97.お泊まりしたい!

「アリス……逢いたかった。ずっと探してた」


 抱きしめた腕の中にいるアリスの体温、弾力、におい。すべてが懐かしくて愛おしい。もう放したくない。


「見つけてくれてありがとう」


 凪人の背中に腕をまわしたアリスも抱き心地を確かめるように背伸びしてくる。


「あれAliceじゃない」

「ラブラブ―」

「彼氏いたんだ」


 そんな声が周りから聞こえてふたりは我に返った。


「ちょっと歩くか」


「う、うん」


 アリスがウィッグを拾い上げるのを待って手をつないで歩きはじめた。こんな姿がSNSで拡散されたらどうしようと思う一方で、絶対に手を離したくなかった。アリスも同じらしく人目をはばかるように顔を伏せながらも指先に力を込めている。


 跨線橋をわたって横倒しにしていた自転車を拾い、ふたりで並んで歩いた。腕を組んでいるアリスにこれまでのことを話す。


 小山内レイジとして過ごした日々。

 芸能界から離れたあとの嘔吐症。

 ドラマに出演した経緯は来島の母親プライベートに関わる点があるので詳しくは本人に聞いてほしいと前置きしつつ、写真のことはきちんと説明しようと思った。


「写真?」


「そう。ロケ先で俳優さんとホテルに入ったところの。あれが公になったらアリスの芸能活動に支障が出るだろうし、また他人を拒絶するようになったと思うと怖くて断れなかったんだ」


 ぴた、っとアリスが足を止めた。

 凪人も不審になって立ち止まる。


「…………凪人くんのバカ」


「ん?」


 顔を覗き込もうとするとアリスは涙目になって叫んだ。


「バカって言ったの! 病気のことがあるのに私なんかのために無理してドラマに出たんでしょう? バカバカバカ大バカ!」


 ぽかぽかと胸を叩いてくるアリスにどうしたらいいのか分からなかった。


「私そんなことも知らずに凪人くんを責めてあんな態度とっちゃって……本当にごめんなさい」


 今度は髪の毛が乱れるのも構わずに大げさに頭を下げる。自責の念に駆られているのだろう。

 凪人は呆気にとられつつも自転車を固定してから手を伸ばした。


じゃないよ。アリス頑張ったんだ。モデルのアリスもこうして目の前にいるアリスもどっちも好きで大切なんだ。おれの誇りなんだよ。アリスを守るためならなんでもする、これからだってそうだ」


「凪人くん……ありがと。だいすき」


 ターコイズの瞳に星がにじむ。あぁキスしたいんだな、と思ったときには自転車を放り出してキスしていた。

 もう他人の目なんてどうでも良い。アリスのことが好きだという素直な気持ちに従った。


 細い首筋に唇をすべらせ、ミルクティー色の髪に腕をくぐらせて力強く抱き寄せると「ひゃっ」と悲鳴を上げて前のめりになってきた。汗ばんだ身体からは濃厚な匂いが漂ってくる。


「アリス……おれ」


 妙にどきどきする。

 体の中でピンポン玉が飛び回っているみたいだ。


「アリスのこと……抱きたい、かもしれない」


「ふぇっ」


 素っ頓狂な声が漏れる。

 耳が真っ赤だ。


「ダメ――かな」


 目を合わせると気恥ずかしさが倍増した。

 けれど溢れ出した気持ちは止められない。


「…………ううん」


 無言だったアリスは覚悟を決めたように首を振った。

 凪人に抱き寄せられたまま胸元に手を這わせてくる。


「ダメじゃない。全然、ダメじゃない。うれしい」


(そんな目されたら家まで我慢できないかもしれないじゃないか)


 落ち着け落ち着け。

 なんとか自分をなだめながらアリスの手を引いて足早にマンションへと向かった。まだすべてが解決したわけではないのだ。




「ママ。心配させてごめんなさい」


 アリスは丁寧に頭を下げた。

 玄関先で出迎えた母親は娘を前に渋面を浮かべている。凪人が本当にアリスを連れ帰ったことも内心は複雑なのだろう。


 凪人は黒猫のモチーフを母親に渡した。「あなたから返すべきです」と耳打ちして。居心地悪そうに手の中のものを見つめていた母親はしばらくして覚悟を決めたように息を吐いた。


「――――アリス」


「は、はい」


「大切なものを壊してごめんなさい。わたしが悪かったわ。これ直るかしら」


 娘の元に自ら歩み寄って黒猫を返す。


「だいじょうぶだよ、お店で修理してもらうから」


 アリスは感極まったように唇を噛みしめながらも微笑んだ。それを見た母親も肩の荷がおりたように表情をほころばせる。


「それから黒瀬さんも。アリスがご迷惑をおかけしました。その点はお詫びします。約束どおりふたりの交際は認めます」


「ママ……!」


 アリスがぱぁっと顔を染める。けれど母親は「ただし」と首を振る。


「許したのは交際だけよ。結婚については当面認めるつもりはありません」


「えー……」


 目に見えてアリスは落胆する。

 彼女を勇気づけるように凪人は手を握り、母親の目を見つめた。


「おれは本気でアリスさんと結婚したいと思っています。もちろん簡単に許してもらえるとは思いませんが、許しを頂けるまで何度でも伺います」


 交際を認めてもらったとしても結婚とイコールではない。結婚を祝福してもらえるまで何度でも頭を下げるつもりだ。なにを言われても諦めるつもりはない。


「こう見えて忍耐強さには自信があるんです。あなたが折れて「好きにしなさい」と呆れるまで頑張ります」


 挑戦的な眼差しを受けて母親も目を細める。


「こんな厄介な男性を好きになるなんて……ほんと、だれに似たのかしらね」


「それはもちろん!」


 アリスは嬉々として凪人の腕に飛びついた。


「ママに決まっているでしょう! だってパパが言ってたもん。仕事で知り合ったママがランチの誘いを受けてくれるまで電話を52回、デートに応じてくれるまでラブレターを192通、結婚をオッケーしてくれるまで5年半もかかったって」


「マイケル、余計なことを……」


 頭を押さえて項垂れる母親にアリスはなおも言いつのる。


「私なんて彼に一目惚れしてから付き合うまで7年もかかってるんだよ。早く幸せになって欲しいでしょう?」


「7年? そんなにアリスを待たせているの?」


 急に目つきが変わった。

 アリスが言う7年は小山内レイジとしてデビューしたときなので凪人と面識はないのだが、この言い方では誤解されてしまう。


 案の定、


「分かったわ。お互いに十八歳になったら結婚を再考しましょう。けれどそれまでにアリスを泣かせるようなことがあれば今後一切の付き合いを絶っていただくのでそのつもりで」


「だってよ! 凪人くん!」


 ばしんと背中を叩かれ慌てて背筋を伸ばした。


「……えっ、あ、はい、がんばります!!」


 アリスは「やったね」とばかりに親指を立てている。

 なんだかよく分からないままアリスの策略にまんまと嵌まった気がする。自分も彼女の母も。


「それでねママ。今日彼の家に泊まりたいの。付き合っているんだからいいでしょう?」


 調子に乗ったアリスがとんでもないことを口走る。


 それ地雷!と思ったがもはや手遅れ。

 母親の気が変わらないうちに畳みかけるつもりらしい。けれどそこはアリスの母だ、


「ダ・メです」


 胸の前で両指でバッテン印を作る。


「付き合ったからといってなんでもかんでもOKするつもりはありません」


「ぶー」


 ふて腐れるアリスをよそに母親は再度ため息をつく。


「……でもまぁ夏休みに友だちの家に泊まりに行くくらいは普通かしらね。今回だけ許可しましょう」


「ありがとうママ!」


「ただし部屋は別々にすること」


「うん! ママだーいすき!」


 晴れて交際とお泊りが許可されたアリスは喜びのあまり母に抱きつく。

 こうして見ているとアリスは母を、母もアリスのことを心から愛しているのだと伝わってきて、なんとも温かい気持ちになる。


(良かったなアリス――……って、本当に約束守るのかな)


 したたかなアリスのことだ。

 たとえ部屋を別にしたとしても大人しくしているはずがない。



 ※



(やれやれ、子どもだと甘く見たのが痛かったな)


 撮影現場である学校からの撤収作業を横目に、榛葉は自販機に向かっていた。

 本物の小山内レイジ――こと来島怜史は葉山とともに一足先に帰ってしまった。お払い箱になった自分は行く当てもなく現場に残っている。


(まさか途中で入れ替わっているなんて。やるじゃないかふたりとも)


 来島怜史を完璧に演じた黒瀬凪人。

 病み上がりのせいかまるで緊張することなく黒瀬凪人に成り代わった来島怜史。

 どちらも同じ「小山内レイジ」だ。


(面白いなぁ。本当に興味深いよ。ぜひとも


 自販機を見つけて財布を取りだそうとしたとき横から声をかけられた。


「榛葉さん、これあげます」


「うわっ」


 顔に向かって投げられたコーヒー缶を間一髪で避けてキャッチする。相手は悪びれた様子もなくゆっくりと近づいてきた。榛葉にとって馴染みのある……怒っているときの顔だ。


「ご馳走様。いま顔面を狙っただろう。芸能人じゃなくてもマネージャーにとって顔は大切な商売道具なのに」


「そうやって人当りの良さそうな顔で凪人を唆したんでしょう、ひどい人だ」


「手厳しいね、鯨井君は」


 自販機でミルクティーの缶を買ったのは斉藤マナト――こと鯨井愛斗だ。

 早速プルタブを開けるとまるで清涼飲料水のように一気に半分ほど飲み干す。


「豪快だね。仕事中は甘いものを控えているんじゃなかったっけ?」


「クランクアップしたからもういいでしょう。これ以上我慢したらおかしくなってしまう」


「はは。出会ったころと変わらないね」


 ちびちびと缶に口をつけながらミルクティーを減らしていく愛斗の横顔を見ながら榛葉はどこか感慨深い気持ちで缶を開けた。


「きみはいつ頃気づいた? 凪人くんが演じていることに」


「初日に黒猫の毛がついているのを見つけたときから。凪人はほぼ完ぺきに来島をコピーしていましたけど見る人間が見れば分かるんですよ。店にいないことも確認できたし。桃子さんは笑って誤魔化したけど辛そうでした」


「だからそこまで怒っているんだね」


「どうせ例の写真を使ったんでしょう。俺以外にあの画像を持っているのはただひとり、のあなただけだ」


 愛斗をスカウトし、Mareに転職するまでマネージャーを務めていたのは榛葉だ。付き合いが長い分、互いの腹の内は分かっている。


「そこまで分かっていて今の今までぼくを咎めなかったのは念願だった小山内レイジと共演できたからだろう。だったら共犯みたいなものじゃないか」


 榛葉はすべてお見通しだ。

 愛斗が凪人と共演したがっていることも、例の写真で凪人が動くことも分かっていた。来島の入院だけは予定外だったが榛葉にとってはチャンスでもあった。


「まぁボロを出してくれればぼくとしては都合が良かったんだけどね」


「現事務所をつもりだったんですよね」


「物騒なこと言わないでくれよ。だれが録音しているか分からないじゃないか」


「むかし言ってましたよね。自分の芸能事務所を立ち上げるのが夢だって。もし今回のドラマで別人が演じていることが分かれば信用問題にかかわる。そこを突けば自分の芸能事務所で『小山内レイジ』の権利関係を丸ごと手に入れられるかもしれない、そう考えたんじゃないですか」


「やだな、事務所だなんてただの夢だよ、夢。凪人くんが想像以上に頑張ってくれたし最後は来島くんも復帰してしまったからね、ははは」


 榛葉は笑顔を崩さない。

 肝心はことをはぐらかされる。いつもそうだ。


「もしも、だけど。ぼくが事務所を立ち上げたら『斉藤マナト』は移籍してくれるかなァ」


「――どうでしょうね」


 飲み干した缶をゴミ箱に捨てる。からん、と響く音に合わせて榛葉が問いかけてきた。


「このまま帰るのかい? それとも『黒猫カフェ』に?」


「さぁ」


「凪人くんによろしく伝えてくれ。本当にお疲れ様、と。出演料は後日きちんと支払わせてもらうよ」


「あいつはお金が欲しくてやったんじゃないですよ」


「知っている。でも茅野かやのさんはあれで無類のお酒好きだから少しでもお金が入れば嬉しいんじゃないかな」


「茅野さん?」


「そうそう。魔王のカヤちゃんと呼ばれたとおり彼女は芋焼酎『魔王』が大好物だったよ。彼氏の眞人まさとさんはいつも先に酔いつぶれていたなぁ、懐かしい」


 榛葉は大きく背伸びをすると「じゃあまた」と歩き出した。凛とした佇まいは何者をも受け入れない孤独を浮かび上がらせているようでもある。




(最終話につづく)

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