11.姉妹
「――というわけでアリッサがいなくなってしまったデスよ」
「「……ええっっ!!!」」
突然訪ねてきたアリスの父があまりにあっけらかんとしているので凪人もアリスも面食らってしまった。
「朝起きたときにはホテルの部屋から姿を消していてね、『アリスのところにいく』ってメールしてきたのでここだと思ったんだけど、残念、来ていなかったか」
凪人が出したコーヒーを口に運びながらソファーにもたれかかる父はどこへともなく視線を漂わせる。凪人とアリスは互いに顔を見合わせていたが先に動いたのはアリスだ。
「他に心当たりはないの?」
「Non。ミドリと手分けして探しているけどお手上げさ」
「――ところでパパはどうして私がここにいるって分かったの? マネージャーさんからはホテルにいるって伝えてもらったはずだけど」
父は思わせぶりなウィンクを寄越す。
「そりゃあ愛する娘のことだからね」
「……もう」
アリスは照れ隠しのように顔をそらすと隣に座る凪人の手の甲に触れてきた。父親の前で大胆な、と驚く凪人をよそに指を絡めてくる。ほんのりと赤らんだ顔が可愛い。
「アリスは本当に彼のことが好きなんだねぇ。パパさみしいよー」
初々しいふたりを微笑ましく見ていた父だったが、ふいに声音を落とした。
「実は明日のフライトでフランスに帰るんだ」
「えっ!」
弾かれたように顔を上げるアリス。父親の表情は暗い。
「アリスには言わないで欲しいと頼まれていたんだ。アリッサから」
「……またしばらくお別れになるの?」
「そうなるね。仕事もあるし、九月から学校が始まってアリッサも忙しくもなるだろうし」
その言葉を聞いた凪人は慌てて腰を浮かせた。
「じゃあすぐに探さないと!」
姉妹がきちんと話をするなら今日しかない。アリッサは行方をくらましていて電話もつながらない状態らしいが、このまま別れていいはずがない。しかし急き立てられるように立ち上がった凪人とは対照的にアリスは深く沈み込んだまま。さすがに心配になって声をかけた。
「アリス」
首を振る。力なく。
「どんな顔して会ったらいいのか分からないの。アリサは私のこと嫌いなのかもしれない。だって私、お姉ちゃんなのにひどいことばっかりしている。私を置いてパパと行っちゃったアリサのこと恨んだし、向こうで成功していることを妬んでメールや電話無視したこともあるし、凪人くんのことだって――」
「アリス!!」
両手でぱしんと頬を押さえた。勢いを殺して寸止めにしたので痛みはないはずだが涙目になっていたアリスがびっくりして瞬きを繰り返す。
(落ち着け、おれ。落ち着くんだ)
ぴんと張り詰めた空気の中、凪人はゆっくりと呼吸を繰り返す。
いますべきことは。いや、したいことは。
「アリスはどうしたい?」
「……私?」
「アリッサとケンカ別れしたままでいいのか? このまま離れ離れになってもいいのか?」
思い出すのは亡き父のこと。あまりにも突然の別れで、伝えきれない言葉が多かった。あんな後悔をしてほしくない。
もちろんアリスとアリッサは今生の別れをするわけではないが、いつなにがあってもおかしくはない。自分と同じ思いはして欲しくない。自己満足と言われるかもしれないが、一瞬一瞬を真剣に、後悔のないように生きて欲しいと思った。
だってアリスとアリッサはいま互いの手の届く場所にいるのだから。
「――――……やだ、です」
かすかだが頬をふるのが分かった。凪人はホッとして手を離す。
「アリッサを見つけてちゃんと話をしよう。いいことも悪いことも好きなところも嫌いなところも全部話そう。おれも一緒にいく」
ターコイズの瞳に輝きが戻ってくる。それでいい、と凪人は心の中で頷いた。
だが問題はアリッサの行方だ。広大な都市でひとりの女性を見つけるのは至難の業。だからと言ってアリッサ・シモンという名を出すのは憚られる。
しかし姉妹の前にはそんなものどうでも良かった。
「私、昔から得意なことがあったの」
目元を拭いながら立ち上がったアリスはスマホを手にしている。
「ママとアリサと三人で買い物に出かけるとアリサはいつも迷子になるの。そういうときに探しに行くのは決まって私。アリサがどんな場所が好きでどんなものを欲しがるのか手に取るように分かるんだよ。今だってきっとここにいるって確信がある」
※
タクシーに揺られること数十分。到着したのは。
「どう? 凪人くんは見覚えあるでしょう?」
「そりゃあ毎日のように通っていたからな」
ふたりがやってきたのは『黒猫探偵レイジ』を撮影していたスタジオが入るビル前だ。外壁や周囲の建物が多少変わっているが当時と変わらぬ佇まいをしている。
「でも本当にこんなところにいるのか?……ってアリスどこ行くんだ?」
てっきり顔パスでビルの中に入るのかと思いきや、アリスは逆方向に歩き出した。わけがわからないまま凪人もあとを追う。
「サインは見たことあるよね? あのあとパパやママに内緒でこのビルの前に来たことがあるんだ。いわゆる出待ちってやつ? ここで待っていればレイジが出てくるかもしれないと思っていたの。サインのお礼をしたかったし、ツーショット写真も撮りたかった」
「それ八歳とか九歳のころだろう。よく来られたな」
「本当にね、自分でもびっくり。ものすごい大冒険だったんだよ、今でもはっきり覚えているもん。お小遣いの五千円札をがまぐち財布に入れて、アリサの手をぎゅうっと掴んで二人きりで電車に乗って、いろんな人に道を聞きながらようやくたどり着いたの。でもその日は収録がなくて――もちろんそんなこと知らなかったんだけど、日がとっぷり暮れるまでこの辺りをウロウロしていたの。雨が降ってきて、心細くなったアリサが泣き出してそれで私……」
アリスと凪人が踏み込んだのは道路を挟んだビルの反対側。ショッピングモールか入るビルだ。エレベーターに乗り込んで最上階に到着するとさぁっと視界が開ける。
まっさきに飛び込んできたのは『アリスの庭』と描かれた看板。屋上庭園とでも言うのか、規則的に並んだ水路や花壇、生垣などが視界に映る。『不思議の国のアリス』をモチーフにした屋上広場だ。
「結構変わっちゃったな。昔は小ぢんまりした遊具と売店しかなかったけど、でも、すごくいい」
変わったと言いながらアリスは迷いなく進んでいく。薔薇のアーチや温室を通り抜けた先に見えてきたのは観覧車だ。手前の噴水の縁にぽつんと腰かける人影を見つけたアリスは「あぁ」と小さく息を吐いて早足になった。凪人は足をとめてふたりを見守ることにする。
「……乗ってみたい?」
近づいたアリスは観覧車の上を指し示した。
「この観覧車のてっぺんから見下ろしたらレイジが見つかるかもしれないよ。だからもう泣かないで。アリサ」
無表情だった人影――いやアリッサは幾分表情をやわらげてこくんと頷いた。
「うん……乗ろう、おねえちゃん」
※
凪人を地上に残し、ふたりはピンク色の観覧車のゴンドラに乗った。膝をつき合わせて向かい合っているがなかなか言葉が出てこない。このままでは埒があかないと踏んだアリスが窓の外を指差した。
「ねぇスタジオのビルがよく見えるよ。それだけ私たちが大きくなったのかな。昔は背伸びしても見えなかったもんね」
「うん」
「あの中にレイジがいるかと思うとドキドキしたよね。目が合ったらどうしようだなんて」
「ううん。それはムリと思ってた」
出鼻をくじかれて渋面を浮かべるアリス。
「……なに、そんな気持ちだったの」
対するアリッサは苦笑いを浮かべる。
「アリス、レイジのことになるとおかしかったから」
「むー」
たしかにレイジのこととなると自分の中に信じられないパワーが湧くのを感じた。昔ここに来たのだって本当は自分がレイジに会いたくてアリッサを付き合わせたとも言える。そう思うと罪悪感を覚えた。
「でもアリスの嬉しそうな顔見るの、好きだった」
「!」
はっとしたアリスは改めて妹に向き直る。
あんなに小さくて可愛かった妹はいまや世界的な俳優。長い脚を組んで座っているだけで画になる。
(それに比べて私は……。ううん、でも)
譲れない思いがある。言わなくてはいけないことがある。
「私アリサに謝ろうと思っていたの」
「もう謝った。『ごめんね』ってメール」
「違う。謝ったことを謝りたかったの。アリサが先に好きになった凪人くんを結果的に横取りした形になったことに負い目があって、だから謝って許してもらおうと思っていた。でも今は間違っていたと思う」
「どして」
「安易に許してもらおうなんて思っちゃいけなかった。たとえアリサ――ううんママやパパや柴山さんや事務所やファンの人たちに反対されたとしても自分の気持ちを貫き通さなくちゃいけなかったんだ。その覚悟ができていなかった。だから謝るのはこれが最後」
勢いよく立ち上がり、ゴンドラが揺れるのも構わずに大げさに頭を下げた。
「変に気遣ってごめんなさい。私はなにがあっても凪人くんを手放しません! 永遠の眠りにつくその瞬間まで愛し尽くします!!」
周りになんと言われようと大切な人を愛し続ける覚悟。
その決意がやっとできた。アリッサのお陰で。
ぎいぎいと揺れていたゴンドラの動きが止まったところでアリッサが口を開いた。
「……約束する? ナギと幸せになるって」
「うん」
「アリスが仕事を続けるなら、いつか、ものすごく大きな壁が立ちふさがるかもしれない、けど、それでも、ナギの手を離さない?」
その壁はとても分厚くて高くて深いかもしれない。
けれど。
アリスは頷いた。もう迷いはどこにもない。
「はい、誓います」
「ん、いい顔」
薄く笑い声を上げたアリッサはアリスの頬に手を伸ばした。
「おめでとう。あたしはアリスが幸せなら幸せ。ナギがアリスといて幸せならあたしも幸せ」
「じゃあアリサが凪人くんにアプローチしたのって」
「あれくらいでナギの心が揺れたらアリスは幸せになれない。だから試したの。演技」
「……アリサ、ありがとう」
アリスは妹の体をやさしく抱きしめた。
アリッサの鼻腔をくすぐるシャンプーはいつもとは違うもの。アリスが昨日泊まった黒瀬家の浴室にあるものだと思うとつんと目頭が熱くなった。
「幸せになってね、ナギと、ぜったい」
姉の背中に腕をまわし、子どものように顔を埋める。
あの日もアリスはこうして自分を慰めてくれた。
(ナギ、ばいばい。さよなら)
なぜか涙が出てくる。
これもきっとウソだ。
思い出とともに甘く優しく匂い立つ「初恋」から卒業するための。
ただのお芝居だ。
※
「アリッサがアリスを嫌いなわけさ。自らファンクラブに入ってアリスの活躍を自分のことのように喜んでいるっていうのに」
噴水前で待つ凪人の元にアリスの父が母を伴って現れた。父親はてっぺん付近を通過するピンクのゴンドラを眺めている。
「あのとき、本当はボクひとりで日本を離れるつもりだったんだ。だけどアリッサがついて来てくれた。自分がいればミドリやアリスも会いやすいだろうから家族四人で集まる機会が増えると思ってね。ボクが淋しくないようにと、アリッサは自らの孤独を受け入れてくれたんだ」
「優しい娘さんですね」
「もちろんさ。アリッサもアリスもボクたちの宝物だからね」
父の告白に母親は無言を貫いていたがポケットから取り出したハンカチでそっと目元を拭う姿が見えた。凪人はそちらから視線を外し、もうすぐ降りてくるアリスたちを待ち構える。
「というわけで泣かせたら許さないよ。OK?」
父親が肘で小突いてくる。
思いのほか険しい表情だったが凪人は臆することなく頷いた。
「――はい。必ず幸せにします」
観覧車が一周した。ゴンドラから降りてきたふたりの目は真っ赤。お揃いだ。
「アリス泣いてる」
「アリサだってー」
片手で互いの目元を拭いながらももう片手で固くつないだ手は離さない。
その姿がまるで小さな子どものようで、凪人は笑みをこぼさずにはいられなかった。
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