10.黒猫《あなた》を愛した理由

 ふたりは一階のリビングへと移動した。ソファーの上でホットミルクを口にしたアリスは「おいしい」と頬をほころばせる。「良かった」と応じつつ凪人の心中は穏やかではない。


(おれに言っていなかったことって、なんだ)


 あの口ぶりだととても重要なようだ。アリッサに「ごめんね」と謝ったことと関係があるのだろう。


『んにゃー(あたしを構いなさいよー)』


 不満を訴えながら足元にすり寄ってきたクロ子を膝に抱き上げたアリスは、艶やかな毛並みを撫でながらぽつりぽつりと話し始める。


「私、『黒猫探偵レイジ』を見てレイジ――凪人くんに一目惚れしたんだけど、本当言うと最初はぜんぜん興味なかったんだ。喋る黒猫が出てくる小難しそうな謎解きものとしか思わなくてチラッと見ただけでお絵かきとか別のことして遊んでいた。ドラマをちゃんと観るようになったのはアリサがきっかけなの」


 アリスとアリッサは性格も好きなものも全くちがった。


 明るく社交的で気の強いアリスはファッションやメイクや宝飾品などキラキラした眩しいものが大好きで、父や母が仕事で使う雑誌の切り抜きをコレクションしたり自分の理想のドレスや衣装などを画用紙に書くのが趣味だった。


 一方のアリッサは人見知りが激しくて無口で地味。そしてマイペースだった。文字だらけの本を読んだりひとりで黙々と積み木をしたり自分だけの時間を楽しんでいた。


「アリサは小学校に入ってまもなく不登校になったの。見かねたパパが家でお仕事するようになったんだけど私からすれば羨ましくて仕方なかった。だって私は髪や目の色を同級生たちにイジメられながら歯を食いしばって登校したのにアリサは家でだらだら、しかも大好きなパパと一日中一緒にいられるんだよ。ズルい。しかも私はもっぱらアリサへのお届け物係。連絡帳や学級便りをランドセルに詰め込んで家に持ち帰り、次の日は同じようなものをアリサの学級担任まで届けるの。召使いじゃないのに! って本気で怒ってた」


 だがしばらくするとアリッサは学校に通い始めるようになったという。

 アリスは腑に落ちないながらも「姉」というプライドだけでアリッサとともに登校するようになった。

 気の強さが災いして、ともすれば男子とも取っ組み合いのケンカをすることがあったアリスと違い、物静かで大人しいアリッサは同級生のみならず上級生たちから大切に扱われていたという。それがアリスの自尊心をさらに深く傷つける。


「なにがキッカケか分からないけど大げんかしてね、アリサが大事にしていた黒いぬいぐるみ――いまにして思えばまっくろ太だったと思うんだ、あれ。アリサが自分の手で縫ったもの――それをゴミ箱の中に隠したの。翌朝は運悪く燃えるゴミの収集日でママが知らずに出してしまって……見つけたときにはもうバラバラ」


『ん゛に゛ゃっ!!(バラバラはいやよ)』


 バラバラという単語に反応してクロ子が逃げていく。ソファーの裏に隠れて様子見をするように目を細めた。凪人は「大丈夫だ」というように頭を撫でてやる。


「災難だったな。アリスもすぐ返してやるつもりだったんだろ」


 本心でアリッサを傷つけるつもりだったならハサミなどでバラバラにしてしまうはずだ。それをしなかったのは。


「うん。アリサが一言謝ればすぐに返すつもりだった。正直言うと当時は小汚いぬいぐるみだなぁくらいにしか思っていなかったけど、アリサが肌身離さず大切にしていたのは知っていたから。私がしたイタズラのせいでアリサはものすごく落ち込んでいた、それこそご飯も食べないくらいに。どうやって謝ったらいいのか悩んでいたらパパが録画したものを見せてくれたの」



 ――いいかいアリス。アリッサが作ったのはそんじょそこらの黒猫じゃないんだ。ここに出てくる賢いまっくろ太なんだよ。



「でね、ちょうどそのとき見たのが『おおげんか。レイジとまっくろ太、コンビ解消?』の回だったの」


 あぁ、と合点がいった。

 まっくろ太が心待ちにしていた激レアのマグロの缶詰を、レイジがお腹を空かせた他の野良猫にあげてしまい大げんかする回だ。

 激昂して姿を消したまっくろ太を呼び戻すためレイジは七輪でサンマを焼いたりキャットフードを用意したり近所の野良猫たちに聞き込みをしたりする。


「でも結局まっくろ太は戻ってこなくて、レイジはたったひとりで難事件に挑むんだよな。なんとか解決に導くけど犯人が逆上して襲いかかってくる。そこに現れたのが――」


「そう、まっくろ太が助けに来てくれたんだよね。で仲直り。私ものすごく感動して、あぁそうかアリサはレイジやまっくろ太にこんなにも勇気づけられていたのかと初めて知ったの。小汚いと思っていたぬいぐるみにはアリサの思いがこもっていた。そんな大切なものを捨ててしまったのかと反省して、録画を観ながら同じものを縫ってみた。ほんと難しくて……目を覆いたくなるくらいひどい出来だった。でもアリサは笑ってくれた、「可愛い」って喜んでくれたの。そのときは無事に仲直りして――」


 トーンが低くなる。

 凪人は小首を傾げた。


「仲直りして『めでたしめでたし』なんだよな」


 頷いたアリスはどこか物悲しげだ。


「そう。だけど私それをキッカケに『黒猫探偵レイジ』にどハマリして、そうしてレイジ――あなたに恋をしちゃったの」


 アリスが告げた「言っていなかったこと」がこれだ。

 一体どんな重要事項かと思いきや、聞いてみればなんということはない。


「だから謝ったのか? 元々アリッサが好きだったものを横取りしたと思って?」


「ヘン……かな?」


「うーん変というか」


 なんと返答したものかと本気で悩んだ。

 アリッサは「自分が先に好きになった」と言っていた。

 アリスはアリッサが好きなことを知っていて後ろめたさから謝罪のメールをした。

 それぞれの心情は分かるが根本的な原因が自分レイジなのでどう解決すればいいのか分からない。


(おれ自身は複製コピーできないしな。同じレイジで顔が似ている来島……には新妻がいるし、そもそも問題はそこじゃないよな)


 結論は決まりきっている。

 アリッサに諦めてもらう。それだけだ。


 ただそこに至るまでのブロセスが重要になってくる。

 方法を間違えればかつてのケンカなど足元にも及ばないほどの亀裂が生じる恐れもあるのだ。


「だけど誤解しないで」


 アリスが急に腕を引いてきた。突然のことにバランスを崩した凪人を両手でぎゅっと抱きしめる。


「迷っているわけじゃないの。私は相手がだれであろうと凪人くんを渡すつもりは微塵もない。世界でいちばん、誰よりもふかーく凪人くんのことを愛している! アリサは大事な妹だけどこれだけは絶対に譲らない! 絶対にだから!」


「…………ははっ」


 きゅっと引き結んだ唇を見ていたらなんだか可笑しくなってきた。

 そう、自分も不安だったのだ。もしもアリスが自分よりもアリッサの気持ちを優先すると言ったらどうしようと。そんなものは杞憂だった。


 凪人の心情こころなど知らないアリスは顔を赤くして眉をつり上げる。


「ちょっ、なんで笑うの。私は真剣に――――んっ」


 無理やりキスをして口を塞いだ。むがむがしていたアリスはすぐに大人しくなる。

 しばらく舌先で遊んだあとに目が合った。


「……なんだかあついね」


 アリスが体を抜いたのが分かった。凪人は背中を支えながらソファーに横たえて覆い被さる。乱れた髪からはシャンプーと汗のにおいがした。

 薄着のアリス。軽く指先を滑らせるとかすかな反応が返ってきた。硬いところ、やわらかいところ、細いところ、太いところ、凹んだところ、膨らんだところ……どれも愛しい。


「アリス――」


「凪人くん――」


 熱い。

 アリスが欲しい。

 我慢できない。








 ――――――ピンポーン。




「「えっ……」」


 ふたりして固まった。

 無視しようと思ったが二度三度と鳴る。しつこい。


 仕方なく立ち上がった凪人はインターフォンの前に立ち「はい」と応じた。画面いっぱいに白いものが映る。


「……あの? どちらさまですか?」


 一体何事かと不審がっていると画面の向こうでガタガタと音がする。

 しばらく待ってから聞こえてきた呑気な声に背筋が冷たくなった。


『Oh失礼しました。コンニチワー! アリスとアリッサのパパさんですよー』

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