■6 晩餐

 観覧車を腰を痛める体勢でくぐり抜け、臨海公園エリアから海浜公園エリアへと移動する。遮るもの、身を隠すものはあまりない。海浜公園は釣りの名所として栄えたと聞いているが、今のトウキョウで釣れるのはブラックバスばかりだ。

 人工島と陸地をつなぐ橋を渡り、海浜公園に入ったところで里砂は身を隠せる場所を探す。ドロシーの鼻は優秀だ、ご馳走を察知するという点においては。風にのってくる匂いを頼りに、大まかな方角を把握する。


「男が一人。周りには誰もいないよ」


 釣りスポットの手前には防風林としてか、木々が一列に整列していた。できるだけ幹が太く、繁っているものを選んで身を屈めた。トウキョウは人間にとってはディストピアだが、放置された土地という意味で自然界にはやさしい。やさしい、といっても温暖化やらで半分破壊された後の放置プレイだ。雑草はどこまでも伸びていくとしても、立派な木が育つほど恵まれた環境かというと疑問の余地が残る。いつか枯れてしまうかもしれない恵みに里砂は感謝しておいた。

 木々の間から釣り場を覗きこむ。確かに細長い人影がひとつ、海に向かって立っている。背格好から推測すると男だろう、女にしては高すぎるしシルエットにがない。作業着……というか上下の青いつなぎを着用しているあたりも、無骨で素っ気ない印象を受けた。釣竿を持っているのか仕掛けたあとなのかは背中に隠れて見えない。だが足元につなぎよりも薄い青色をしたバケツが置いてある。釣果を持って帰るためのものだろうか。


「釣りって退屈そうよね」


 ドロシーが目を凝らして言う。残念ながら視力は里砂と同等なので、人影がくっきり見えるとか、そういったことは期待できない。


「水辺に糸垂らして、ずうっと待ってるわけでしょ? あたしだったら耐えられない」

「ドロシーはマグロだものね」

「どういう意味?」

「止まったら死んじゃうってこと」


 言えてる、とドロシーは歯を見せて笑った。血を吸うからといって特別に歯が尖っているわけでもない。吸血鬼ではないのだ、リコリスは。


 その後も周囲に気を配りながら男を観察していたが、男がその場から動く気配はない。まさか棒立ちの人形を置いているとでも? 里砂はその可能性を想定し、杞憂だと首を振った。あれが人間の男だというのはドロシーの鼻が証明済みだ。

 では本当にあの男は、自分の食事か道楽のために釣りに興じているというのか。トウキョウでの人間の生きづらさを考えれば前者だろう。何が釣れるとしても毒がなければ魚は貴重なエネルギー源である。

 釣りの名所に、食事を確保するために人間の男が単身乗り込むだろうか。里砂が考えるのはそこだ。もし里砂が男の立場だったらどうするだろう。釣りで食い扶持を得るとして、リコリスとの遭遇率の高い観光地に足を運ぶだろうか。


(私なら、もっと目立たない河川を探すわ)


 魚が釣れるのは海浜公園だけではない。メジャーな土地は避ける。目をつけられそうな場所へは行かない、それが喰われる者の身の振り方だ。では何故? そこに帰結する。


(誰かにここに行くよう指示されているとしたら?)


 彼が擬似餌だとしたら。それこそ釣り針に取り付ける餌のように、ひとつの小さな餌でもっと大きな獲物を狙っているとしたら。、より豪勢な食べ物にありつこうとしているのなら。本来ならば……本来ならば、リコリスのご馳走は人間の男以上にはあり得ない。舌との相性がとても「いい」らしい。だが、リコリスというものは極論雑食だし、食事以外のことに快楽を感じるものもいる。たとえばドロシーは鮮やかな出血を見るのが好きで男を手にかける。同じようにリコリスを殺すことが生き甲斐のリコリスも存在するのだ。マダムも手を焼いていると言っていた。


 そいつが餌を垂らして待っているのかもしれない。里砂は唇をきつく結んで、もう一度周囲に目を凝らす。


「里砂?」


 里砂の顔に緊張が走ったのをドロシーは悟ったらしい。さすがに付き合いの長い恋人の目は誤魔化せない。里砂は簡潔に己の懸念を伝えた。


「『共食い』のリコリスがいるかもしれないわ」

「マダムが言ってたやつ? でも」

「わかってる」


 ドロシーの言葉を待たず里砂は応じた。わかっている、周囲にそんな人影は存在しない。良くも悪くも見晴らしのいい釣り場には隠れる場所もなく、そこには男が一人佇むだけ。しかしこの状況はおかしい、明らかに罠だ。


「里砂の心配もわかるけど、心配しすぎだって。そろそろあたしお腹すいてきちゃった」

「ちょっと、ドロシー!」

「里砂があたしを大切にしてくれるの、すごく嬉しいよ。でも、だから里砂はあたしがどんな子かわかってくれるよね?」


 里砂は唇をきつく噛み締めた。恋人のことなら大抵わかる。ドロシーは好奇心旺盛で堪え性がない。今日はよく我慢している方だ。

 それでも、罠に飛び込むのは話が別だ。里砂はなりふり構っていられなかった。どうにかしてドロシーをここに留めようと、声を抑えることすらせずに叫んだ。


「ドロシー、ねえ、わかるでしょう!? 私の意見を尊重してくれて、ずっと飛び出したい衝動を抑えてくれてる。それは私も痛いほどわかってるの。でも、それでもこんな明らかな罠に引っ掛かるのは放っておけないわ! 私はあなたのことを愛して――」


 里砂は最後まで言葉を紡げなかった。柔らかいピンク色の唇が重ねられたから。ぺろりと舌が優しく咥内を這って、存在を確かめるように歯列をなぞった。こんなときまで鼻にかかった声を漏らしてしまう己を里砂は許せない。


「……わかってる。愛してるよ、里砂」


 だから行かせて、と呟くドロシーは泣き笑いみたいな顔をしていた。困ったように眉がハの字に下がる。


「あたしはやりたいことをやって生きる。そんなあたしだから、里砂を好きになったんだよ」

「――あ――」

「大丈夫。里砂はここで見てて」


 リコリスは本能を抑えられない。自分の欲望に何よりも忠実な動物であり、理性というものは容易にその箍を外す――そんな論文を出していたのは、なんという学者だったか。ドロシーの本能は「衝動」だ。あれをしたい、これをしたい。そういった直感じみた欲望に身体が一気に突き動かされる。里砂というパートナーを得たことで自制心というものも機能してはいるが、それでもドロシーはやりたいことをやる少女だ。そしてそんなドロシーだから、里砂は愛した。


「ドロシー!」


 矛盾する思いだとは自覚している。ただ、矛盾を抱えているからこそ、里砂には悲鳴のように名前を呼ぶことしかできなかった。

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