9.ごめんね
「そもそも分かんねぇのはなんでアリッサ・シモンは今になってそんなことを言い出したんだ?」
口ぶりとは裏腹に来島は凪人が出したパンケーキをナイフとフォークで丁寧に切り分けていく。日本人なら多少ぎこちなくなってしまうカトラリーの使い方に慣れているのは長い海外生活と母または養母による躾のたまものと言えるだろう。
「凪人とアリスは母親に正式に交際を認められた、喜ばしいことじゃないか。こんなやつのどこがいいのか知らねぇけど。なんで今になって横恋慕する? チャンスはいくらでもあっただろう」
分からない、と項垂れる凪人にかわって愛斗が口を開いた。五枚目のパンケーキをリクエストしつつ。
「アリスはアリッサになんて伝えたんだろうな。そこに
そうなるとやはりアリスに直接話を聞くしかない。
「まぁてきとうにがんばれよ」
それぞれきれいに皿を平らげて立ち上がる愛斗と来島。凪人は表まで見送りに出た。
「ありがとうございました。またお待ちしています」
店員としての挨拶をして見送る。来島は目を合わせなかったが松葉杖を持ち上げて合図をしてくれる。本当に素直じゃない。愛斗に手伝われて助手席に座った来島に近づくと窓を開けてくれた。
「そういえば来島、あの人……榛葉さんは今どうしてる?」
『榛葉』という名前を出した途端来島が露骨にイヤそうな顔を見せる。
「あ゛? オレが詳しく知るわけないだろ。葉山が言うには自ら謹慎と称して有給消化してるらしいぜ。九月末付けの辞表も提出済み」
詳しく知らないという割にはやたらと詳しい――が、突っ込みを入れると怒りそうなのでやめておく。
「そうか……Mareを辞めるんだ」
「ま、仕方ないだろうな。せっかく
凪人と来島。ふたりの『小山内レイジ』をうまく操った榛葉のあっけない最後に苦いものを感じる。アリスの写真を楯に自身を脅してきた榛葉を許すつもりはないが引き受けてしまった自分にも責任があるからだ。
「じゃあ凪人、もう行くよ。またな」
暗い表情になった凪人を気遣いつつ愛斗がエンジンをかける。
「はい。また」
「次はもうちっとマシな顔で接客しろよ」
「うるさいな」
凪人が体を引いたのを確認して走り出す車体。
真っ赤なボディが見えなくなったところで自宅を振り返った。
「……よし」
店先に『本日休業』の札が出ていることを確認して鍵を閉める。静かになった店内にはコーヒーの匂いだけが漂っていた。余っていたものを私物のマグカップに注いでから自宅の二階へと向かう。なぜか忍び足になった。
※
「アリス。起きてるか?」
「……」
ノックして部屋に入るとベッドの上で小柄な体が身じろぎした。立ち止まった凪人は息を詰めて見守ったが相手は特段起き上がるでもなくごろりと横たわったままだ。
「もう十一時なんだけどな」
勉強机の上にコーヒーを置きベッドを覗き込む。まっさきに飛び込んでくるのは人形のような寝顔だ。
(ホントよく寝てるよな……)
ベッドの主は薄手のシャツを一枚羽織っただけのアリスだ。さほど広くない凪人のベッドを長い手足で占領し、普段使っている枕を胸に抱き寄せて眠っている。まるで子どものような寝姿がおかしくてクスッと笑うと突然ぐるんと寝返りを打った。
「わっ! な、なんだよ急に」
慌てる凪人とは裏腹にアリスは苦しそうに息を吐く。
「……あつぃ」
なるほど。窓には遮光カーテンを引いているが外は猛暑だ。室内の気温も必然的に上がる。アリスは頬を紅潮させ、汗ばんだ体でごろごろと転がった。これだけ動いても起きないのだから相当なものである。
仕方なく冷房のスイッチを入れてやると今度は気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「――アリス……」
身を乗り出してアリスの頬に触れる。唇に貼りついた髪の毛を払ってやると指先に生あたたかいものを感じた。
――昨夜。帰りたくないと駄々をこねるアリスを落ち着かせようと風呂に入らせて夜食の準備をしていたら、気がついたときにはこうなっていたのだ。疲れて寝ているところを引きずり出すわけにもいかないのでベッドを譲ることにして凪人はフローリングに布団を敷いて寝た。なかなか寝つけなかったのはアリスが泣いていたせいだ。
「ぃ……ないで、行かないで……」
なんの夢を見ているのだろう。アリスはいまも泣いている。まるでだれかを探し求めるように伸ばされる手。凪人はその手を掴んで優しく口づけした。
(おれがいるよアリス。おれが)
このままアリスの隣で眠りたい。
そんなことを考えて自らの体を横たえた瞬間、アリスの肩がおおきく揺れた。
「……だめ!」
叫ぶと同時に起き上がる。驚いて凪人も跳ね起きる。ばっちり目が合った。
「え、と……おはよ。アリス」
お互いに面食らっていたが先に平静を取り戻した凪人は笑いかけた。アリスは状況が掴めないらしくパチパチと瞬きする。その度に涙がはじけ飛んだ。
「あ、あれ私……あぁそうか凪人くんのベッドで寝ちゃったんだ。ごめんなさい」
「おれは大丈夫だけどアリスは大丈夫か? ずいぶん泣いていたみたいだ」
そう指摘されて初めて自分の目元に手をやった。手の甲でごしごしと乱暴に拭ってから凪人に向き直る。
「だいじょぶ……じゃなくもない」
「どっちだよ」
いつもの甘えたいモードだ。
凪人はつないだままの手を引き寄せて抱きしめた。泣いたあとのアリスの体はとても冷たくて一層華奢に感じる。
「夢見てたの。アリッサとパパが日本を発つ日の夢。私パパとママが離婚することもアリッサたちが遠くへ行っちゃうことも知らなくて、家族揃ってのお出かけが嬉しくて気合い入れておめかししたの。だから私とママの分のチケットがないことを知って大泣きして、アリッサに八つ当たりして、ちゃんとお見送りもできなかった。……さみしくてかなしくて、おかしくなりそうだった」
「うん分かるよ。突然いなくなっちゃうのは悲しいよな」
凪人の脳裏に浮かんだのは父の通夜だ。
子どもだった凪人は祭壇前の棺に入れられた父がもう動かないことなど理解できない。きっとなにかの遊びだと思い込んだ。だから弔問客のことなど意に介さず棺の横に陣取って父が好きだった歌を口ずさんだり一緒に遊んだ車のオモチャを動かしたりして「お父さんも混ぜてくれよー」と棺から出てきてくれるのを待った。
それにも飽きて、最後は隠れんぼの要領で「おとうさんみっけ」と声をかけた。「今度はぼくが隠れるから追いかけてきてね」そう告げて走り出した。きっと父は追いかけてきてくれる。きっと見つけてくれる。そう信じて葬儀場の倉庫のようなところに隠れて待った。雨が降っていた。傘がなくてビショビショになった。父はこなかった。
「……なぎとくん? 泣いているの?」
目蓋を撫でられる。ぽろりと涙が流れた。
「ごめん」と謝ってからアリスをさらにきつく抱きしめる。もう十年以上も経っているのに父のことを思い出すとあまりの悲しみに自分の輪郭を失いそうになる。いまでも凪人の心を深く蝕んでいるのだ。
「アリスありがとう。ここにいてくれてありがとう」
冷房の風がボウボウと吐き出される中、少し汗ばんだアリスの体だけが凪人の心をつぎとめてくれていた。キスをして互いの熱を交換すればそれはより鮮明になる。
「怒らないで、きいてね」
何度目かのキスのあと、アリスは凪人の口を人差し指でふさいだ。
「ママに交際を認めてもらったあと凪人くんとのツーショット写真を添えてアリサにメールをしたの。『ごめんね』って。許してもらいたかったの」
不安そうに揺れるターコイズの瞳を前に、凪人は息を殺してつづきを待つ。
「私、まだあなたに言っていなかったことがあるの――」
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