LycoriTH――リコリス――
有澤いつき
烈火篇 Dorothy & Risa
■1 絶命都市
「ねえ、おじさま。ここがなんて呼ばれてるか知ってる?」
ガラスなどとっくの昔に割られていた。穴のあいた枠から荒涼とした乾いた風が吹く。砂の混じった目に痛い風は生ぬるく、男の肌を撫で上げた。喉の奥の悲鳴は張り付いてでてこない。
殺風景、というよりは廃墟が適切だった。ガラス片の散らばった床は軋み、白かったベッドは砂埃を被っている。そこに繋がれた男もまた、薄汚れたワイシャツを乱雑に剥かれていた。でっぷりとした腹が覗く。
きゃは、と甲高い声で笑ったのは可憐な少女だ。バカになったスプリングの上に飛び込み、短いスカートが捲れるのもお構いなしに跳び跳ねる。砂色の一室には不釣り合いな、小綺麗な格好をしていた。
――かつて。ここが「日本の首都・東京」だった頃ならば、まったくおかしくない容姿だったろう。
「隔絶絶命都市トウキョウ、ですって。あはッ、バカみたい! 生きられないのはあんたたちが喰われるからだってのにさ」
ケタケタと笑う少女は満面の笑みを浮かべていた。花の咲くような、とはまさにこのことだろう。艶めいた唇はピンク色に染まっている。
だがしかし、時代が時代ならまっとうだったであろう少女の異質さを際立たせるのはそんなものではない。学校が存在していた頃の紺のブレザーでもなく、燃え上がるような真っ赤な髪でもなく――日本人の顔立ちをしていながらその髪色はかなり目立つ部類なのだが、それよりも異質なのは――両手で抱えているチェーンソーだろう。
ヴォン、と愛機が唸りをあげる。人の声すら掻き消してしまう音を放つ無機物相手に、男は涙を流して恐怖した。もしかしたら悲鳴も上げたかもしれないが、猿轡の内側から放たれた音など轟音に抵抗しうるものではない。目隠しもさせていたが、少女いわく「表情がわからないから」外されていた。
「さあて」
じゅるりと舌なめずりをひとつ。厚ぼったい唇が更に潤いを増す。とびきりのご馳走を前にした子供みたいに、口の端から涎が溢れるのを自重できていない。どんなになめとってもそれは、さながらパブロフの犬のように、条件反射で出てくるものだ。
少女の目の前にはご馳走がある。
「両手と両足、どっちから殺られたい?」
「ンンン……!」
男が言葉にならない声をあげ、激しく抵抗する。ベッドの脚に繋がれた手錠が品のない音を立てた。金属がぶつかり合う音は、男を縛る手首にも赤い痕を残している。そんなものでは解放されない、男にもわかりきっていることだ。それでもやはり、無抵抗に殺される訳にはいかないのだろう。
チェーンソーを持ちながら、男の抗議は耳にもいれず、少女は明後日の方向を見て思案する。炎のように真っ赤な髪は、食事の邪魔にならぬようお団子にしている。これもひとつのオシャレなのだと、少女は相棒に自慢げに話していた。
「あ、でも腕殺ったら手錠が外れちゃうか。オッケー、脚からいってみよう」
「ンンッ! ンンンンンン……!」
ぎしぎしとベッドにぶつかり、男は最後の抵抗を試みる。辛うじて自由の身である太く、短い脚で少女の華奢な身体を蹴り飛ばそうとした。惜しげもなく晒されていた、白い腿にその一撃がヒットする。勢い余って引っ込めた脚が腰簑状態のプリーツスカートを掠めた。
「ヤだなあ、おじさまのエッチ」
そんなつもりで蹴ったつもりはない。むしろ男は全力で、この場から逃げ出すための抵抗を試みているところだ。からかうようにスカートを押さえる少女は、それすら男をバカにしているようだった。
「そんなに急かさなくてもさ、たっぷり遊んであげるから」
違う。そんなことを聞きたい訳じゃない。男の言葉はもう届かない。違う、そもそもこの化け物に捕まった時点で、命など保証されていないのだ――
「そういうわけで。いただきまーす」
少女の声は残酷なほど能天気だった。
***
隔絶絶命都市トウキョウ。この街がそう呼ばれるようになったのは、急速に男性の人口が減り、彼女たちの異質性に気付いた生物学者が提唱してからだった。
彼女たちは何の前触れもなく――厳密には発現した原因が未だに解明されていないまま――人間とはまったく異なる性質を持った生き物として誕生した。産まれるのは女の腹から。人間がまぐわうことで生命を受ける。容姿だって多少のイレギュラーはあれど、人間と言って差し支えないレベル。
ただ、その「異質」が、人間とは相容れなかった。
その女たちは、「吸血」によって生命を維持していた。寓話などに出てきた怪奇、吸血鬼の再来か。そんなもので済めば良かったが、彼女たちは世間一般に言う吸血鬼とも事情が違った。
その女たちは、男を喰らう。「異性」の血が最大のエネルギー源であり、委細は明らかになっていないが、とにかく喰らいつくす。男から血という血が抜かれ、干からびてしまうまで。
リコリス。
それが彼女たちの呼称であり、人の皮を被った
「あー、おいしーい! 脂の乗ったおじさまの血はガッツリ来るわね。たまのご馳走にはいい感じ」
厚い唇は赤黒い液体で染まっていた。手の甲で滴る液体を拭いとる。赤がまだ口の端に残っていたので、余すことなく舌で舐めとった。桃色だった唇はグロスが剥がれ艶を失っていた。
食事にご執心の少女の傍らには、綺麗に血と脂が拭いとられたチェーンソーが置かれている。ご馳走は何よりも先に頂きたいものだが、愛機がこびりついた血で動かなくなるのは困る。真水だって希少なのだし、メンテナンスも楽ではない。ちなみに、チェーンソーにニックネームはない。「道具に名前をつけるなんてイタくない?」というのが少女の弁である。
「にしてもやっぱり、血が噴き上げるのって最高ね」
甲高い笑い声をあげて、少女は白い脚をベッドの上でばたつかせた。返り血で斑点がついた腿を気にする様子はない。紺のブレザーも、カッターシャツも、プリーツスカートも赤いまだら模様。燃えるように赤い髪だけが、食事前と変わらなかった。
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