■8 彼岸にて

「あたしね、理性リセーのあるリコリスなの」

「?」


 不思議そうに小首を傾げる少女。そうだお前にはわからないだろうと、ドロシーは額の汗を拭いながら笑った。


「やっすい餌に飛び付いて、大人しく喰われる気はないってこと!」


 言うが早いかドロシーは。思考と同時に身体が動く、感情と一緒に神経が反射する。こういったときのドロシーには一切の迷いがない。相手がどんなにすばしっこいとしても、直情的な行動を繰り返すドロシーには微塵も関係ないことだ。

 ばっしゃーん! と盛大に水を撒き散らしながらドロシーはダイブした。傷口も塞がっていないのに訳がわからない。海浜公園の水に治癒効果があるという話も聞いたことがない。行動の意図が読めず困惑する黒の乙女。能面のような顔にわずかな歪みが生じた。

 まだドロシーの行動をわかっていない。ならばとドロシーは、わざとらしく言葉を区切って挑発してやった。


「あたしとやりあいたいなら、塩分たっぷりの水がいっぱいのここまできて、飛び込んできなさいよ!」

「っ!」


 ドロシーの不可解な動きの種明かしをされた途端、少女は渋面を作った。痛いところを突かれた、言葉はなくても顔にありありと出ている。無表情でクールな少女だとドロシーは思っていたが、ポーカーは苦手なようだ。苦しい、悔しい、恨めしい。そんな感情が眉間に表れている。

「刀は武士の魂である」という言葉を聞いたことがある。刀は人を殺すというよりも己の信念の表れだったり、時代が時代なら命と同じくらい大切なものだったらしい。そのくせとても繊細で、手入れをしっかり行わないとすぐにダメになってしまう。チェーンソーとやりあったあの刀が普通の刀ではないことぐらいドロシーにもわかったが、それでも自ら刀をダメにする行為はあの気高き少女には堪えるらしい。


「ほら、かかってきなさいよ『共食い』!」


 最後に一押し。塩水が傷口に染みてとんでもなく痛い。血液だって海中では凝固しないし、正直水面から啖呵を切るのだってなかなかの土壇場だ。眩暈を起こして貧血で意識を失ってしまう前に、ドロシーは片をつけたかった。思慮深そうな少女を相手に頭脳戦やら駆け引きなんて柄じゃないのに。本当は玉砕上等で懐に飛び込んでいきたいのに。

 林から里砂が駆け出すのが見えた。スプラッシュを聞き付けたのだろう。待って里砂、まだ来ちゃダメなのとドロシーは心で叫ぶ。里砂とテレパシーができたらどんなにいいだろうと、今この瞬間だけドロシーは超能力者になりたかった。


「次……次こそは」


 絞り出すような細い声は黒曜の少女のものだった。刀を鞘に収め、踵を返す。ドロシーは「次来たって同じよ、あたしが今度こそ殺してあげる!」と売り言葉に買い言葉のやり取りをしたかったのだが、瞬きをした直後にはその黒衣の影は消え去っていた。まるで瞬間移動だ。


「ドロシー! 何て無茶なこと……!」


 悲鳴同然に名前を呼ばれて、ドロシーは力なく笑った。ぷかぷかと水に浮かんでいる身体は冷えきった海水に蝕まれて青紫に変色しつつある。加えて黒の乙女に斬りつけられた傷跡が開きっぱなしでドバドバと血が溢れている。ドロシーの周囲だけ赤い海ができあがっていた。


「あれだけ無謀と無茶はやめてって言ったのに!」


 自力で這い上がる体力も残っていなかったドロシーを里砂は両腕を使って引っ張りあげ、服を全部ひんむいた。素っ裸になることになんの羞恥も感じないドロシーだから非難こそしないが、一切の迷いなく服を破り捨てる里砂も大概だった。

 唯一の荷物であるキャリーケースから大きいタオルを取り出す。里砂が大好きな白のバスタオルだが、血で濡れるのもお構いなしにドロシーの身体を拭いた。海水に濡れた身体を温めるためにもう一枚を被せる。傷口はマダムから調達した救急箱にあった消毒液、軟膏で治療する。人間ならば開いた傷口を軟膏ひとつで癒すことはできない。しかしドロシーはリコリスだ。マダムお手製の逸品ということもあり、効果はお墨付きである。

 応急処置を終えたところでドロシーはバスタオルを巻き付けるようにまとった。ひとつは上半身、もうひとつは下半身に。潮風の強い海浜公園では身を切る寒さが堪えるけれど、里砂がいるからあまり不快には感じなかった。


「……心配したのよ」


 ドロシーの傷に障らないよう、里砂が背後から優しく抱き締めてくれる。柔らかい胸の感触、温かい両腕が回される。里砂の心音がドロシーの背中を叩いた。


「うん。ごめんね」

「あなたが死んでしまったら、私」

「本当にごめん」


 里砂の「死ぬ」は本気の「死ぬ」だ。取引や何かからの逃避、救済のための言葉ではない。里砂が死ぬと言ったら迷いなく喉にナイフを当てるだろう。きっと、左頬をさすりながら。


「死なないよ」


 そう。ドロシーはそれだけははっきりと告げなくてはと思っていた。里砂が息を呑むのが聞こえる。肩に感じる里砂の吐息は熱かった。


「里砂がいたからあたしは海に飛び込んだの。わかる? 里砂と一緒に生きたいからだよ」

「……うん」


 普段よりも幼い返事が来た。さらりとした黒髪の感触が頬を掠める。ややあって、泣きじゃくる声が聞こえた。ああよかった、里砂には思いが伝わったのだ。

 ドロシーだけなら、里砂を知らないリコリスのドロシーなら、あのまま黒曜の少女に突進を続け、そして殺されていただろう。いくらドロシーだってそれくらいの力量差はわかる。それでも飛び込まずにはいられないのは「衝動」のためだ。

 でも、里砂がいたから。里砂が「死なないで」と言ったから、ドロシーは自分よりも里砂を優先した。大好きな彼女を泣かせたくなかったから。リコリスの理性は誤差のようなものだ。見た目は人間に似ていて感受性豊かだとしても、開花した本能には抗えない。そういうシステムの元に生まれたとしても、ドロシーには「里砂と生きたい」という衝動があった。


 失敗したなあ、とドロシーは苦笑する。


「結局、里砂を泣かせちゃったよ」

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