92.恋人役

『青い空。紺碧の海。眩しい太陽。やさしい風。イルカのような夏雲。あなたが隣にいないのが、ちょっぴり淋しい』


 その夜、『Alice@片想い』の投稿は浜辺で撮ったと思われるショットだった。アリスは凪人が選んでやったレモンイエローの水着を着用して浅瀬に佇んでいる。背中を向けているため顔は見えない。


 投稿して一分も経たないうちにファンたちによってリプライは埋め尽くされる。「かわいい」「似合う」「おれも海行きたい」などのコメントに便乗して凪人もこっそりメッセージを送った。



『あんまりはしゃいで風邪を引かないようにな』 NG@黒猫くん



 母親かよ、と自分に突っ込みを入れつつも、つい身体のことが気になってしまった。アリスはまた痩せたように見える。


 投稿ボタンを押し、自分のコメントがリプライ一覧に載ったことを確認する。「よし」とスマホをオフにしようと瞬間、振動した。


「えっ、あ、やべ、押しちゃった!」


 慌てていたせいで受話ボタンを押してしまった。


「も、もしもし……」


 恐る恐る耳に当てる。電話の向こうで小さく笑い声がした。


『やっぱり凪人くんだった』


「……アリス」


 声を聞くのは随分と久しぶりのような気がする。砂糖菓子のような甘くてかろやかな声。胸が熱くなる。


『NG@黒猫くん なんてアカウント作るの凪人くんくらいだろうと思って見張っていたの。コメント入ったら絶対に捕まえようと思って』


「なんだ、バレバレだったか」


 バレてしまった残念さより見つけてくれた嬉しさのほうが勝る。


「久しぶりだな」


『うん。そだね』


 声を聞いていると懐かしさで胸がいっぱいになった。


「いまどこにいるんだ? 家か?」


『ううん。まだ離島のホテルにいるよ。お仕事は終わったんだけど休みをもらって数日間滞在することにしたの。『じゃあ俺も』って柴山さんも残っていてね、顔を真っ黒にしてバカンスを楽しんでいるよ』


「いいな」


『オーナーさんの厚意でとてもいい部屋をとってもらってね、水平線から朝日が昇るのが見えるの。波の音もすごく近い。聞かせてあげる』


 そう言ってガラガラと窓を開ける音がした。耳をすませばザザン、ザザン、とかすかに波音がする。目を閉じているとアリスの隣で一緒に海を見ているような気持ちになれた。


『……どう? 聞こえた?』


「うん、ちゃんと聞こえたよ。目蓋の裏に海が見えた気がした。隣にはアリスがいたよ」


『良かった』


 交わす言葉はどこかぎこちないけれど沈黙を埋めるのは優しい空気だ。互いに互いの存在を愛おしんでいる。


 ふと、覚悟を決めたようにアリスが息を吸った。


『私ね、凪人くんに一旦別れようって言われた後ほんの少しだけ考えてみたんだ。あなた以外の人との人生を。もしかしたらそれは想像以上に楽しくて幸せなことかもしないと想像してみたの』


 かすかに声が震えている。凪人はじっと待つ。


『もしどこかの会社の社長さんと付き合ったら海外旅行に連れて行ってくれるだろうし高級ホテルも高級焼き肉も食べ放題。すっごく幸せだと思った』


「うん、そうだろうな。うちは知ってのとおり母子家庭だからお金に余裕はないし」


『でもそういう人はきっと自分の付加価値や会社の宣伝としてモデルの私が欲しいだけだろうから、いずれ私よりも若くてより付加価値の高い人が現れたらそっちに心移りしちゃうと思う。だから、だめ。――次に俳優さんが彼氏だったらって考えてみた。たとえば愛斗さん』


「うん。愛斗さんならアリスを幸せにしてくれるだろうな」


『そうだね。でも愛斗さんは売れっ子俳優だからとても忙しくて、ロケで家を空けることも多いと思うの。私はきっと家で待ちぼうけするんだろうな。だとしたら淋しいなって思った。いまだってそうだよ、私ひとりぼっちはイヤなの』


「アリス……」


『毎日まっくらで冷たい家に帰るのも本当はいやなの。凪人くんや桃子さんやクロ子ちゃんがいるあったかい家にずっといたいの。だけどワガママ言って困らせたくないから我慢している』


「おれは金も名誉もないただの一般人だぞ」


『だからなに? 私は凪人くんがいいの! お金なんていらない。旅行も焼き肉もいらない。あったかいコーヒーだけあればいい。凪人くんがいい。凪人くんじゃなくちゃダメなの……!』


 しゃくりあげる声。凪人はアリスが落ち着くまでじっと黙っていた。

 美人で若くてモデルでもあるアリスはいくらでも男を選べるくせに、それなのに、こんな自分を選んでくれる。


 何度突き放しても何度手を離しても、ここに。

 それはとても幸せなことだ。


『……く、ひっく……ごめんね。取り乱しちゃって』


「ううん。ありがとう。おれ頑張らなくちゃいけないと思ったよ。ぜんぶ終わったらアリスを迎えに行けるよう、ちゃんとやらなくちゃいけないと思った」


『ぜんぶ終わったらなにがあったのか話してくれる?』


「約束するよ」


 もしかしたらアリスを傷つけることになるかも知れないが、もう嘘はつけない。

 アリスの傷も含めて一緒に抱きしめてやる。


『ねぇもう少しだけ話をしていい?』


「いいよ。もっと話そう」


『この旅行中に話そうと思っていたんだけど、じつはドラマ出演が決まったの。一話限りの端役なんだけど初めて演技する』


「すごいじゃないか、おめでとう!」


 アリスの目標は海外で活躍する妹のアリッサに追いつくことだ。

 その一歩を踏み出そうとしている。


『でね、撮影は来週なんだけど今から緊張していて。少しでもリラックスしようと思って台本読んでいるんだけど良かったら読み合わせしてくれない?』


「いいよ。どんな役なんだ?」


『準主役の恋人で、同居している叔父さんから援交を強要されるんだけどそれを知った恋人が叔父さんを殴り殺してしまうの』


「うわ、なかなかシビアだな」


『そうなの。奥行きのある役柄の方が演技の幅が広がるって柴山さんが』


 アリスのことを大事にしている柴山の選択ならきっと悪いことはないだろう。


 読み合わせに付き合うことにし、アリスから簡単にセリフを教えてもらった。

 「じゃあいくね」と前置きして息を吸う音がする。


『”私のこと、一生守ってくれる?”』


「”守るよ”」


『”一生、愛してくれる?”』


「”息を引き取る瞬間まで愛しぬくよ”」


『”うそつき”』


「アリス、そこはもう少し音程を変えた方がいいんじゃないか。それまでのどこか茶化した言い方と同じにしたら視聴者は彼女がどういう気持ちだったのか分からないだろう」


『うーん。じつは私もこの子の気持ちがよく分からないんだよね。”嘘つけ”ってバカにしているのか、”ありがとう”の照れ隠しなのか。そのあとふたりは抱き合ってキスするんだけど叔父さんが現れて事件が起きてしまうから言及されていないの』


 セリフと動きしか書いていない台本でいかにその人物になりきるか、それが役者の腕の見せ所でもある。とは言えアリスは初心者だ。求められる人物像をたやすくは掴めない。


「こうなるとその場の雰囲気や監督の指示を聞くしかないな」


『そうだけど……。凪人くんって撮影現場のこと詳しいんだね』


「えっ!? そ、そんなことは」


 不用意な一言のせいで心臓がどきどき鳴っている。

 用心しなければ、と深く自分に言い聞かせた。


 しかし当のアリスは気にした様子もなく明るい声を上げる。


『ありがとう、少し気持ちが楽になったよ。これで撮影も頑張れそう』


「良かった。応援してるからな。ドラマが放送されるときは一緒に見ような」


『――うん!』


 その後もふたりの会話は尽きることはなく、時間も気にせず話し続け、翌日は大あくびを注意されることになる。



 ※



 八月上旬。撮影は佳境に差し掛かっていた。


 第七話。脳に埋め込まれたチップの重大なバグが見つかり、遠隔操作された少年少女たちは大人たちに牙をむく。唯一チップの影響を受けていなかったイツキは住良木と協力し、追っ手をかいくぐりながら少年たちを操る犯人を捜す。


「――と、ここでイツキくんが住良木さんに自らの過去を明かすんです。彼は愛する人を守るために殺人を犯した善良なる罪人だったのです!」


 メイクの間中、葉山が熱心に説明してくれるが凪人はてきとうな相づちを打っていた。


「もしもしレイジくん! 聞いてますか!?」


「台本読めば分かるっつーの。集中してんだから邪魔すんな」


 演技には気持ちが大事だ、と葉山はあれこれ世話を焼いてくるので凪人にとっては迷惑でしかない。

 けれど無言のプレッシャーをかけてくる榛葉に比べればかなりマシで、今日のように榛葉の代理で来てもらえると気が楽だ。


「これは失礼しました。今日はキスシーンもあるので多少緊張しているのかもと思いましたが大丈夫そうですね」


「うるせぇな……」


 今日の撮影はイツキの過去の回想シーンが主になる。殺人のきっかけになった恋人役とのキスシーンもあるのだ。

 アリス以外とのキスは気が重いがカメラアングルを考慮して「フリ」をすればいいだろうからそれほど気負ってもいない。


「来島、ちょっといいか」


 メイクと着替えを終えて撮影場所に向かう途中で愛斗が立ち塞がった。


「なんすか」


 凪人は気だるげに足を止めた。撮影が終わるまでは自分のことは明かさず、あくまでも来島として接するつもりでいた。


 これまでずっと一緒に撮影しているが愛斗は自分の正体については言及してこない。

 果たして気づいているのかいないのか。意味深な眼差しからは真意が読み取れない。


「今日の撮影のことだけどイツキの恋人役がだれか知っているか?」


「キャストですか? だれでもいいですよ。ちょこっと会話してキスするシーンだけだし」


 愛斗の眼差しが憂いを帯びた。

 なにか言わんとして口が開いたが、諦めたように目線をそらす。


「ならいい、彼女は初めてのドラマ撮影だからお手柔らかに頼む」


「そんなことをわざわざ言いに来たんですか」


「念のためな。じゃあまた後で」


 あっさりと離れていく。

 一体何だろうと首を傾げていると後ろにいた葉山が「あっ!」と声を上げた。


「先輩じゃないですか! 一瞬だれかと思いましたよ」


「うっせ。バカンスを楽しんできたんだよ」


 葉山が駆け寄る先には見覚えある男性が。顔や手足など露出している部分があまりにも焼けているので一瞬見違えたが。


(――柴山さん?)


 相手はこちらに気づいて頭を下げながら近づいてくる。唖然としている凪人の鼻先にさっと名刺を差し出した。


「初めまして『ごーるでん・えっぐず』の柴山です。本日はよろしくお願いします。いやー本当に彼にそっくりですね。あ、すみませんこっちの話なんで」


 柴山がここにいる。


 どうして。

 まさか。


 心臓が変な音を立て始めた。


「お待たせしました!」


 背後で足音がしてひとりの少女が駆け寄ってきた。凪人はそちらを見ることができない。


「お、きたきた。高校で同じクラスだと聞いてますけど改めて紹介させてください。あなたの恋人ユイナ役を務めるウチの看板モデルで――」


 紺と白のセーラー服に黒髪のウィッグ。細淵のメガネに控えめな化粧を施した少女が深々と頭を下げた。


「モデルのAliceです。来島――ううん小山内レイジくん、今日はよろしくお願いします。初めてですけど、がんばります」


 顔を上げたアリスと凪人の目が合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る