93.” うそつき ”
「――あれ?」
目が合った一瞬アリスの瞳が揺れた。
不思議そうに、それでいて懐かしそうに瞬く。
(まずい!)
凪人は露骨に顔を背けてしまった。来島ならどう反応するか、なんて頭の片隅にもない。
アリスが目の前にいる。
自分・イツキの恋人役として初めての演技に挑むために。
(どうする。いますぐ正体を明かすか? なんて説明する? おれは小山内レイジであぁ初代じゃなくて二代目で本物のレイジは来島でいま入院してああああ)
パニックだった。とにかくパニックだった。考えがまとまらない。
そんな凪人をよそに葉山がポンと手を打った。
「なんとAliceさんがユイナ役だったのですね。それは良かった。きっとレイジくんも緊張することなくキスシーンできるでしょうね、なんたって」
「葉山ちょっと来いッ!!」
凪人は腕を掴んで無理やり引きずっていった。だれもいない教室に飛び込んでガッシリ肩を掴む。
「いいか! アリスにはおれが凪人だってことを言うな!……いや、言わないでください!!」
「……へぁ?」
凪人は正直に打ち明ける。付き合って一年になることも、自分の正体を隠していることも。
「ずっと内緒にしていたんですか?」
「この撮影が終わったらちゃんと話をしようと思っていたんです。おれの口で、おれの言葉で、これまでのことを全部明かしてもう一度交際を申し込むつもりだったんです。まさか共演するとは夢にも思わなくて」
「ふぅむなるほど。たしかにここでわたくしが『いやー実は凪人くんなんですよ』などと話したら順番がめちゃくちゃですものね。でも今日を乗りきったとしても後で知られたとき責められませんか?」
葉山の言うことはもっともだ。
いま明かすかあとで明かすか。
どちらが正解なんて分からない。
けれど迷っている時間がないのも事実。
「決めました、おれは来島のままでいます。もうすぐリハが始まるし、すべてを説明して納得してもらうだけの時間はない。それにアリスは初めての演技で緊張しているはず、おれが凪人だと知って緊張がほぐれるならいいけど余計に混乱させて監督やスタッフさんたちに悪印象を持たれたら困ります。俳優を目指しているんだから」
今はそれが最善だと信じるしかなかった。
凪人の決意を感じ取った葉山も納得したように首を縦に振る。
「分かりました、そこまでの覚悟なら話を合わせましょう。わたくしもあなたには演技に集中してもらいたいですからね」
「お願いします」
「ただし」
おもわせぶりに指を立てた。
凪人の目をじっと見つめて不吉なことを口走る。
「十分に注意してくださいね。女の勘って案外鋭いものですよ」
※
「じゃあリハーサルいきます」
イツキ(凪人)とユイナ(アリス)は教室の片隅にいる。カーテンがはためく窓際に追いつめられたユイナにイツキがキスをするシーンだ。まずは立ち位置を確認する。
「二人とももうちょっとくっついて。そう、壁ドンするくらいの勢いで」
監督の指示に従って凪人は左腕を伸ばした。カメラは向かって右から画を撮るので肘を曲げてアリスに密着する。
「……」
緊張しているのかアリスの表情は強張ったまま。せっかくのキスシーンなのに甘いムードが台無しになる。余計なこととは思いつつアドバイスを送ることにした。
「アリ……いやユイナ、もうちょっと肩の力抜け。歯食いしばってるぞ」
「分かってる、分かってるけど」
らしくない。
よほど緊張していると見える。
(しょうがないな)
少しでもリラックスさせようと思い、左の親指で形の良い耳たぶにそっと触れた。
その瞬間。
「ひぁっ」
大げさなほど仰け反るアリス。
すぐに我に返り、周りのスタッフたちが何事かと目を見張ったことに気づいて顔を赤らめる。
「ちょっと! 私は凪人くんしか眼中にないんだから悪戯するのやめて」
潤んだ瞳に紅潮する頬。
緊張によるものだと分かっているがこんな顔は初めて見る。
(改めて見るとアリスってめちゃくちゃ可愛いな)
顔の大きさは片手ほどで額は狭い。スッキリした鼻筋に厚すぎない唇、くりっとした瞳。ありえないくらいの美少女だ。
このままぎゅっと抱きしめてキスしたい衝動を必死にこらえる。
落ち着け落ち着け。
自分はいま来島だ。理性を忘れて暴走するわけにはいかない。
(……いや待て。もしおれが代役じゃなかったら来島がアリスにキスしたのか? ずるくないか、こんなに可愛いアリスを見られるなんて)
凪人の知るアリスはいつも積極的で甘えん坊。こんなふうに防戦一方で恥ずかしがるタイプではない。
好意がある・ない次第で態度が変わるのは当たり前だが、他人の目線に立って初めて分かることもあるのだ。
(素がこうなのかな。だとしたらモテるのは当たり前だよな)
積極的なところも明るいところも照れるところも恥ずかしがるところも、どんなアリスも好きだ。知れば知るほど好きになる。
アリスの意外な一面を知れたことやキスのことを思うと、いまだけは榛葉に感謝しようと思った。いまだけは。
「来島くんてシャンプーなに使っているの?」
リハを終えたアリスが突然問いかけてきた。
「は? なんで?」
「同じだから。凪人くんと」
「ハッ!」
しまった。毎日使うシャンプーまでは気が回らなかった。
自分がアリスのシャンプーの匂いを記憶しているようにアリスだって匂いには敏感だろう。
これはマズい。
来島ならなんと返すだろう。来島なら。
「か、彼氏のシャンプーの匂いまで覚えてんのかよ、きもちわるー」
言ってみたもののこれでいいのか不安になってきた。
さり気なくアリスの様子を確認してみる。無言だがかすかに鼻を膨らませているのは怒っている証拠。
「な、なんだよ。文句あんのか」
イキってみたが来島というよりただのいじめっ子みたいになってしまった。
しばし無言の睨み合いが続く。
「本番はじめまーす」
スタッフの声がかかる。凪人は最初の立ち位置である教室の入口に戻ることにした。その後ろでアリスがぼそっと呟く。
「ばーかばーか」
小学生みたいな言い方に「かわいい奴か!」と悶絶しそうになる。
けれどリラックスできたようで良かった。
「じゃあ本番。よーぃ」
いよいよ撮影がはじまる。(※ここからはイツキ=凪人、ユイナ=アリスです)
「”ユイナ。理科室の掃除終わったぞ”」
イツキはわざと足音を立てて教室に入る。背中を向けて佇んでいるのはユイナだ。眼下には校庭が見え、複数台のパトカーが次々と入ってきて物々しい雰囲気になっている。
ユイナは一瞬だけイツキを見てから再び目線を落とした。
「”いま警察車両がたくさん入ってきたのよ。一台、二台、三台目……どうしたのかな”」
「”さぁなんでだろうな”」
この二日前、イツキはユイナに援交を強要する叔父を海に呼び出して撲殺・死体を遺棄していた。ユイナはそのことを知らない。捜査の手が伸びてきたのだと理解するのは簡単だった。
もうすぐ迎えが来る。そう察したイツキは最後にユイナの顔を見に来たのだった。
「”ユイナ”」
細い肩に手を乗せ、こちらを不思議そうに見上げてくる瞳に優しく微笑みかけた。
「”おれは先に帰るぞ。またな。――元気で”」
笑顔のまま別れるつもりだった。出所しても二度と会わないつもりでいた。
しかし背を向けたイツキの手をユイナが掴む。
「”どうして。いつもみたいに一緒に帰ろうよ”」
「”今日はだめだ。用事がある”」
「”叔父さんが二日前から帰ってきてなくて。どこに行ったのか見当もつかなくて、警察に相談したの。――もしかしてイツキくんなにか知ってるの?”」
イツキは黙って目をそらす。それが答えだった。
唯一の身内だった叔父になにかがあったこと。
叔父になにか危害を加えたらしい最愛の人。
ユイナは涙を流さずに泣いた。うつむいて髪の毛に隠れた顔はカメラには映らないが、しゃくりあげる声と肩の震えがユイナの絶望を表している。
(いいぞアリス。その調子だ)
凪人は心の中でエールを送る。
初心者に近いアリスが見事な演技をしている。泣きの演技はそう何度もできることではないだろう。
静けさの中に響く嗚咽。パトカーのサイレン。野次馬たちの声。すべてがうまく混じりあっている。
このままいけばきっと素晴らしいドラマになる。
「”――ねぇ聞いてもいい”」
ようやく顔を上げたユイナは笑顔だった。せめてもの、精いっぱいの作り笑い。なにかを悟った目だ。
「”私のこと、一生守ってくれる?”」
「”守るよ”」
イツキはユイナの手を引きながら一歩踏み出す。
「”一生、愛してくれる?”」
さらにもう一歩踏み出して壁際に追いつめ、相手の横隔膜の動きが分かるくらい体を密着させる。
「”息を引き取る瞬間まで愛しぬくよ”」
左手を伸ばして髪に触れた。ウィッグなのでいつものシャンプーの匂いがしないが、彼女はいつもそうしているように自らの手を重ねてきた。
(よし。もうすこしだ)
顔を傾けてあとは唇をあわせるだけ、という時になって異変が起きた。
アリスから次の「うそつき」というセリフが出てこないのだ。
(どうしたんだ。あんまり間を置くと)
お預け状態になっている凪人が戸惑いながら目を見るとカラーコンタクトで黒くなった瞳が激しく揺れていた。どうやらセリフをド忘れしてしまったらしく、ぱくぱくと唇だけが動く。
(よりによってここでか)
アリスはユイナがどんな気持ちでいるのかを考えあぐねていた。先ほどのリハでは軽く流したが、やはり本番前に深く思い悩み、気持ちの上では理解して見事な演技を披露したが肝心のセリフそのものを忘れてしまったのだろう。
周りのスタッフたちが異変を察して顔を見合わせた。カメラを止めるか思案している。
このままでは。
一か八か、凪人は賭けに出た。
「”ユイナ。おれを信じてくれ”」
「え?」
アドリブだ。アリス同様スタッフたちも怪訝な表情になる。
けれど凪人の頭の中にあったのはアリスの素晴らしい演技が多くの人に知れ渡ってほしい、それだけだった。
「”応援してほしい。がんばれって”」
がんばれ。応援してる。
それは何度となく凪人からアリスに投げかけた言葉だった。
「――!」
ハッとしたようにアリスが目を見開く。凪人はもうどうにでもなれという気持ちで、アリスの口から次のセリフが出てくることだけを願った。
「…………」
アリスは自分の眼鏡を外し、向きを変えて凪人に差しかけた。そうして眼鏡をかけた姿はもはや――。
「やっぱり」と小さく唇が動く。
「――――”うそ、つき”」
顔を寄せて甘く切ない口づけをする。いつもするキスより少しだけ苦い。
アリスの頬を伝い落ちた涙が床板に沁み込んでいった。
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