■2 緋色のドロシー
「……何やってるの、ドロシー」
「ふぇ?」
赤髪の少女――どう見ても日本人だからドロシーは無論「自称」である――ドロシーは部屋の入り口から投げられた問いに口をもごもごとさせながら応じた。それが仁王立ちする綺麗好きの相方、
「何って……食事?」
「どうして疑問形なの」
「いーじゃん。あっ、ほら里砂も食べる? 右腕は取っといたんだー」
口のなかで咀嚼していたものを飲み込み、ドロシーは喜色満面で提案した。たっぷりと腹に脂肪を蓄えていた中年男はその面影を微塵も遺していない。ドロシーによって両手両足を切断され、飛び散り溢れた血は一滴も逃さない勢いで摂取され、みるみる男はしぼんでいた。骨と皮だけになった男の亡骸は、ミイラのようでもあり、リコリスの食事の「のこりかす」でもある。
ドロシーがぷらぷらと無造作に摘まんだ右腕は、銀の皿にぼたぼたと血を滴らせている。「飛び散ったらどうするの」と里砂は悪戯娘の後頭部を叩く。ぺしん、と鈍い音がドロシーの脳を震わせたような気がした。
「ちょっとお! あたしが里砂のために残したとっておきなんだよ、褒めてくれるところでしょ?」
「身体の九割以上食い尽くしておいてよくそんなことが言えるわね」
嘆息して里砂はドロシーから男の右腕を奪い取った。何か言いたげに唇を尖らせている少女を里砂は無視する。毛むくじゃらの中年男の右腕は、指先がひび割れて皮も固くなっている。垢の詰まった爪など間違っても口にしたくなかった。
険しい表情で腕を睨む里砂を、どうやらドロシーは不服と解釈したようだ。
「里砂? 食べられそうになかったら、無理に食べなくてもいいよ。次はもっと清潔そうな男を……」
「大丈夫よドロシー。どうやって下ごしらえしようかと、考えていただけだから」
潔癖症まではいかないが、荒廃した大地と化した隔絶絶命都市トウキョウという環境は、貴島里砂にとって地獄という他なかった。埃、汚れ、そういった類いのものは排除せねば気がすまない。しかし水すら有限であるトウキョウで、里砂は一定の妥協点を見つけなければならなかった。
ドロシーとは異なりボタンを首まで留めたブラウスは、本当は白がいいけれど汚れが気になるから黒に変えた。パンツもジーンズや黒のストレッチ素材のものにチェンジ。カラースキニーを愛用していた身としては、少し寂しかったけれど。汚れが視界に入ると気になって仕方ない里砂は、精神の安寧を選んだのだった。
「湾岸から水を汲んでくるわ。海水で洗って、毛はナイフで皮膚ごと削ぎ落とす。手首から先は細菌の温床だから諦めるわ。今日の寝床は決まってる? ここでいいなら近くで火を起こして焼いてしまうけど」
「ねえ里砂、何もそこまでして食べなくてもいいんだよ? 誰にだって苦手なものはあるし、無理にあたしに合わせる必要は」
「バカね」
里砂は困ったように苦笑した。ドロシーの背中を小突く。
「私はあなたと苦楽を共にしたいの」
***
――トウキョウは、リコリスのための街になった。
人間の血を欲し、なかでも異性である男の血は極上の一品。詳しい生態系は明らかではないものの、リコリスは男の血を貪欲に求める。その特殊な食事がリコリスの長所であり短所なのだが、彼女たちは男の血液を殺してでも求めるようになった。ドロシーのように快楽に耽りながら男を殺し、溢れる血を吸い尽くすもの。あるいは男を奴隷のように飼い慣らし、定期的に血を摂取する「牧場」を経営するもの。リコリスという
リコリスたちはトウキョウに閉じ込められている。ここは彼女たちに生存を許した唯一の街であり、獲物を捕捉するための巣穴でもある。政治機構も存在しない、文字通りの無法地帯だ。
「美味しい?」
とっぷりと日が暮れて、何度目か数えることさえ野暮な月が昇る。今日はまんまるに近い。日中食べた中年男の腹よりも丸い。
調理を終えた里砂は廃アパートの一室で食事にありつく。血液は散々ドロシーに催促されたので昼間に頂いた。本当ならもっと広い部屋やベッドが二つある部屋も選び放題なのに、里砂はあえて小ぢんまりとしたこの部屋を今日の安息地に選定した。
「ええ、とても」
「無理してない?」
「何度も言わせないで。美味しいわ」
私があなたに嘘をつくと思う? と聞けば、ドロシーはゆるゆると首を横に振った。里砂はドロシーを裏切らない。その命が終わるときまでついていく……里砂がドロシーと共にトウキョウに残ると決めたとき、言った言葉だ。
「あの日の言葉は嘘じゃないのよ」
「わかってる」
言葉に対してドロシーの言い方は憮然としていた。
「里砂がいるのは嬉しいけど……負担になってないか、心配」
「そんなことない」
「わかってるよ」
わかってる。ドロシーは弱々しく繰り返した。
ドロシーには悔恨がある。リコリスである自分はトウキョウの外へは出られない。リコリスたちの彼岸の街であるここが楽園であり檻だから。外の世界は保証されていない。銃で狙撃されようと束で襲われようと、そこには敷かれた「法」が作用する。ドロシーがリコリスとして生きていけるのは、
里砂は違う。里砂は、普通の成人女性だ。
「……違うのよ、ドロシー」
夕飯を完食した里砂が、優しい声音で言った。まるで幼子に言い聞かせるかのような、一切の敵意のない囁きだった。
口元の脂を拭う。舌を這わせると真っ白く尖った犬歯がちらりと覗いた。里砂は普通の人間なのに里砂の方が吸血鬼みたいだな、とドロシーは思っている。口に出すことはないが。
「好きな人と一緒にいたいと願うのは、当然でしょう」
狭い部屋にひとつだけのシングルベッドに倒れ込む。薄っぺらなマットレスが二人分の体重を受け止めて大きく沈んだ。
「キスしていい?」
そう問いかけたのは押し倒されたドロシーの方だった。里砂が首のボタンを外す。艶然と微笑み、冗談をひとつ。
「焼き肉食べたばっかりなんだけど」
「今したい」
言うが早いか、がっつくドロシーに困り顔をしてしまう。求められるがまま深く唇を重ねて、里砂はそのまま烈火の少女を貪った。
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