96.ここでピリオドを。

 思えばインターフォンを鳴らすのは初めてだった。

 アリスのマンションに来るときはいつも事前に連絡をとりあっていて、約束の時間が近づくとアリスはそわそわしながらエントランスで待っていたから。

 なにも連絡せずに来たいま、当然ながらエントランスにアリスはいない。


 凪人は慎重に1108号室の番号を押して「呼出」ボタンをプッシュした。ピンポーン、と反響する音が聞こえた途端に心臓の鼓動が早くなる。


『はい。どちらさまですか』


 応じた声は他人行儀なもの。

 こちらの姿は見えているだろうに、そこまで嫌われてしまったのかと憂鬱になりそうだったが気持ちを奮い立たせる。


「凪人です。黒瀬凪人です」


 数秒間が空く。


『あなた以前見かけた方ですね。アリスになんの用でしょう』


 その一言で「あっ」と息を呑んだ。

 声が似ているから気づかなかったが相手はアリス本人ではなく母親のようだ。以前泊まったときのことを覚えていて警戒心を露わにしている。


「アリスさんに話したいことがあるんです。ご在宅ですか」


『失礼ですが娘とどういう関係ですか』


 一瞬言葉に詰まった。

 アリスはまだ自分のことを母親に話せていないと言っていた。

 ここで交際していると言ったら関係をこじれさせてしまうかもしれない。


 しかしその逡巡がまずかった。


『母親にも言えないような関係ですか?』


「そ、そんなことは」


『お引き取りを。娘からなにも聞いておりませんので』


 ガチャンと通話が切れた。

 会ってもらうことすらできないのかと心の中に虚しい風が吹く。


(終わりなのか? おれたち。こんな簡単に別れるのか?)


 目の前が暗くなる。


 いまここで身を引いたならアリスはまた新たな相手を見つけるだろう。

 自分にだっていつかアリス以上に好きな相手が見つかるかも知れない。


 そうだ。

 モデルと一般人の恋物語にピリオドを打つのなら。いまだ。


『ふたりはそれぞれ幸せになりました。めでたしめでたし』


 それで良かったといつか笑える日も来るかも知れない。








(――――――絶対に、いやだ)








 雑誌の熱愛スクープでアリスの隣にいる男が自分じゃないのはイヤだ。

 婚姻届の兎ノ原アリスの隣に自分じゃない男の名前が書かれるのはイヤだ。

 ウエディングドレスを着たアリスを最初に見る男が自分じゃないのはイヤだ。

 バージンロードを一緒に歩く男が自分じゃないのはイヤだ。

 アリスが産んだ子どもの父親が自分じゃないのはイヤだ。

 いつか永遠の眠りに就くとき、アリスの姿を見ずに死ぬのはイヤだ。



 いやだ。

 いやだ。

 いやだ。



 アリスを諦めるのはイヤだ。

 アリスは自分のものだ。

 一生、息が止まる瞬間まで愛し抜く。




 おれが。




 凪人はふたたび1108号室を呼び出した。しかし拒否される。

 それでもめげずに1108を押した。ピンポーンピンポーンと響く音をじっと待つ。――今度は応答ボタンを押した気配があった。


『なんの用ですか。あまりしつこいと警備員に連絡しますよ』


「構いません。でもこれだけお伝えさせてください。おれ――ぼくは黒瀬凪人といいます。いまアリスさんとお付き合いしています」


『……それで?』


「こんな形で押しかけて申し訳ありません。でももしそこにアリスさんがいるのなら伝えてください。ぼくはアリスのことを諦めない。話ができるまでずっとここで待つと。今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日、毎日でもここに来ると」


『自分でなにを言っているのか分かっています? ストーカーですよ』


「そうですね。そうかもしれない。もしアリスにおれへの気持ちがないのなら警察でもなんでも呼んでください。そうしたらもう二度と会うことはないでしょう」


 いつの間にかインターフォンは切られていた。呆れたか、あるいは今ごろ警備にでも連絡しているだろう。


 凪人はインターフォンの前から離れてエントランス前の花壇に腰掛けた。

 勢いとは言えあんなことを口走ったのだ、もうすぐここに警備の人間がやってきて自分を追い返すだろう。そうしたらまた明日来るだけだ。


(さすがに警察を呼ばれたら母さんにも迷惑かけちゃうな……ごめん)


 自動ドアが開く気配がしたので覚悟を決めて腰を浮かせた。


「黒瀬さん」


「えっ」


 エメラルド色のヒールのかかとを鳴らして近づいてきたのはアリスの母親だった。

 どういうことかと目を白黒させる凪人の前で、彼女はアリスと同じターコイズの瞳を伏せる。


「お引き取りを。アリスはここにいません」


「いないって……どういう」


「お恥ずかしい話ですが親子げんかをしました。四日前、仕事を終えて帰宅したところアリスが『結婚を前提に付き合っている人がいる』と突然言い出したのです。指輪とネックレスを見せてくれました」


 それは黒猫のモチーフがついた安っぽい指輪とAのネックレスだったという。


「反対しました。モデルになりたいと言ったときはあまりの熱意だったので条件を出して渋々許可しましたが、今度は結婚なんて。しかも相手は同い年の高校生だと言うじゃないですか、一時の熱に浮かされて先のことが見えていないと非難しました。モデルになって以来、取っ替え引っ替えいろんな男性と交際していることは耳に入っていましたので今度もすぐに飽きると思いました。けれどアリスは本気だと――彼以上に好きな人にはもう二度と会えないと。だからわたしは言ってしまったのです」


 アリスの母は気まずそうに目線をそらす。イヤな予感がした。


「そんな娘はいらない、目の前から消えなさいと。――仕事の取引がうまくいかずに苛立っていて、つい」


「なんてこと……ッ!」


 殴りたくなる衝動をかろうじてこらえた。

 震える拳を胸元でぐっと握りしめる。


(ひどい)


 アリスの孤独を知っている。

 だれもいない冷たいマンションへ毎日帰り、母を待つアリスを知っている。

 「大好き」だと笑ったアリスを知っている。


 そんなアリスに、このひとはとんでもないことを言った。

 あふれる怒りを抑えきれない。


「その夜にアリスは家出して連絡がとれないままなんです。スマホの電源を切っているらしく。仕事には行っているようですがマネージャーの柴山さんに行方を聞いても軽くあしらわれてしまいました。わたしは仕事にかかりきりで、思えばあの子が行きそうなところすら知らないと気づかされました。今日は休みのはずなのに帰ってこないし」


 怒りをこらえながらも母親を見れば、以前とは印象がちがう。

 それもそのはず、ノーメイクのうえに髪は乱れ、顔色も悪いのだ。彼女は彼女なりにアリスのことを心配しているらしい。


 もし――もしもアリスが両親も妹もいる幸せな家庭でずっと過ごしてきたのなら、凪人と会っても交際までは至らなかったかもしれない。

 離れ離れになった父と妹、そして仕事で不在がちな母。アリスの中の潜在的な孤独が常に嘔吐の不安を抱える凪人と重なって惹かれ合ったのだ。


 ならば。

 凪人はひとつの取引を思いついた。


「兎ノ原さん。厚かましいことを承知でお願いがあります」


 凪人はスッと背筋を伸ばした。

 これは賭けだ。失敗すれば取り返しがつかないような。


「おれもいまアリスとは連絡がとれません。だから探しにいこうと思います。もしもアリスを見つけて連れ戻すことができたのならおれたちの交際を認めてください」


「なんですって」


 眉がぴくりと跳ね上がる。

 けれど凪人は臆せず一歩踏み出して深々と頭を下げた。


「お願いします。きっとアリスを見つけますから」


 沈黙。

 答えはない。けれど立ち去る気配もない。

 だから凪人は待った。忍耐力には自信がある。


 しばらくして。


「――分かりました。ただし結婚に関してはまた別の話ですからね」


 渋々とばかりに許可が出た。

 凪人はさらに深く頭を下げる。


「ありがとうございます! 必ずアリスを見つけてきます!」


「……」


 複雑そうな面持ちなのは彼女自身にも迷いがあるからだろう。


 親子げんかの原因となった凪人に娘の捜索を任せていいのか、けれど自分が探しに行ったところで見つけられるか・見つけたところでなんと言えばいいのか……そんなところだろう。


 意固地なところはどことなくアリスと似ている。


「では行ってきます!」


 早速身を翻すと母親が追いかけてきた。


「心当たりがあるんですか?」


「分かりません。でもなんとなく近くにいるような気がするんです。アリスは寂しがり屋だから本当は帰ってきたくて仕方ないと思うんです。でもキッカケが掴めずに困っている」


 それを聞いた母親はなにかを思い出したのかクスッと笑った。


「そうですね。子どものころスーパーに買い物に出かけても、アリスはわたしを心配させてはいけないからといつも近くにいました。本当はアリッサみたいに好き勝手走り回っておやつを持ってきたいのに我慢して、ワガママを言わないいい子でした。そんな子がわたしに歯向かってきたのはこれで二回目です。モデルと、あなた。たった二回だけ」


 母親らしい穏やかな顔つきになった彼女は凪人にあるものを差し出した。


「これを」


 両手で受け取ったのは黒猫のモチーフ。指輪についていたものだ。


「親子げんかの最中にチャームが飛んでしまって。アリスは泣きながら飛び出していったんです。今日ようやく見つけたのであの子に渡してください。それから早く帰ってくるようにと伝えてください」


「――はい。必ず」



 こうして凪人は自転車を走らせた。

 柴山に電話するとここ三日は仕事があったので事務所近くのホテルに泊まらせたとのことだった。今朝チェックアウトしてからは行方が分からないらしい。


『俺から連絡して場所を聞こうか?』


「いえ大丈夫です。おれの足で探します」


 そう告げて電話を切る。

 スマホに頼らずアリスを見つけること。それが自分に課せられた試練のような気がしたのだ。


 今日を含めて四日、アリスからの連絡はない。

 凪人は今度こそダメかもしれないと覚悟していたがアリスはとっくに気持ちを固めて母親に話そうとしてくれたのだ。

 凪人は信じきれていなかった。怖がってしまった。これはその罪滅ぼしだ。



 アリスとの思い出をたどりながら自転車を走らせる。


 まずは初めて出会った駅。構内に入ってしばらく探してみたがいない。

 次は凪人の高校。裏口が開いていたので中に入って職員に聞いてみたが来ていないという。

 次は水族館。夏休みとあって親子連れでごった返す館内で「ウサギさん」を呼び出してもらったが数十分待ってもだれも来なかった。

 つづいては花火を見た公園。湖畔をぐるっと一周してみたが姿はない。


(うーん、ちょっとマズイかも)


 少しばかり焦りが出てきた。

 残る心当たりはアリスのいまの学校と初めて遠出した長野、そして離島くらいだ。


(長野はバスか新幹線だろうから自転車じゃ無理だな。もし離島だったらどうしようもない)


 とりあえずアリスの通っている高校に向かって自転車を走らせることにした。

 道中通りかかったのはアリッサに連れられて指輪を買った店だ。


(――もしかして!)


 凪人は自転車を停めて黒猫グッズの専門店に入った。以前アリスからどこで買ったのかと聞かれて答えたので住所を知っていてもおかしくない。

 店長は凪人を見て「あぁどうも。前にアリッサ・シモンと来て嘔吐した人だね」と笑ってくれた。まさか嘔吐がこんなことに役立つとは。


「指輪? あぁ女の人が来たよ。全部ハンドメイドだから同じものは作れないと断ったら帰って行ったよ」


「いつごろですか?」


「うーん一時間前くらいかな。ウィッグかぶっていたけどあれはモデルのAliceだよね? どういう関係?」


「おれの彼女です。情報ありがとうございました!」


「え、まじで!?」


 面食らう店長を尻目に凪人は店を飛び出した。

 まだ近くにいるかもしれない。


 じりじりと照りつけるような日差しが熱い。

 次にどこか行くとしたら恐らく電車で――。


 進行方向でカンカンカンカン、と踏切の警報が鳴った。

 通せんぼをくらった凪人は一刻も早く渡りたい気持ちをこらえて自転車を停める。

 すると。






「にゃーぉ」






 どこかで猫の鳴き声がした。姿は見えない。


(そう言えばアリスと初めて会ったときも……)


 駅のホームで黒猫を見かけた直後にアリスと出会ったのだ。

 そう思いながら線路の向こうに位置するホームに視線を向けた――刹那。






「っ――――――――アリス!!」






 無我夢中で叫んでいた。


 電車待ちの最前列に並んでいたアリスも凪人の姿に気づいて口を覆う。すぐさま踵を返したのを見て、こちらも線路を越えるべく自転車を放り出して数メートル横の跨線橋めがけて走った。

 数十段とある階段を二段飛びで上がり、向かってくる人々が怪訝そうに振り返るのも構わず一気に走り抜け、つんのめりそうになりながら階段を駆け下りる。


 平地に出た。先ほど到着した電車の乗客が次々と押し寄せて行く手をはばむ。当然ながらアリスの姿は見えない。どこかですれ違ってしまったかもしれない。


(いや大丈夫。この先にいる)


 それはもう勘というより本能だった。

 この先にアリスがいる。進めばいい、ただ真っ直ぐに。



「凪人くん――ッ!」



 目の前に迫ったサラリーマンの真後ろからアリスが飛び出してきた。向こうも同じように自分の存在を信じて走ってきてくれたのだ。


「アリス!」


 細い腕をめいっぱい広げて空を駆けるように飛びついてくるアリス。凪人は足を踏ん張って抱きとめた。懐かしい匂いが台風のように包み込む。

 アリスの華奢な体がいまたしかに自分の腕の中にあると確認した途端、涙があふれた。



「アリス……アリス、アリス……アリス」



 愛しくて愛しくて愛しくて。

 ウィッグのとれたミルクティー色の髪に顔をうずめて大泣きしてしまった。


 もしここで人生のピリオドが打たれるのなら、こんなに幸せなことはない。

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