8.けんか
「……はぁ」
黒猫カフェは朝から重たい空気に包まれていた。それというのも凪人のため息が理由である。見かねた客がクレームを入れる。
「っせぇな、この店はそんな顔して接客すんのかよ。だれも来なくなるぞ」
遠慮の無い物言いにカチンときて目線が鋭くなる。
「……今日は休業日だ。おまえが『コーヒー飲ませろ』って突然押しかけてきただけだろう」
「ふん、
鬱陶しそうにコーヒーに口をつけたのはカウンター席の一角を陣取る来島怜史だ。
初代の『小山内レイジ』で、その顔立ちは凪人と瓜二つ。双子と言ってもいいほど似ていながら赤の他人である。赤く染めた毛先を強めのワックスで寝癖のように遊ばせるのが奔放な気質をよく表している。
「もう出歩いても大丈夫なのか?」
立てかけられた松葉杖がいやでも視界に入る。実母をかばって車にはねられた来島は一ヶ月あまり意識不明だったのだ。
しかし当の来島は鼻で笑ってウィッグを外した。生々しい傷跡が残る頭部があらわになる。芸能人としては好ましくない裂傷も来島にとっては身を挺して母を守った勲章なのだ。
「この通りピンピンしてるぜ。順調すぎて医者がびっくりしているくらいだ。まだ急に力が抜けることがあるから松葉杖使っているけど近いうちに仕事に復帰するつもりだ」
むやみやたらに周りを攻撃していたころとは違い、いまは暴言を吐きつつも凪人への風当たりはだいぶ弱まっている。
「そうか。良かったな」
「うるせぇ、コーヒーのおかわりよこせ」
訂正。風当たりは相変わらず強い。
「そう言うな来島。凪人の様子を見に行こうって言い出したのおまえだろう。――あっ凪人、キャラメルマキアートおかわりな」
来島をとりなしたのは隣の愛斗だ。凪人が知らないうちにふたりは連絡先を交換していたらしく、たまに来島をドライブに連れ出しているという。今日来たのは息子の様子を案じた桃子からのメールを見て心配した愛斗が来島に伝えたのだという。
「はい、キャラメルマキアートどうぞ」
「サンキュ。桃子さんは二泊三日の旅行なんだってな」
「はい、毎年恒例の大学のOB・OG会だそうです。父と母は同じ大学出身なので父の分も楽しんでくると出かけました」
「そうか。桃子さんと、亡くなったお父さんが」
「ええ。
愛斗の顔に一瞬影が差したことには気づかなかった。来島が苛立たしげに机を叩いたからだ。
「顔見に来てやったんだぜ、感謝しろよ。悩んでいるうちに時計の針はあっという間に進んじまうぜ、さっさと誤解を解けばいいだろう」
「あのな! 誤解もなにもアリスにはちゃんと話したよ。やましいことは何もないって。アリスも納得してくれた」
優しさと照れくささの裏返しなのだが来島の口ぶりはすこぶる悪い。凪人も反射的に言い返してしまうが、思えばこれまで外聞を気にせず好き放題言い合える相手はひとりもいなかった。目立たないようにと自分を殺して生きてきたせいだ。
だから凪人にとって来島は良くも悪くも特別なのだ。
「はっきり言え。じゃあなんでウジウジしてんだよ、きもちわるい」
「それは――」
思い出すのは昨夜のこと。
『どうして凪人くん……とアリサが……キスしてるの?』
あのときアリスはまだ仕事中で、観客にインタビューするために出歩いていたのだ。後ろからは撮影スタッフがついてきていた。
すぐには話ができないこともあり「心配させてごめん。あとで話したい」とだけ告げて現場を後にした。近くで待機していた柴山を見つけて事情を説明し、近くで待たせてもらうことにしたのだ。
アリッサは夜までに浴衣を返却する必要があったのでタクシーを捕まえて先に帰らせた。エスコートを頼まれた以上は家まで送り届けるのが筋だと思ったがアリスの方を優先した。
『――というわけなんだよ。戸惑わせてごめん』
仕事を終えて柴山の車に戻ってきたアリスをつかまえて事情を説明すると「分かってるよ」と頷いてくれた。ただし表情は浮かない。
『知ってたもん。アリサが凪人くんを――レイジのこと好きだって知ってた』
『アリス……』
肩を抱こうとするとぱしんと弾かれた。眉をつり上げて怒っている。
『でも凪人くんも悪い! 脇甘すぎ! だらしなさすぎ!』
『はい、申し開きもできません』
『あと優柔不断! それに甘い!……だけど優しいし、あったかいし、演技うまいし料理おいしいし……最高すぎる』
『あ……えと』
微妙な空気になる。どんな顔をしたらいいのか分からなくなってきた。
それはアリスも同じだったらしく、気を取り直したようにゆるんだ頬を引き上げる。
『えぇえと、ともかく! 今からおしおきします!』
『あ、うん。なんなりと』
『よろしい』
振りかぶった両手でばちんと頬を挟まれた。それほど痛くはないが歯に響く。
『ありひゅ、ごめんなひゃい』
頬を潰されているせいでうまく言葉にならない。
『――許さない。許さないけど険悪になって凪人くんとイチャイチャできないのはもっとイヤ。私の怒りはまだまだこんなもんじゃないからね!』
ぱっと手を離すと立ち上がって一回転した。
『さぁ褒めて。ありったけの言葉で私を褒め称えて!』
『えーと……可愛い、美人、スタイル抜群、目が綺麗、髪色が目を引く、浴衣似合う、結い髪がキュート』
『次。ハグ!』
『はい』
言われたとおり背中に腕を伸ばして抱きしめた。浴衣のせいか収まりが悪い。アリスも居心地悪そうに身じろぎしていた。
『んんーもっと強く』
『はい。これでどうですか』
顔が密着するくらい強く引き寄せる。けれどアリスはまだ不満そうだ。
『本当にアリッサとは何でもないんだよね。心変わりなんてしてないよね』
『神に誓う』
『……なに神さま?』
『女神アリスだよ』
『じゃあキスして』
『分かった。一回でいいのか?』
『ばか!』
そんなわけで数えきれないくらいキスをした。柴山から「いい加減にしろバカップル」と呆れられるまで。
「修羅場のはずがイチャコラかよ。しょーもねぇ」
来島が呆れるのも無理はない。
凪人は肝を冷やしたがアリスは嫉妬心を隠さずにいつも以上にくっついてきたのだから。
「だからアリスは納得してくれたって言っただろう」
険悪な雰囲気になったので愛斗か割り込んだ。
「まぁふたりとも落ち着け。で、アリスはいまどうしているんだ?」
凪人は再度ため息をつく。
ゆっくりと親指を立てて天井に向けた。
「寝てます。おれの部屋で」
「「……」」
愛斗と来島はしばらく顔を見合わせ、同時に「はぁっ!?」と叫んだ。
凪人のため息の原因はまさにそれなのだ。
「帰りたくないって言ったんですよ。アリッサと話したくないって。だから柴山さんを通じてお母さんに連絡してもらって、昨日はうちに泊まりました。おれのせいでふたりがケンカ状態になってしまったのが辛くて……だから……はぁ」
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