■5 部外者
錆び付いたゴンドラを前にしてもドロシーはめげなかった。なかなかの諦めの悪さ、もといガッツだと里砂は感心する。
潮風に晒され、塗装も一緒に遠くへと流されたように、茶色い錆に侵食されたそれを乗り物と呼びたくはなかった。ぴったりとゴンドラに密着したドアもまた動く気配がない。取っ手らしき窪みに指を突っ込んでも思うように力を込められない。うんともすんとも、というのが実情だった。
「あーもう、こうなったら!」
そういって最終的に愛機を取り出してドアをくりぬいたのもいい思い出である。
「そんなに乗りたかったの?」
「うん」
里砂の問いにドロシーは即答した。確かにゴンドラの中に入ることはできた。ドロシーが開けた穴を、だいぶ屈む格好になりながら。しかし乗り込んだのは地上に一番近いゴンドラである。言うまでもないが整備もされていない以上、観覧車を回すための業者だって存在しない。潮風の音を聞きながら、向かい合ってベンチに腰かけているようなものである。絶景などどこにもない。
ドロシーはまるでカメラマンが風景を切り取るように――右と左の指で長方形をつくり、それを覗きこみながら――里砂を被写体として収める。手作りのカメラの奥で戸惑ったように里砂の眉尻が上がった。
「里砂、前に遊園地行ったことあるって言ってたじゃん」
「言ったかしら」
「言ったよ」
ドロシーは唇を尖らせて念押しした。今日はピンク色の艶めいた唇を取り戻している。里砂にも押し付けた、お気に入りのグロスだ。
「元カレと観覧車に乗ったって、言った」
「……そう、だったかしら。よく覚えてないの」
里砂は言葉を濁した。あたしは覚えてるよ、とドロシーは強く言った。心なしか言葉尻が荒っぽくなっている。
「あたし、里砂があの男に縛られてるのがやだ。だから全部忘れてよ。あいつと行ったところ、したこと、全部。あたしがよくしてあげる」
何も言えなかった。ドロシーを甘く見ていた、などと言うつもりはないが、そこまで自分を見透かしていたのかという思いが強かった。
いつかあの男を殺してやるからと、彼の話をしたときにドロシーは言った。それを思い出した。里砂は敵討ちをしたくてドロシーと共にいるわけではない。ドロシーとの日々は不便もあるけれど、天真爛漫な彼女を見ているだけで心が潤った。昔の男を引きずるつもりも毛頭ない。ない、のだが。
……左の頬をさすりながら、里砂は僅かに視線をそらした。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
だけど殺すのは私がやると、里砂は静かに決意していた。ドロシーには言わない。この身体に、瞼を閉じれば浮かんでくる傷痕を残していった男。名前すら吐き気を催すが、もしこの彼岸の街で出会えるのなら。貴島里砂は過去を乗り越えるためにあの男を殺してやろうと、心のなかで繰り返した。
頬をさするのをやめる。ゴンドラの向かいに座るドロシーに、そっと両手を重ねた。くすぐったそうにドロシーがはにかむ。まるで子供のような心理を持つドロシーは、ときに単純でときに鋭敏だ。その純粋さを利用して話題をすり替える己を、里砂は責めたりしない。里砂はドロシーとは違う。感情に従順でいられるほど純粋な大人でもない。
「ここからじゃよく見えないわね」
地上のゴンドラから見えるものなど鉄の枠組み程度だ。それに遮られて絶景と言われたオーシャンビューなどお目にかかれない。観覧車なのに地上で潮風に揺られるというのもこれはこれで滑稽だと、里砂は笑った。
「せっかく海がいいって言ってたのに」
「いいんだよ、海は観覧車を楽しんだら見ればいいんだから」
ケタケタと声をあげて笑うドロシーは、破綻した計画さえも愉快そうに話した。回っている観覧車のてっぺんから青い海を見て、地上へ降りたらもう一度乗るのだ。何度も何度も、てっぺんのたった数分の景色を楽しむために。
心踊る夢を語るドロシーは喜色満面というのが相応しい。ドロシーが楽しげに話すのを聞いているだけで里砂は満足だった。
――風向きが変わった。
「獲物がいる」
動かない観覧車の中で、ドロシーがぽつりと呟いた。里砂が重ねた手のしたで指先がじり、と動く。第二関節が里砂の手のひらを掠めた。
「近く?」
「海浜公園の方。潮風に乗ってニオイがする。男の皮脂のニオイ」
里砂には勿論そんな臭いは嗅ぎとれない。トウキョウにおいて人間の男はリコリスのとびきりのご馳走だ。それが逃げも隠れもせず、「観光地」である海浜公園にいるとは考えにくい。里砂は罠の可能性をまず疑った。
「行くの?」
「とーぜん。今晩のご馳走でしょ?」
「ドロシー、ちょっと待って。海浜公園に男がいるなんてあからさまだわ」
ドロシーの思考は短絡的だ。獲物を見つけたら捕まえる。それから寝床を確保して、好き放題調理をして散らかす。捕捉してからの行動にタイムラグがほとんどない。彼女がゴンドラを蹴飛ばしてここを飛び立つ前に、里砂は彼女の頭を冷やさねばならなかった。
里砂はドロシーの手に重ねていた両手を両肩に載せた。指の先まで力を込めて、がっちりとホールドしている体を見せた。
「
「心配性だな、里砂は。あたしが死んだことなんてないでしょ? 今回もうまくいくって」
「でもひどい目にあったことはあるでしょう、忘れないで」
里砂は語気を強めて言った。肩を掴む両腕の圧力もあってか、戸惑ったようにドロシーが栗色の瞳を泳がせる。悪戯を先生に叱られている生徒のようだった。
「あのときは、その、でも最終的には死ななかったし」
「目の前の男にがっついて、あなたは他のリコリスに殺されかけたわ。ねえドロシー、私はあなたを愛しているしあなたを失うことはしたくない。無謀や無茶が今後もうまくいく保証はないの」
里砂の真摯な訴えに、ドロシーの炎も多少は威力を弱めたようだ。それでも目の前の獲物を料理することに最高の愉悦を見いだす彼女にとって、貴重な人間の男を見逃すという選択肢はない。それは里砂もわかっていた。
「じゃあどうすればいい?」
「海浜公園の様子が見えるところまで移動しましょう。男が何人いるか、周辺には何もないか、連れのリコリスはいないか、偵察するの」
「偵察か。それはそれでかっこよさそうね」
単純なドロシーはこういうときに助かる。彼女をその気にさせる言葉を選んでいけば、彼女の機嫌を損ねることなく堅実な道を行くことができる。どのみち引き返す選択肢はないのだ。ならばせめて、情報を多く掴んだ上で行動指針を決めたい。人間である里砂には情報と準備が必須だ。
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