■7 黒曜の乙女
ドロシーは弾丸のように林から飛び出した。鉄砲玉、という響きの方がしかし性に合っている。両手でチェーンソーを携え、加速に加速を重ねてその獲物を狙う。木偶の坊なら何の躊躇も要らない。里砂もとても心配していたし、まずは腱を切って歩けなくしてから今夜の寝床に連れ込もう。そこでじっくりと開けばいい。ドロシーは早くも今夜のお楽しみに思いを馳せていた。
「いただきまーすッ」
好奇に彩られた上擦った声が、海浜公園の空気を震わせた。チェーンソーが駆動。ドロシーの声とチェーンソーの動きで釣り人は完全にその姿を視界に入れた。だがもう遅い。ドロシーの間合いに入ったところで逃げ場など残されていない。上下のつなぎをこれから赤く染めることができると思うと、興奮で頭が熱くなってきた。昂る思いをドロシーは一撃に込める。
ひ、と釣り人の口から悲鳴がこぼれた。ドロシーに負けず劣らずのハイトーン。男性が出すにしてはやや軟弱と言われるかもしれない。振り返ってすぐに己の目の前にいた「危機」の種類を理解し、怯えることができるという点では優秀なのかもしれない。状況を整理し、脳が恐怖するという命令を与える前に死んでしまうことも多いから。
一般的に考えて。獲物まであと数メートルという間合いから第三者が手を出すのは非現実的だ。片や超特急のような速度で迫るリコリス、片や手足がすくんで動けない人間の男。そこに何かが介入する余地はない、一般的に考えて。
一般的という言葉はトウキョウでは無意味である、という「常識」を度外視するのならば。
ガッキンと、音を言語化するならばそんな音がドロシーの鼓膜を揺らした。至近距離で響く不快な金属同士の接触音。気づけば両手で振り下ろそうとしていたチェーンソーは弾かれ、左手が宙を掴んだ。
「は?」
チェーンソーそのものは右手で持っており愛機を手放す事態には陥らなかったものの、ヴンと空を切る乾いた音を確かに聴いた。手応えはもちろんない。切りつけようとした刹那、固い何かに思いっきり弾かれた。おぞましい速度の一撃を? ドロシーはにわかには信じられなかった。
だが、里砂の言葉と目の前の「影」で思い出す。散々彼女が懸念していた可能性を。
「『共食い』のリコリス……!」
ドロシーと男の間に入ったのは、全身黒ずくめの少女だった。たぶん歳はドロシーと同じティーンエイジャー……古風なセーラー服を着ているからそう推測する。里砂も綺麗好きが災いして黒ばかりの服を着ているけれど、この少女は纏うものすべてが黒みたいだ。セーラー服、タイツ、ボブカット、スニーカーだけではなく、漂う空気すらも。唯一色があるのはドロシーの邪魔をしたあの白銀の刀だけだった。
「…………」
少女は幽鬼のようにゆらりと、静かにそこに存在している。チェーンソーを払ってみせた刀を一度振り、それから鞘に戻した。居合いぎり、という刀の技があるとドロシーは聞いたことがあるが、今もこの少女の手札は見えてこない。突然ドロシーの前に現れて、突然ドロシーを邪魔したのだ。
「なあ、おい、これでいいんだろ!?」
悲鳴を短くあげていた男が、魔法が解けたように捲し立てた。先程までは一ミリだって動けずやっとの思いで蚊の鳴くような声で恐怖していたくせに、命の保証がされた途端にこれだ。ドロシーは不愉快さに眉を寄せた。
「あんたの言ってた役目は果たした、だからっ」
しかし、無表情な少女は特に動じることもなく、緩慢な動きで視線を男に向ける。そしてドロシーとは違う薄くて血色の良くない唇から、小さな声で返事をした。
「……好きにすればいい」
愛想のない、感情の起伏だって感じられない声だった。その言葉を待っていたとでも言うように、ノータイムで男はへっぴり腰で逃げ出した。ドロシーとしては不満が募るばかりだ。せっかくのご馳走をみすみす逃すなどあり得ない。本当なら丸まった背中を追いかけたいところだ、目の前で殺気を放たれていなければ。
「何よ、あたしを殺すために待ってたの?」
「糸を」
漆黒の
「糸を垂らしていただけ」
「餌につられて引っ掛かるバカを待ってたって!?」
ドロシーはチェーンソーを再駆動させた。愛機が肉を切りたいと唸っている、ドロシーはそう解釈した。何よりドロシーがそれを望んでいるのだから、チェーンソーだってリコリスを断てたら嬉しいに決まっている。
「あたしはそういう女を返り討ちにしたくてたまんない気分よッ!」
再度突撃。ドロシーの戦法に防御は存在しない。卓越した技術があるわけでもない。一方的な狩り、弱者のいたぶり、趣味の殺戮。その軌道は単純明快で、殺傷能力の高い回転刃が上から下へと落ちていく。
言い換えるならば、それは卓越した戦いのセンスで武装した者を相手にすれば通用しないということだ。幽鬼の少女は一切の予備動作なくその一撃を払う。刃こぼれのない日本刀が美しい軌跡を描き、ドロシーのチェーンソーは再び弾かれた。舌打ちが響く。
黒い乙女は迎撃に留まらなかった。チェーンソーが防がれ、その反動でがら空きになった胴体を一閃する。三日月のような煌々とした斬撃。ドロシーが歯噛みした。
「ッ、この、クソアマ……!」
汗ひとつかかない、呼吸ひとつ乱さない。ドロシーにだってわかる、二合交わして一撃を見れば。戦いというものをまともに学んだことはなくて、血が見たいという理由で凶器を振り回す
こいつは本物だ。
黒曜の乙女の一閃は迷いなくドロシーの腹を斬った。ぷしゃ、と鮮血が飛び散る。ドロシーはたたらを踏んだ。同時に冷や汗が溢れてくる。肩で息をしながら、チェーンソーだけは手放さず。足元には血の池が広がりつつあった。
彼女は自分を殺すのだろうか。ドロシーはそんなことを考える。殺される? 殺す側に回る自分はいつだって考えてきたけれど、被捕食者になる未来を想像したのは過去一度だけ――里砂にきつく怒られ、他のリコリスに殺されかけたあの日だけだった。ボロボロになって里砂のもとに帰ったら、ビンタされて号泣された。私から大切な人を奪わないでと。もし今日、目の前のリコリスに殺されてしまったら。里砂はまた泣くのだろうか。怒るのだろうか。それとも……
「……違う」
違う。命が終わるときまでついていく。里砂のその覚悟の重さを、ドロシーは知っている。ドロシーが死ぬときは、里砂が死ぬときだ。
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