其の3

 振り向いたその男の表情は真顔であり、しかしながら完全な真顔というよりも先程見た笑顔の残滓の残った真顔という感じだったので周一はその反応に何かほっと一人安堵の念を覚えたのだった。

「おや…あなた様何か質問がおありですかな?して、それは道を尋ねるのではなく、もしかしてとても恥ずかしいことに関する質問だったりしますかな?」

だが咄嗟に中年男が返したまるで彼の心を見透かしたような言葉は、周一を目もくらむような恐怖のどん底にまで突き落としたのだった。当然彼の意識は一瞬失われかけたが、薄れ行く意識の中で、なるほど男が返した言葉は悪魔そのものの如きものではあるものの、その喋り方の調子、声の質、喋る時の彼の表情について見てみるならば、何か周一の五感の受信装置に、とても心地良く入り込んでくるソフトで慈愛に満ちた波長を何となく感じたので、それが彼の意識を暗闇から引き連れ戻してくれ、かろうじて自分を取り戻した周一は、小便をちびりそうになりながらも勇気を振り絞って質問を続けた。

「あの…経堂印刷の方ですか?あの、ちょっと質問があるんですが、あ、あの…」

 その男は露ほども邪念の感じられない明るい笑みを浮かべながら答えた。

「いやいや、はは私は集塵社の編集の者で、ここには校正刷りを持って来たのですよ。集塵社といってもね、『ヤングチャンプ』で大人気のあの漫画部…門ではなく、あるかないか誰も知らないホントちぃ~っちゃな文藝部門ではありますがね」

 しかし周一は集塵社に文藝部門があることはよく知っていた。『文壇』という発行部数の極端に少ない雑誌を出しており、ここが行っている新人賞からは他の賞に比べて数は少ないものの、川上智恵子や羽田助六などの芥川賞作家も僅かながらではあるが輩出している。実は周一自身もこの新人賞にはかつて幾度も応募したことがあり、仏御前的な女性と妓王的な女性が互いの身体をぶつけ合ってどっちが強いか較べ合うという実に野蛮で下劣極まる作品を渾身の筆致によって書きまくりしつこく送り続けてきたのだが、それらを書き上げた時点での彼の天下を取った如き興奮とは裏腹に、まったくどこがいけなかったのだろうか一次選考さえ通過することはなく、そんな訳で新人賞の下読みをする文藝誌の編集者というものに対して非常な憤りを覚えてはいたのである。もちろん彼は他の新人賞にも片っ端から応募していたからして『文壇』の編集者というよりは文學界全体への憤りではあったのだ。そうして何十回目かの落選の結果、ふと周一は、自分の本当にやりたいことは小説を書く行為そのものではなく、その天から与えられし自分の崇高な使命は妓王系の女子と仏御前系の女子とを対決させることによって当然感じるであろう筈の胸キュン♡感と性的むらむら感とをこの社会、つまり人類社会に対して啓蒙たらしめることにあるんだということに気づき、姫川の会社という格好の職場を得たこともあって、3Dでの妓王VS仏御前対決をとことん追求してしてやるんだという方向に自らの目標を軌道修正したのであった。周一は己の見出したこの性的むらむら感は、ただの性欲ではなく、その中には妓王側に必死で肩入れする際に感じる胸キュン♡感という初恋の慕情にも似た崇高な精神性が含まれているということについて、これはもはや畜生の如き人間から天使の如き人間まであらゆる人間に当てはまる、絶対的な性的むらむら感であるとの自負を持っているのだった。

「あの、ボクが質問したいのは、まさにその『ヤングチャンプ』についてだったんですけど、ぶ、文藝畑のお方なら、漫画青年誌のことってあまり詳しくはご存じないのでしょうね…?」

周一がおどおどとそう言うと、中年男はさも可笑しそうに頷いた。

「はいそうです、残念ながら私は文藝担当の編集者なので『ヤングチャンプ』のことはあまり詳しくは知りません。でもね、実は私だってね、それに連載されている『ヤングダム』って実は大ファンでありまして、こう見えても毎週欠かさず熟読しているんですよ。単行本だって全巻持っています。また実は私作者の原田泰三氏や『ヤンチャプ』の編集長とはかなり親しくお付き合いさせていただいておりまして。いひひ…、まあ『ヤングダム』に限って言えば作者、編集長に次いで私が日本で三番目に詳しいといっても過言ではないでしょうね。で、もちろんあなたが知りたいことっていうのも、その『ヤングダム』についてなんですよね?」

 一体コンビニの店員同様なぜこの中年男も周一の心を的確に読んでいるとしか思えない言葉を口にするのであろうか?周一は再び頭が奈落の底へと転落しかけたが、文藝編集者の口調にはそんな動揺も何となく忘れさせてくれるほどの親密で好ましいな波動が漂っていた。

「ふふっ、ねえあなた、『ヤンチャプ』33号での『ヤングダム』のあの終わり方、あれをあなたどう思われますか?あれはいけないことですよね!もう刺激が強すぎますっ!ねえあなた、妓王と仏御前、あの系とあの系のふたりの女子があそこまでギリギリの戦いを繰り広げるなんてことは、そして一番肝心なところでもって次の号に繰り越すなんてことは…、それこそ不謹慎ですよねえ、うひひひいっ……!!」

ついに中年男は周一の肺腑を抉り取るような妓王、仏御前という世にも恐ろしい言葉を使用してきた。周一はもうすっかりカラカラに乾き切った喉で答えた。

「はい…、あ、あれは女子の戦いのうち最もいけないものです。それは戦っているのが、妓王と仏御前であるからです!ていいますか…、妓王タイプと仏御前タイプの女子であるからであるとも言えます。他のタイプの女子同士の戦いならここまでいけなくないです!それは妓王タイプと仏御前タイプの女子同士の戦いを目撃することが、この世で最も激烈な性的むらむら感を起こさせるからです!し、しかしいけない一方で、それはまた崇高な面も併せ持っています!ボクはそれを胸キュン♡感と読んでますっ!!もうっ!!そ…それでボクは作者の原田がどうして妓王と仏御前の死闘をここまでつぶさに描いたか無性にしつこく知りたくて仕方ないんですっ!!や、やはり作者もやはボクが感じているのと同じ妓王が仏御前と戦うにあたっての性的むらむら感と胸キュン♡感を読者に啓発しようという意図があったのでしょうか?それともただ単に両者の作中での対決は物語の展開上避けられないことだっただけなのか。はたしてそのどっちなのだろうか?とねエエエエッ!!もうねエエエエッてばあああっ!!」

 あまりの彼の興奮ぶりに編集者もちょっと気圧されたようだった。

「そ、それは後者でしょう…。ま、まあ、作者は無意識的にはあなたの感じている性的むらむら感と胸キュン♡感を妓王と仏御前の対決に感じているかも知れないが、あなたほど明確にはそれを意識してはいませんよ。原田さんの人柄や考え方に直に接することの多い私がこのことは断言してもいいです!それは多くの読者も同じで、何となくモヤモヤしたものは感じておっても、あなたほど明確に意識してそれにこだわっているものはほとんどおりますまい。で…ところで伺いますが、あなたの感じているその胸キュン♡感というのは、当然妓王を力一杯応援する気持ちから来ているものなんですよね?」編集者は周一の目を覗き込んだ。

周一は面食らってどぎまぎしながら答えた。

「ええ、まあ、あの何というか…これはボクの心の一番恥ずかしい秘密なんですが、ボクはもうその、ぶっちゃけ、その、妓王的な女子が女子の中で一番強かったらいいなあと思ってるんですよおおおおおおおおおおーーーーーーーーっ!!うわっ…もう…うわああ、ああっ、ボクってどうしてこんななのかなあ…つ、ついに言ってしまった!!ああもう…妓王的な女子がそこに住む者たちの中で一番強い世界って、そんな世界があったらステキだなあって。その世界は最高にステキな世界だなあって。それこそが、いまのボクたちが住む世界の次の進化の段階にある本当に素晴らしい理想の世界の幕開けだなあ♡っていまでは確信をもってそう言い切ることができるんですうーーーっ!!うわあああーーーーー、つ、ついに言ってしまった…ボクってボクってどうしてこんな傾向であるのかなあああああああ!!」

「もしや、もしやひょっとしてですが、あなたは亀山周一さんではないですか?ペンネームが確か椎山林檎とかいう…」

 編集者がさりげなく、まだ告げていない名前ばかりか小説応募時のペンネームまで言い当てたので周一は目を皿のように剥いたが、考えてみれば男は彼が小説を何度も送った文藝雑誌の編集者であるのだから、それを知っていたとしても全く不思議なことではなかったのである。一体それにしてもいくら編集者とはいえ、一次選考にすら残ったことのない彼の応募者のペンネームはおろか本名に至るまで、記憶しているなんてことがあるものだろうか?

「失礼…亀山さん、前回、前々回とあなたからの応募はありませんでしたけれども、あなた、小説を書くのはもうやめたのですか?」

 周一は恥ずかしそうに答えた。「その、まあ…それは頓挫しました…。何か、ボクどうも才能ないみたいで…まあしかし小説って文章書くだけなんで、自分の恥ずかしい内なるムラムラっとした心象風景を表現するのには大変楽で都合が良かったんですけどね…、それについては最近自分なりにもっと過激に表現できる方法を…、といいますかね何といいますか、発見したつもりでもあるんで…、それボクのいまの職場とも大きく関わってくるんですが…そちらの方向にこう今後の創作活動をシフトさせてていくということで、それは大変やることが多くて面倒でもうイヤになるんですけどね…、まあいま検討中といいますか、実際に奮闘中でもあったりしておるところなんですがね」

 すると文藝編集者は眼を輝かせた。

「つまり亀山さんは小説以上に有効な表現手段を見つけ出したというわけですね。それは大変賢明な選択だったと思いますよ!まずはっきり言ってあなたの書く文章は下手クソで、もう目も当てられないものばかりだったです。まあ、このまま応募を続けてもあなた応募作が日の目を見る見込みはまったくなかったですな。しかしここだけの話ですけどね…、実は私はね、あなたの作品が編集部に届く度に下読みの段階で必ず一次選考は通過させておりましたのですよ。ええ通過させていました。お疑いでしょうか?いや、本当なんです。信じられないでしょうけどね、本当なんです。しかしそうするとあなたは一次通過者の中に椎山林檎という名前が一度も出てなかったのを訝しくお思いになりますよね?ええ当然そう思うでしょう。そんなわけで私、通過させた筈の亀山さんの名前が載ってないのをおかしく思って、ボツ箱の中をちょっと調べてみたんです。するとやはり赤マジックで大きく×印が表紙につけられてクシャクシャに丸められたあなたの作品が見つかりました…。まあまあ亀山さん、そう気分を害さないで…。で、この赤マジックで×をつけるというのは、うちの編集部の一人である吉本女史が不快なものを読んだ時に必ず行う癖で、彼女はそれほど妓王系の女子と仏御前系の女子を対決というくだらん内容に対して激ギレしたんだと思います。その後は吉本女史の後に下読みを行うなどしてこっそりとあなたの応募作が予選通過するよう仕向けていたんですが、やはりどうしてもボツ箱行きになってしまうようでありました。それで私、このことは吉本女史一人の仕業ばかりではないと、こう疑問を持ちましてね、編集長の引き出しにしまってある応募者のブラックリストを盗み見てみると、やはり案の定あなたの名前が記載されておったんですな。そもそもこのブラックリストというのはうちの編集部のものではなく、文藝界最大手の春夏秋冬社編集部から送られてくるものなんですよ。この大手編集部ってのは新人賞応募作の中にごくたまにですが見られる危険分子たちをリストアップして、彼等を決してデビューさせないように各出版社に通達しているんです。当然応募者の中には春夏秋冬社の新人賞に応募するのをやめて他社の新人賞に応募する者も多数いますからね、その場合は最終選考に残った作品を選考委員に見せる前、必ず一度春夏秋冬社の検閲を受けることが一般には決して知られていないが文壇全体の慣わしとなっていると、こういうわけなんです。当社もまた各社の文藝雑誌も春夏秋冬社からデビューする新人たちとは毛並みの違った新人を発掘しようとしているわけですが、もちろん或る程度のそうした自由幅は認められてはいるものの、ことこのブラックリストについては絶対的な強制力を持っておって、当編集部としてもにそのような者に賞を与えるわけには絶対いかないと、こういういう次第なんです。…とにかく小説の件では私の力及ばず申し訳なかった次第ですな。でもあなたが小説をやめて他の表現手段を見つけたことは何よりの吉報ですよ!いいですか、亀山さんがやろうとしていることは、文字媒体の小説ではどうしても無理がある。妓王系と仏御前系との対決っていうのは文章ではなくヴィジュアル上での対決であってこそ意味があるのです!文字だとあなたの狙い通りの視覚イメージを文字で固定的に表現してそっくりそのまま読者にそれを伝えようとしても、伝わるものはほとんどがあなたの狙いとは外れたものになってしまいます。小説の文章からどのような視覚イメージを想起するかは読者の数だけの想起の仕方があってしかるべきで、そこにこそ小説の本質があるのですからね…。ほら女性全体の大きな全体集合がありますとするでしょう?すると、あなたの狙っている…、つまり世界MAX的に性的むらむら感を触発する両者の対決っていうのは、妓王系もまた仏御前系もまた顕微鏡で見なければわからないようなとても小さなな部分集合で、それを文字だけでもって読者の視覚イメージをその点のような微かなところに向けさせるのは到底叶わぬ業なのですよ。あなたが『妓王系』と書いてもほとんどの読者は妓王系でない女子をイメージするであろうし、あなたが『仏御前系』と書いても、ほとんどの読者は仏御前系でない女子を想像するのです。ときに…亀山さんの職業って、アイドルの身体データのスキャン・3D制作をしていらっしゃったのでしたよね?まああなたって、職業欄に随分詳しく仕事の内容を書いてらっしゃたので、私とても強く印象に残ってるんですよ。それでちょっとピンときたのですけどね、あなたが小説からシフトしたジャンルっていうのは そのあなたの職業に関わってくるものじゃありませんか? 恐らくその表現媒体は…3D動画ではありませんか?」

 周一は的確に彼の狙いや内面を言い当ててくる編集者に圧倒されながらも、彼の小説を唯一評価してくれていた彼に出初めて会った同胞のような強い親しみを抱いたのだった。

「タレントやグラビアアイドル、ファッションモデルなどの身体を3Dスキャンして取り込み、それを3Dプリンターで出力したり、動画にしてCDやDVDの形で販売する仕事をしておりまして、いまこれをやっているのは、世界でもボクが勤めている会社だけなんです!」

「ほう、それはすごい…!!あなた、私のようなありふれた文藝編集者とは違ってまさに時代の最先端をいくパイオニアではないですか!いやぁそれはもう小説家などよりも遙かに希少価値の高い仕事ですよ。それはそれであなたの意図していることを実現できる、大変やり甲斐のある素晴らしい仕事ではないですか!!」

「いえ、それがそうでもなくって…ええ、勿論それは自分の新技術を仕事に上手く取り込めた時とか納得のいく形に商品が完成した時などは勿論やり甲斐を或る程度感じますが、肝心のアイドルの3Dデータときた日にゃ、これがまあ何とも糞面白くもない退屈極まる代物ときてましてね、つまりこう社の方針によって萌え系という言葉で一括りにされる例の限定されたつまらない範疇の女のコのデータしか取り扱うことが許されていない部分があって、自分としてはその手の女のコたちには全く何の興味も感じてないもんですから、まるで無機物を扱う流れ作業みたいな味気ない感覚で、毎日ただデータを右から左に移しているというような感じなんです。ねえ…あなた、佐伯ふわりって知ってます?秋葉このみって知ってますか?『萌え系』マニアによればこの二人には何かとてつもない違いがあるらしいんですけど、ボクの目にはまるで双子のようにまったく同じ顔に見えるしどこにどのような違いがあるのかの区別が全然つかないんですよ!ねえ考えてもみてください…、外見の同じようなしかも何の興味もないアイドルやタレントたちの身体データの洪水にまみれた毎日が如何に目眩がするほど退屈なものであるかを!!それくらいなら工場の流れ作業や宛名書きの内職のほうがよっぽどマシだなって思いますよ」

「亀山さん…、私、あなたの応募者プロフィルの職業欄に記載されていた会社名からその社長さんのことを少し調べてみたことがあるんですが、この姫川妖春という男、七、八年前芸能プロダクションの社長だった頃に覚醒剤所持で逮捕されたことがありますね…。その時は確かホテルの部屋でタレントやモデルの女のコ4名とコカインを服用中のところを現行犯逮捕されております。この男他にもある大物歌手への恐喝未遂事件や、山口きらら博記念公園コンサート詐欺事件やら、何かと警察のやっかいになることばかりの要注意人物です。またその一方で歌手やタレントを売り出す手腕には非常に長けていて、恐らくその『萌え系』一辺倒で統一した販売戦略というのも、それが最も売り上げを見込めるという、裏社会人間特有の直感によるものと思われます…。そしてマニアって人種はね、こと『萌え系』に関しては非常に閉鎖的・排他的なコミュニティーを形成しているもので、異物が…そのあなたの言う妓王系や仏御前系などの異物が混入することを極端に嫌うんですよ。もしあなたが仮に社長の目をごまかしてうまく妓王系の3Dデータを販売したとしても、それはまた逆にあなたの会社の商品を愛してくれていたオタクたちを全くシラケさせることになってしまって、会社の売り上げはそれこそ落ち込んでしまいかねませんぞ…。したがってあなた、たとえそれが単調なルーチンワークであったとしても、いまのところは会社の仕事は仕事とその路線で割り切って続けていくしかないのですよ。これは私も姫川社長と全く同意見で、いまはまだその仕事に妓王的なものを混入させる時期ではありません…!すると亀山さん、後はあなたの待ち望む妓王系と仏御前系の対決を今後どういう形で世間に露出していけばいいかって問題にですが…」

 周一は初対面にも拘わらずまるで24時間体制でずっと監視し続けていた者でもあるかのように彼の脳内を正確無比に知る中年編集者の顔を、気持ち悪さを通り越して感動すら覚えてじっと見詰めていた。

「実はボクもそれは趣味でやっていくしかないことはよくわかっています…。具体的にはまず妓王系と仏御前系の女子が淫らな死闘を繰り広げているところの動画を個人的に作成して、ユーチューブにアップするところから始めたいと思っています。この死闘は、それを観戦する者の性的むらむら感をそれこそうんと掻き立てるシチュエーションにして、もうさらにうんと掻き立てるものにしてやろうと思っています。と同時に妓王系への胸キュン♡感もはち切れんばかりに味わえる、ある種崇高な作品にも仕上げることができたらいいなあ~と思ってます。ああ…ボクにそれほどの才能があるのかどうか、不安といえば不安なんですけれど…。あっ!!ときに編集長殿!」

 彼がいきなり想定外の大声を張り上げたので、さしもの編集者もビックリしたようだった。「じ…、実は今朝ボク…、電車中で『ヤンチャプ』34号を読んでる学生に出くわしたんですね。そして、その時ボクは残業を終えて朝電車で千葉方面へ帰宅するところだったんですが、学生は水道橋から乗ってきてちょうどボクの隣に座って、その漫画週刊誌を読み始めたんです!!ええ、34号だったんです…!!まぎれもなく明後日発売予定のはずの34号でして、明後日っていうのはもう…、そこの経堂印刷の真向かいのコンビニにもまだ置かれてないことからそれこそ確実だと思うんですけれども、何故か彼はそのまだ出ていないはずの34号を読んでいたわけなんですよ!ボクは彼が読むその『ヤンチャプ』を隣から眼球だけをギョロッと固定したままこっそりと盗み読みしていたのですが、何と『ヤングダム』の最初のページに描かれていたもっていうのがもう、これが何ともはや日本の大文化を揺るがすと言っても過言ではないほどの…」

「それは塚本君ですよ…」編集者は周一の言葉を遮った。眼を白黒させている周一を尻目に編集長は続けた。「今朝あなたの隣で『ヤンチャプ』34号を読んでいたのは、恐らく塚本君といううちのアルバイトのコで、私が会員向けに不定期で造っている『時おり裏本プレミアム黄金倶楽部』という出版物の企画部門で働いてもらっているスタッフの一人です。この部門は実は私が立ち上げた集塵社の子会社という形になっておりまして、これはあなただから話すんですけどね…当社刊行の出版物を正規の刊行物とは別に、会員からここをこうして欲しいという要望…いや欲望の多かったものだけを、体裁は正規のものとそっくりのまま、法外な値段で秘密裏に販売しておるとわけなんですよ。もちろん完全に極秘の裏ルートでやっておりまして、この企画の存在はまだどこにもネットにも流出していません。ちなみに価格は通常の千倍ほどでありまして、まああなたに見られてしまった『ヤンチャプ』34号の場合ですと、通常の価格が330円ですから約33万円ということになります。それでもセレブ層の占める割合の多い会員の間でこの企画は大人気でありましてね、一回の企画で毎回数億の利益を得ることができるという次第なのであります。しかしまあ…そんな大事な極秘のものを電車の中なんぞの公衆の場で広げて読むなんて、塚本君は実にけしからんです!よろしい、今度厳しく叱っておいてやりましょう…」

「す…、すると妓王が仏御前を倒すというあの展開はウソで、会員からの要望に応えての裏『ヤンチャプ』34号でだけだったってことですか?」

「いいえあなた、『ヤングダム』だけに限って言うならば、あの展開は私の個人的な好みで原田泰三先生におねだりして描いてもらったものなんです。正規版では妓王が殺される寸前のところで主人公のケンが助けに来るという展開になっております。『ヤングダム』ほどのメジャー漫画になるとね…、妓王が勝つっていうのはどうしてもヴィジュアル的に無理がある…。ただ私どうしても妓王の活躍っぷりを見てみたかったんもんで…、無理を承知でお願いしたという次第なんですよ。だけど意に反してこれが会員の間では大評判でしてね、何ともはや『時おり裏本プレミアム黄金倶楽部』始まって以来過去最高の売り上げを記録しているのですぞ…!!」

周一は下腹部に突如突き上げてきた感情の処理に困った様子で、お尻をソワソワ動かしながら言った。

「ああ、どうしてかなあ…どうしてそこまで妓王的なものが仏御前的なものを倒すということに対して、この世の中は鉄壁のバリヤーを張り巡らすのかなあ…!!編集長殿っ!!ボクはねっ、いま妓王が仏御前を倒したあの展開がウソだったと知って、下腹部が歯痒さの混じった性的衝動ではち切れんばかりになっているのですよ!!ああ、どうしてかなあ…どうしてそこまで妓王的なものが仏御前的なものを倒すということを絶対性でもって遮断するのかなあ…編集長殿っ!!こうなったらボクはね、この一命を賭してでも妓王的なものが仏御前的なものをやっつけるものを作ってみせますって!!そうでもしなければ異常なまでに荒れ狂ったボクの下腹部の渦巻きはもう収まらないのだ。ああ、どうしてかなあっ…!!しかし編集長殿っ!!あなたがボクと同じ異常なまでの妓王応援派だったってことを知ってちょっと同胞を得た心強い思いです…。また世の中には意外と多くの妓王ファンがいるってことにもビックリすると同時に何かこうある意味大いに勇気付けられる面もありますね。これはボクが目標に向かって進んでいくにあたっての強い励みになりそうです!!それにしてもあの妓王が主人公のケンに助けられたのは情けないながらも、殺されなかったということを知ってホッとしたといいますか…、まことに妓王につきましては情けなくもお恥ずかしい次第なんですが…」

「亀山さん!!」中年男は強い口調で言った。「妓王系の女子ってね…記号的に見た場合、強さは中途半端であるものの、あれでなかなか死に難いという側面をも併せ持っておるんです。いいですか?今回だってケンに助けられたじゃないですか?そういうギリギリの危ないところで主人公に助けられるというのが、何故か妓王系の女子が担っている格別な意味での記号性であるらしいのですね…。これがどうしてそうであるのか、私としてももう一つ突っ込みが不足しているためか上手く言えないんですが…、この死に難さに関して、意外にも妓王のほうが仏御前系の女子よりも上であるようにすら感じられるんです…。これは実に意外なことなんですけどね…。しかしだからといってその死に難さがヒロイン系より上ってことはありません。よろしいですか、女子キャラ中一番死に難いのはあくまでヒロイン系です。二番が妓王系…。まああなたとしては、何にせよです妓王系が二番に甘んじるってことに関しては実に耐えがたいかもしれないけれど、私の見解としては、妓王系が二番目に死に難いってことは実にすごいことであるとこういうふうに、こう考えておるんです。というのは、その他の女子キャラの中にもヒロイン系に匹敵するほど視覚的に意味の濃い気な系たちがいろいろ存在しているわけでね、一見意味の薄気げな妓王系がそれらの只ならぬ意味を持った系たちを押さえてヒロイン系の次に位置しているというのは、もう雄叫びを上げてもいいくらい胸のすくことであると考える次第なんです!!ね?どうです、亀山さん?ヒロイン系、妓王系、仏御前系というそういう死に難さでの私のランク付けを聞いて、どのような感想を持たれたましたでしょうか?」

「うーん…ボクは、ヒトの情けに縋ったようなそういう死に難さなんて妓王系ともあろう女子に望みたくはないです。妓王系には、もっと正々堂々とまっこうから体当たりしてぶつかり勝つようなそういう潔い死に難さこそを望みます。しかし何にせよ死に易いよりは死に難いほうがいいに決まってるわけで、ヒロイン系、妓王系、仏御前系というあなたの女子ランキングにボクとしては何ら異論はありません。そして意味性の只ならぬというあなたの言葉をいま聞いていて、ちょっと数種類の女子キャラたちの記憶が反射的にパッパッパッと浮かんできたんですが…、なるほどあなたのおっしゃる通り只ならぬ存在感の女子キャラってのは確かに漫画やアニメに何種類も存在しているわけで、そういう彼女等を押さえての2位というのは、末永く息を止めていてもいいくらいの深い感銘をあなた同様確かにボクにももたらしてくれはします。何せ2位というのは仏御前系すら乗り越えてヒロイン系を除き全ての只ならぬ顔たちの女子キャラを陵駕したということですからねぇ!!だからまっとうな死に難さのほうにも視点を転じて眺めた場合、仏御前までもう一歩に迫ったという気すらしてきます。そうなるとそういう死に難さということに基づいて考えを推し進めていくならば、こう最後の標的である仏御前を乗り越える秘策なりヒントのようなものなりが…何かもうトンネル効果のようにスコーンと湧き出てくる気がしてまいるではありませんか!もちろん仏御前という絶対的な壁を乗り越えることってなまじっかなものではありませんけどね、あくまでそういう死に難さということを基に考えを推し進めていった場合にです…。それにしても単純な話2位ってのはボク好きじゃありません!2位の栄冠などは妓王ともあろう者にまず相応しくない。1位こそが……」

「亀山さん…」男はニコニコ笑顔で言った。

「場所を変えませんか?ご覧なさい。もうお昼時ですよ」

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