかった。人間の男は確かに希少で、リコリスにとっては大切な栄養源だ。だが血を摂取するだけなら人間でも動物でも構わないし、リコリスだってそれは同じだ。少女の目的は斬ること、それだけ。

 実際、口先だけの虚勢の女だった。髪よりは深い色をした赤を噴出させることも、みっつの心を揃えて軌跡を描くことも。難しくなんてなかった、相手がチェーンソーという凶暴な得物を振り回していたとしても、少女には容易くそれを弾き返せる。彼女が得手とするのが殺人であり、無抵抗の弱者を一方的にいたぶることに慣れているのは身のこなしでわかった。防御や反撃される可能性を微塵も想定していない動きだからだ。何を迷う必要があろうか。


 だというのに、ああ、このていたらく。


「あたしとやりあいたいなら、塩分たっぷりの水がいっぱいのここまできて、飛び込んできなさいよ!」

「っ!」


 躊躇った。心がさざめいた。あれだけ叩き込まれたみっつの戒律が、そんな安い挑発ひとつで乱れてしまうなどあってはならないことだった。冷静に考えろ、少女は命令する。烈火のリコリスのポテンシャルなどたかが知れていた。上から下に振り下ろすしか脳のない女を相手に、自分が遅れをとる要素はどこにもなかった。どこにも。

 痛いところをつかれた。


「次……」


 次と。自分は今何を言った? 「次こそは」という負け惜しみを吐いて、どうしてか己は高く跳んでいた。カサイの海から逃げていた。どうして。どうして。


「く……ッ」


 鞘に納めた刀もいる。お前をそんな軟弱ものにした覚えはないと。感情というのは刀を振るうにあたってもっとも邪魔な要素だ。心の海が常に平穏であるためには、この感情という嵐は何よりの厄介者なのだった。

 プライド――自尊心が囁いたとでも言うのか。何度も何度も自問する。脚を止めたくなくて振りきるように走った。どうせカサイからは離れることもできないくせに。


 水族館の入口に来ていた。とはいえマダムの管理は及んでいないし、どうせ中にあるのは腐った水で満たされた水槽だけだ。見世物の魚も腹を上にして浮かび……いや、もうプランクトンに分解されているか。

 朽ちていく建物の脇に、一匹の雀がいた。少女と目が合う。少女は鞘から白銀の刃を抜いた。一切の迷いなく。


 瞑目。心を鎮める。心を束ねる。心を研ぎ澄ませ、ただ一匹、その命を両断すると殺意を剥き出しにする。

 払った。

 雀の胴体と一体化しつつある首元を寸分の狂いなく辿り、ぼとりと椿の花が落ちたようだった。赤が一気に噴き上げる。少女は冷ややかな瞳でそれを見下ろしていた。感傷というものは存在しない。一羽の雀をまっぷたつにしたところで、少女には何の感情も沸かなかった。それでいい、と言い聞かせる。命のひとつを奪ったくらいで、あるいは奪えなかったくらいで、心をかきみだされてはいけないのだ。

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