5.レイジとアリッサ
『パパ、なにみてるの?』
幼いころから父の部屋はヒミツ基地みたいだと思っていた。
七歳のアリッサがうんと手足を伸ばしてもまだ届かない大きな机の上にずらりと並んだ四角い箱、ちかちかと色んな映像を映し出すそれがモニタだと知ったのは随分あとのこと。英語とひらがなが石ころみたいに並んでいるキーボードを父の太い指先がサラサラと撫でると途端にモニタが色を変える。
『おいでアリッサ。パパの膝で見てみるといいよ』
父は椅子から立ち上がるとアリッサを膝に抱えて座り直した。下からでは見えなかった景色が飛び込んでくる。
『わぁ、くろねこさんだー』
モニタの中で歩いたり尻尾を振ったり体を舐めたりする黒猫はまるで本物のようだ。
『これはパパの会社で創っているCGで、まっくろ太っていう名前なんだよ』
『まっくろ太、まっくろ!』
『そうさ。真っ黒だからまっくろ太なんだ。人の言葉を話すとても頭のいい猫なんだよ』
『アリッサも! アリッサはなしたい。まっくろ太どこにいるの?』
『うん……ちょうど時間だ。一緒に観よう』
父に抱かれたままリビングに向かう。テレビをつけると『おそいにゃー』との叫び声が聞こえ、先ほど見た黒猫がこちらに走ってくるところだった。『待ってよ、まっくろ太ぁ!』遅れて画面の奥から走ってきたのはひとりの少年。
ひとりと一匹がテレビの前で『黒猫探偵レイジ、はじめるよ!』とオープニングコールをしたところで楽しげなマーチが流れる。
『パパ、この男の子はだれ? まっくろ太の飼い主?』
アリッサはしきりに少年を指差す。その興奮を隠しきれない様子に頬を緩めながら父は髪を撫でた。
『そう見えるだろう。でも飼い主じゃないんだ、相棒さ』
『あいぼう?』
『とっても大切な友だちのことだ。名前はレイジっていうんだ』
『れいじ、くん……?』
十五分の短い物語はあっという間に終わってしまう。
名残惜しそうにしているアリッサを見て父がこれまで撮りためた録画を見せてくれた。
時には幽霊が怖くて泣きわめき、時には真剣な目つきで謎解きをし、時には事件現場に勇敢に乗り込む。黒猫まっくろ太を相棒に町を駆け回る姿にたちまち夢中になった。
(レイジくんすごい、かっこいい)
アリッサは目を瞬かせる。彼はいままで会ってきた意地悪な男の子とはちがい、目や髪の色がふつうとは違うアリッサにもとても優しくしてくれそうに思えた。
『おっと。もうすぐアリスが小学校から帰ってくる時間かな。一階のエントランスまで迎えに行ってくるよ。アリッサも行くかい?』
アリッサはテレビに喰いついたまま首を振る。父は『すぐに戻るよ』と頭を撫でてから部屋を出ていった。
(……レイジ)
このころアリッサは小学校に馴染めず不登校になっていた。幼稚園までは「目や髪の色が変わってるね」と言われたものの周りの友だちはごく普通に接してくれていたのに、小学校で初めて会った同級生たちは異常だった。
「かわいい。お姉さんよりもずっとかわいい」と人形みたいに自分を扱う女の子たち、「目の色が気持ち悪い」と意地悪してくる男の子たち。いつもオロオロしている先生。
頼りにしていた姉のアリスは「アリサばっかりちやほやされてズルい!」と怒ってばかりだ。
じつは姉自身も自分の容姿で男女問わずからかわれた経緯がある。生来の負けん気で立ち直ったものの、最初から女子に可愛がられるアリッサが羨ましかったのだろう。
けれど幼いアリッサにそんなことは分からない。だれにも助けを求められず、どんどん息苦しくなって、三ヶ月も経たないうちにランドセルを見るのもイヤになってしまった。
いち早くそれに気づいたグラフィックデザイナーの父は会社に直談判して在宅で作業するようにしていた。「子どもを甘やかすのは親の義務であり特権だ。無理なんてしちゃいけない。いつも笑って。スマイルスマイル。アリスとアリッサはパパとママの宝物だよ」そう言ってアリッサに寄り添ってくれている。
一方で「子どもを正しく教育するのが親の務め」と自負する母との間に少しずつ亀裂が生まれていたことをアリッサたちは知る由もない。
『たっだいまー。アリサなにみてるのー?』』
アリスがばたばたと足音を立てて帰ってくる。テレビに釘付けになっているアリッサに気づいて隣にやってきた。
いつもならパンパンに詰まったランドセルを見せつけられると憂鬱な気持ちになったが、ちょうどレイジも同じようにランドセルを背負って学校に行くところだったので今日は気にならなかった。
『レイジとまっくろ太のおはなしだよ』
『ふぅん……』
ターコイズの瞳を瞬かせて画面を見つめるアリス。その様子が気になって胸がドキドキしてきた。
『この男の子と黒い猫がなぞ解きするの?……なんか、つまらなそっ』
アリスは一瞬で興味を失って自分の部屋に走り去る。あぁ良かった、アリッサは小さく息を吐く。
姉のアリスは自分よりもずっと社交的だ。ウジウジするのを嫌い、どんな相手にでも立ち向かっていく。もしもアリスも自分と同じようにレイジのことが気になった取られてしまう気がしたのだ。
『ぼくは鳴いている猫と女の子の味方なんだ。きっときみを笑顔にしてみせる』
テレビの向こうからレイジが優しく語りかけてくる。
アリッサは強く頷いた。唇を左右と引っ張るとうまく笑えた気がした。
(……レイジ)
胸の奥がぎゅうっと痛い。
どうしてこんな気持ちになるのかは分からなかった。
ただ、自分と同じくらいのレイジがこんなに頑張っているのだ。自分だってきっと頑張れる。
録画を全部見終えると押し入れからランドセルを引きずり出してきた。軽く埃をはらってから明日の時間割の教科書を準備しはじめる。
『おやアリッサ……』
その様子を見つけた父が優しく見守る中、アリッサはひととおりの支度を終えた。おやつのクッキーを頬張りながらお絵かきに夢中のアリスの元へ走っていく。
『アリス、あしたいっしょに学校いこ』
『んー? いーよ』
がんばっていればいつか、レイジに会えるような気がしたのだ。
※
「……アリッサ?」
突然抱きつかれた凪人は震えるアリッサの体をそっと押し返す。
「落ち着け。どうしたんだ? なんだか変だぞ」
「ナギのせいだよ」
「……」
好きだと言われた。その言葉や気持ちを無視することはできない。聞こえないふりをすることはアリッサをさらに傷つけるだけだ。
「アリッサ。気持ちは嬉しいけど――」
「ナギは、忘れちゃった?」
風が吹いてアリッサの髪を揺らす。なぜかターコイズの瞳から目がそらせない。
「あの夏の日のこと。アリッサはいまでも思い出すよ。テレビごしでしか会えなかったレイジに――ナギに初めて会ったときのこと。忘れられるわけない。だって」
途切れ途切れのアナウンスが聞こえなくなり、最初の花火が打ち上げられる。
光の尾を描きながら上昇していく花火が夜空にパッと花開いた。天を割るような三尺玉の轟音が凪人の記憶をはげしく揺さぶり、乱す。
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