94.雨と決意と

(あれ、アリスがいない)


 ユイナの出番が終わったあと、凪人はアリスの姿を探して辺りを歩き回っていた。


 あの後いくつかのシーンを撮影したがアリスは明らかに挙動不審だった。セリフをトチったり動きを間違えたり、端から見ていた凪人は自分のせいだと気が気でなかった。

 心配になって何度も声をかけようとしたが意図的にスルーされた。想像以上に戸惑っているらしかった。


(とにかく話をしないと)


 ユイナの出番はさほど多くないので今日一日で撮り終えてしまった。帰る前に絶対捕まえようと見張っていたのに、葉山に呼ばれて戻ったらどこにも見当たらないのだ。


「柴山さんアリスはどこですか!?」


 アリスを探してひとしきり校内を走り回った凪人はスタッフと立ち話していた柴山に駆け寄った。


「アリスなら先に帰るって裏の通用口に――」


「ありがとうございます!」


「……ん? あれもしかして」


 柴山の戸惑いなどお構いなしに素通りして走った。


(待ってくれアリス。言わなくちゃいけないことがあるんだ)


 凪人の焦りをあざ笑うようにぽつぽつと窓を叩くのは雨音。

 空は晴れているのにここだけ不自然に雨が降っていた。


「――アリス!!」


 叫んだ。

 撮影スタッフ用に解錠されていた通用口の外で佇む後ろ姿に。

 シャワーのように雨を浴びて艶を帯びたその人影は驚いたように振り返る。ターコイズの瞳を縁取る睫毛がしずくを飛ばした。


「アリス――……アリスごめん!」


 駆け寄りながら無我夢中で頭を下げた。


「黙っていてごめん! 本当にごめん!」


 いまはそれしか言えなかった。

 困らせようとか騙そうと思っていたわけじゃない。けれど隠していたのは紛れもない事実。


 どんな言葉を重ねても届かないかも知れない。

 それでもなにも言わないよりはよほどマシだった。


「……」


 互いに無言の中、降りそそぐ雨が凪人の前髪をぽたりと伝い落ちていった。

 それはまるで砂時計のように時の経過を告げる。ただひたすらに許しを乞う時間だ。


「びっくり、した」


 ぎこちなく呟いたのはアリスだ。

 凪人は頭を下げたまま続きを待つ。

 心の準備でもするようにふぅと大きく息を吸う気配があった。


「びっくりしちゃったよ。まさか来島くんじゃなくて凪人くんがいるなんて」


 顔を上げるとアリスはにこにこと微笑んでいた。不自然なほどの笑顔で。


「一体どういう手品? いつの間に入れ替わったの? 分かった、どっきりでしょう? どこかに撮影カメラがあって……」


「ちがう」


 凪人はきっぱり否定する。

 ここへきて「どっきり」だとか「手品」だとか誤魔化す気はなかった。


「おれはいま来島の代役としてドラマ撮影に臨んでいる。あいつは事情があって来られないんだ。でもいくら顔が似ていると言ってもズブの素人が連ドラに呼ばれるはずがない、それはアリスも分かるだろう」


「じゃあ……」


 アリスの顔が強張る。


「おれ小山内レイジなんだ。二代目の。七年前に『黒猫探偵レイジ』に出演していた小山内レイジはおれだ」


 どこかで遠くで雷が鳴った。

 それを合図のようにどしゃ降りの雨が降り注ぐ。


「アリスこっちへ、濡れるから」


 そっと体を引き寄せたもののアリスは無反応だ。


「このこと、私以外の人は」


「母さんはもちろんだけど柴山さんや愛斗さんも知っているよ」


「そう。知らなかったのは私だけなんだね」


「ごめん」


 アリスは凪人から数歩離れてきゅっと唇を噛みしめた。


「私、信用されていなかったの? だれにも言わなかったよ」


「そうじゃない!」


「どんな気持ちでいたの? 私が小山内レイジのファンだって知ったとき。初めて会ったときや私の部屋に来たときやドラマを観たとき。あの場で本人だって明かされても面喰っていたと思うけど、でも……なんでいまなんだろうって」


「ずっと言いそびれていたんだ。さっきのアリスの演技があんまり凄かったからどうしても成功させたかった。それで」


「……そうだね。自分でもびっくりするくらいユイナの気持ちになりきれたと思う。凪人くんがリードしてくれたお陰だね」


「おれじゃない。アリスの実力だ」


「ううん。分かってるの。一年前のオーディションに比べればマシだけど周りの俳優さんたちの足元にも及ばないお遊戯会レベルだってこと。凪人くんは文化祭の劇もほんとうに上手かったもんね。顔も同じなのに今の今まで小山内レイジだと気づかなかったなんて……バカだなぁ、私。ばかすぎる」


 水を吸って重くなった髪をせわしなく掻き上げるアリスは心の整理がついていないようだ。凪人はできるだけゆっくりと言い聞かせる。


「嘔吐のことは知っているだろう、あれはレイジとしてドラマ撮影に臨んでいるときファンに取り囲まれて発症したんだ。それ以来芸能界や小山内レイジの名前から距離を置くようにしていて、アリスがおれのファンだと言ったときも正直関わりたくないと思った。――でもいまは」


 頑張るアリスの姿に少しずつ惹かれて、気がついたら好きになっていた。

 自分の過去なんてどうでもいい、アリスが好きだと言えるようになった。


「隠し事をしていたことにアリスが怒るのも無理はないと思う。本当にごめん。ちゃんと全部説明する。いや説明させてほしい。落ち着いて話す時間が欲しいんだ、頼む」


 そっと伸ばした手はアリスによって軽く振り払われた。


「ごめんなさい。いまはそっとしておいて。自分勝手だと分かってるけど、いろんな感情が押し寄せてきて頭ぐちゃぐちゃでおかしくなっちゃいそうなの。――お願い、少しだけ時間を」


「……分かった」


 切実な訴えを聞かされては引き下がるしかなかった。

 アリスは弱々しく笑って背を向ける。

 そこへ背後から声がかかる。


「モデルのAliceが雨の中ずぶ濡れで歩いていたら何事かと思われてしまう。せめて傘をどうぞ。新品じゃなくて悪いけど」


 ふたりの背後から現れたのは榛葉だ。ぎょっとする凪人をよそに榛葉は貼り付けたような笑顔でビニール傘を手渡す。断るのも失礼だと思ったのかアリスは素直に受け取った。


「安物だから気にしなくていい。さっきコンビニから出るとき雨に気づいて買ったものなんだ。返さなくていいよ。帰り道気をつけて」


 凪人としては最寄り駅まで送りたいところだったが時間が欲しいと言われたばかりだ。まだ撮影も残っている。黙って見送るしかない。


「では失礼します」


 榛葉に頭を下げたアリスはちらりと凪人を見る。

 どきっとした。

 ターコイズの瞳はいままで見たことがないほど深く、それでいて澄んでいる。

 このまま見つめていたら引きずり込まれそうな魔力さえ感じた。


「……またね、レイジくん」


 傘を差してゆっくりと歩き去るアリス。凪人は雨に濡れるのも構わずに飛び出した。


「――おれは諦めないからな。絶対に!!」


 アリスはしばらく足を止めたものの、振り返ることなく霧雨の向こうへと消えた。


 あとに残るのは、どうしてもっと早く打ち明けなかったんだという後悔と別れるかもしれないという不安。


(アリスもこんなふうに不安だったのかな)


 アリスのためを思って「一旦別れよう」などと軽く口にしたが、向こうにすれば気持ちが離れたのではないかと不安で仕方なかっただろう。だからオンスタを使ってアピールしてきた、自分はこんなにも好きなのだと。


(いつだっておれは遅いんだ)


 あとになってから気づく。

 こうすれば良かったあぁすれば良かった、最悪の事態に陥ってから我に返る。


「気は済んだかな。そろそろ撮影に戻ろう小山内レイジくん」


 ぽんと背中を押される。

 どこまでも明るい榛葉を思わず睨みつけてしまった。



 ※



 ――それから三日、アリスから連絡はなかった。

 『Alice@片想い』の更新も停止している。


「今日もお疲れさま。明日でいよいよ撮影が終わるね」


 凪人の自宅に向かって車を走らせている榛葉は陽気だ。後部座席の凪人は頬杖をついて窓の外の景色を眺めている。


「凪人くん大丈夫ですか。ここのところ眠れていないようですけど」


 心配して声をかけてきたのは隣に座る葉山だ。いつもは別行動だが今日は帰りがけに事務所に用事があるということで同乗している。最近買ったというタブレットを忙しそうに操作している最中だった。


「二、三時間は寝ているので平気です」


「全然寝てないじゃないですか。まだお若いんですからしっかり食べてしっかり寝ないと」


 いつアリスから連絡があるかと思うと寝つけなかったのだ。向こうも常識を考えて真夜中に電話してくるとは思えなかったがスマホを手放せない。


「なーに。若さゆえの恋煩いさ」


 笑い声を上げるのは榛葉だ。

 睡眠不足で苛立っていた凪人はムッとする。バックミラーごしに目があった。


「怖い顔をしないでくれ。気を害したようなら謝る。でもぼくはマネージャーとして反対だな、真面目なきみと恋多き彼女が交際するのは。このまま別れてしまえばいいのに」


 さらりと、それでいて含みのある発言だった。




 思い出したのは来島が入院した翌日のことだ。

 来島怜史の代理として小山内レイジを演じてほしい――。凪人を街中のカフェに呼び出した榛葉から依頼された。


 凪人は即拒否した。

 手術にも立ち会わなかった不誠実さと未だ昏睡状態の来島をよそに自分に仕事を頼んでくる図々しさを心底嫌悪した。


 そんな中、取引材料として提示されたのが例のアリスと無名の俳優との写真。榛葉が来島に提供したものだった。


『どうやって入手したかは明かせない。けれどこのデータはいまぼくひとりしか持っていないと誓える。きみが条件を呑んでくれるのならキレイさっぱり削除しよう。誓約書を用意してくれたら署名だってするよ』


 そんなふうに丸め込んで、凪人をふたたび芸能界ワンダーランドに引きずり込んだのだ。




「例の写真のことを言っているなら誤解です。アリス本人からも事情を聞いています」


「でも次に同じようなことが起きないとは限らない」


「起きません。だってアリスはおれを――」


 いまこの瞬間も好きでいてくれるのだろうか。疑心暗鬼に陥った。

 榛葉をその隙を逃さない。


「”モンブラン厨”ってアカウント知っているかい? あれはぼくだよ。正確に言えばぼくが買った」


 新妻愛理から情報を思い出した。

 『モンブラン厨』は元々凪人のクラスメイトのひとりが実際に使っていたアカウントで、終業式の集合写真をアップした。それに気づいた榛葉が数万円で買い取ったという。


「そのあと”あいり”ってアカウントから会いたいって連絡がきてさ、さすがに三十すぎたぼくが行くのは気の毒だと思ったから最近事務所に入った子に行ってもらったら新妻愛理じゃないか。びっくりしたよ。当たり障りのない受け答えをさせておいたけどね」


 自分の想像以上に根回しされていることにゾッとした。


「どうしてそこまで」


「きみが芸能界から姿を消したあともマークしていたんだ。いつかスカウトしに行くつもりで動向を探っていた」


「おれを、ですか?」


「きみと来島くんをね。ぼくはこれでも小山内レイジのファンなんだ。初代は母親譲りのパッと目を惹く華やかさ、二代目は地味だけど演技で魅せる力がある。顔だけそっくりな別人が同じ芸名を名乗っているなんてこんなに面白いことがあるかい? 小山内レイジのになっている人間にスキャンダルがないよう守ろうとするのはマネージャーとして当然のことだろう」


 その瞬間。



 凪人の中でなにかが音を立てて壊れた。



 大人の事情。世間ではそう呼ぶのだろう。

 大人の勝手。身勝手。ネームバリュー。マネージング。イメージ。利益。


 どれもこれも自分には関係のないことだ。



「――停めてください」


 凪人は言った。断固とした口調で。


「なんだって?」


「車を停めろと言ったんです。停めないなら自力で飛び降ります。ケガをしても構わない。あなたが必要としている小山内レイジの顔を傷だらけにしてやります」


「分かった分かった、次のコンビニで停めるから落ち着いて」


 もう我慢できなかった。

 体の内側から火を噴きそうだ。


「おれが間違っていた。来島のためにとドラマを引き受けたけどアリスを傷つけるくらいなら受けなければ良かった。ドラマを降板した責任は事務所とマネージャーであるあなたが負う。それで良かったんだ」


「おいおい彼女に正体を明かさなかったのはきみだろう。責任転嫁されても困るよ」


「分かってます。自分のバカさ加減に呆れているところです。悠長に三日も待つんじゃなかった。毎日でも彼女のマンションに言って許しを乞うべきだったんだ」


 なんてバカだったんだろう。


 自分の望みはたったひとつ。

 アリスを幸せにすることだ。


 なぜ遠回りしているんだろう。

 その結果アリスを泣かせてしまうなんて。


(もう間違えない。絶対に)


 アリスのことが好きだ。

 小山内レイジではなく凪人としてアリスのことを愛している。


 この気持ちはだれにも消させない。


「ほら着いたよ」


 自宅から七駅ほど離れたコンビニに停車するワンボックスカー。来島が入院している病院からそう遠くない。


「お世話になりました」


 荷物をまとめて飛び降りた凪人はぴしゃりとドアを閉めた。このままアリスの所へ向かうつもりだったが榛葉が運転席から降りてきて進路をふさぐ。


「明日も九時に迎えに行くよ」


「結構です」


「そうはいかない。自由気ままなカフェと違ってぼくらの仕事はそう甘いものじゃないんだ。会社の車でマネージャーが送迎するのはタレントに逃げられないためでもあるんだからね。時には汚い手段を使うこともある」


 言外に写真のことを言われているのだと気づいて反論に詰まった。


「オトナの言うことは聞いておくものだよ。それじゃあまた明日」


 車は意気揚々と走り去る。


 あんな人間に関わってしまった自分がイヤになった。


「――!」


 不意にスマホが鳴った。

 アリスかと思って慌てて画面を見る。母だった。


「もしもし」


『凪人大変なの!』


 電話に出るなりいつになく切迫した声が聞こえてくる。


『たったいま来島さんから電話があって怜史くんが――ッ』


 泣きそうな声。胸騒ぎがする。

 最悪の事態が起きたのではないかと目の前がまっくらになった。


『凪人? どうしたの凪人!?』


 寝不足も相まってふらつく凪人。倒れ込みそうになったところをある人物の手が支えた。


「おい大丈夫か? 死人みたいな顔してるぞ」


 口の悪さに低い声。

 やっとの思いで振り返った先に見覚えのあるアンバーの瞳が光った。

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