89.「旅行、いけなくなった」
『ごめんアリス。旅行、いけなくなった』
電話口の凪人は悲痛な声でそう告げた。アリスは茫然と、目を見開く。
ここはアリスの自室。まだ一週間もあるというのに待ちきれず旅行の準備をしていた朝に突然電話がかかってきた。
『楽しみにしていたのに本当にごめん。キャンセル料がかかるようなら払う』
ショッピングセンターで水着を買ったのは一昨日だ。そのときはなにも言っていなかったのに、たった二日でどうしてキャンセルすることになったのか……なにか深い事情があるのだ。そうでなければこんなこと言わない。そう思った。
『――……アリス? 大丈夫か、聞こえているか?』
「え、あ、ごめん。びっくりしちゃって。そ……そうだよね、急に都合が悪くなることもあるもんね。大丈夫、大丈夫だよ。すごく残念だけど仕方ないよね。キャンセル料のことは気にしないで」
じわりと涙があふれてくる。
泣いちゃいけないと思うのに我慢できない。
足元に広げてあるのは旅行に先立って準備した可愛いキャリーバッグ、彼に選んでもらった水着、新しい下着、お気に入りのワンピース、日焼け止め、麦わら帽子、変装用のウィッグ。そしてガイドブックと見どころをまとめた自筆のノートだ。それらが視界に入ると胸が苦しくなる。
「ちょっと待ってて、電波悪いみたい。移動するね」
そう伝え、部屋を出て足早にリビングへと向かった。ソファーに寝転んでいたまっくろ太の縫いぐるみを片腕で抱き寄せる。
(泣いちゃだめ。だめだよ。がまん)
小さく息を吸う。
彼を困らせてはいけない。明るく、いつも通りに振る舞うのだ。
「お待たせ。都合悪くなっちゃったんだね、残念。でも私は平気だよ。元々お仕事だもん。そこに彼氏を連れて行こうって、へへ、ワガママだったよね」
『そんなことない。アリスはなんにも悪くない』
優しい口調で言うから、だから、涙腺がゆるむ。
嗚咽で引きつりそうになる喉。震えながら唾を飲んで我慢する。
「できれば――できればいいんだけど理由だけでも教えてくれない? ホテルのキャンセルするときオーナーさんに聞かれるかもしれないから。あとほら、柴山さんにも。別れたのかってからかわれたらイヤだし、ね」
「別れた」なんて死んでも言いたくない言葉だったのに軽くパニックになっていたせいで口からこぼれてしまった。余計に焦ってしまう。
「あ、分かったぁ。なにか機嫌を損ねるようなことしたんだよね。一昨日も試着室で迷惑かけたし。私バカだから凪人くんを怒らせたことにも気づかなかった。ごめんなさい」
おちゃらけて笑ってみても、余計に哀しくなるだけだった。
『ちがうよ。困ったわけでも怒っているわけでもない。アリスは悪くない。おれがそう決めたんだ。旅行にはいけないって』
「……どうして行けないの? 理由を知りたい」
『いまは言えない』
「なんでよ。どうして言えないの? それとも言いたくないの?」
『ごめん』
「そんな言い方ずるいよ。ちゃんと説明してよ。私だってすごく楽しみにして――……ううん、そんなことはいいの。私が知りたいのは、ううん、本当は知りたくないのは、今回はたまたま都合が悪くなっただけで私といるのがイヤになったわけじゃないよね? 別れようだなんて――……言わない、よね。おねがい……」
やだよ、やだよ、やだよ。
心が叫んでいる。
ちがうと言って。
好きだよと叫んで。
次の約束をさせて。
おねがい。
※
――話は、一昨日の夜にさかのぼる。
「来島!!」
ある人からの電話を受けて凪人と桃子が駆けつけたのは救急病院だった。廊下のベンチで項垂れていたのは凪人に電話をした来島の義母・美和子である。足音を聞きつけてゆっくりと顔を上げる。泣きはらして目が真っ赤だ。
「あぁ黒瀬さん、こんなところまでおいでいただいて申し訳ありません。まさかこんなことになるなんて」
涙目で見上げる先では『手術中』のランプが赤々と光っていた。
桃子がそっと寄り添い、肩を抱いた。
「昨日から小夜子さんが一時帰宅していて、今日は怜史くんと三人で買い物に出かけたんです。オムライス作るための材料を買いに。スーパー前の横断歩道で信号が変わるのを待っていたとき、突然小夜子さんが道路に飛び出したのです。きっと猫でも見つけたのでしょう。小夜子さんは病気のせいで興味があるものに飛びついてしまうんです、まるで子どものように。小夜子さんの手を握っていた怜史くんは後を追うように道路に出て、咄嗟にかばったんです。そこへ自動車が――――本当に一瞬のことでした」
凪人はかける言葉も見当たらず、ただ『手術中』のランプを見つめるしかなかった。桃子とて同じで、思い詰めた表情で美和子の肩をさする。
「幸いにも小夜子さんは軽傷。手や膝をすりむいた程度でした。ですがこんな状況でしたので一時帰宅を取りやめて病院へ帰しました。わたしも何が何やらという状態で、それで黒瀬さんにお電話を」
「気にしないでください。来島はきっと大丈夫ですよ。あの来島が、こんなことで……」
そうは言ったものの凪人の脳裏を占めていたのは父親のことだ。体の損傷は大したことがなかったのに頭部への衝撃が強かったせいで帰らぬ人となった。
ぎゅっと唇を噛む凪人。桃子はそっと手を引いて隣に座らせ、血の気の引いた拳を優しく包んでくれた。そこに言葉は必要ない。ただ寄り添うだけでいい。
六時間に及んだ手術は無事に成功。
集中治療室に移された来島を美和子が見舞ったのは夜が明けたころだ。待機していた凪人と桃子の元に戻ってきた美和子は心なしか目に力を取り戻している。
「お陰様で手術は無事に成功しました。二日ほどICUで様子を見て、問題なければ一般病棟に移されるようです。ただいつ意識が戻るかは……」
「来島のことですからきっとすぐに目を覚ましますよ。大丈夫です」
たとえ気休めであろうが必要な言葉だった。
「はい。本当にこんな時間までお付き合いいただいて、なんとお礼を申し上げたらいいか」
恐縮して頭を下げる美和子。
そのとき後ろで話し声がした。見れば病院にそぐわない立派なスーツを身につけた男性たちが三、四人こちらへ向かってくる。「あら」と反応したのは美和子だ。
「お戻りになられたんですね」
先頭の男性が足を止める。すらりと背が高く眉目の整った男性だ。
「息子が緊急入院したと聞いて海外出張などしている場合ではないだろう。様子はどうなんだ」
息子。つまり来島の父親。三毛猫フーズの取締役だ。男性を取り巻くスーツの集団は会社の関係者らしい。
「――という状況です。早く意識が戻ればいいのですが。あ、こちらは怜史くんのご友人の黒瀬くんとお母様です。わたしが取り乱していたためお呼びしてしまいました」
「そうか」
男性が凪人たちに向き合う。目が合った。来島と同じアンバーの瞳だ。
(……?)
凪人は一瞬、妙な違和感を覚えた。それがなにかは分からない。
「黒瀬さん。この度は息子・怜史のことで迷惑をおかけして大変申し訳ありません。このお礼はいずれ。今日はお疲れでしょうから部下の車で送らせましょう」
ここにいてもできることはない。見舞いは一般病棟に移ってからにし、厚意に甘えて自宅まで送ってもらうことにした。
自宅に着くとクロ子が玄関で待っていた。寝ぼけ眼で寄ってきたクロ子のひんやりとした毛並みを撫でながら凪人は今更ながらに思う。
(あの人、おれとは初対面のはずだよな。だったらどうして――)
自分の息子と顔立ちが似ている凪人を見て、少しも驚かなかったのだろう。
まるであらかじめ知っていたかのように。
自宅に戻ったものの意識が冴えていてとても眠れる気がしなかった。店は臨時休業にし、リビングのソファーでうとうとしながら昼過ぎまでテレビを見ていた。スマホが鳴ったのはそのときだ。
「来島のことで話をしたい」というある人物からの連絡だった。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・
『なんとか言ってよ、凪人くん』
電話の向こうでアリスが泣いている。
凪人は言葉に詰まった。
別れる。そんな選択肢があろうはずがない。
凪人にとって彼女と言えばアリスがすべて。アリス以外は眼中にない。
「おれはアリスのことが好きだ」
『……知ってる』
「アリスのことが好きだ。好きだからこそ理由は言えない。ごめん」
『なんで!? ワケが分からないよ。分かんないよ、なんにも、分からない……なんでこんな悲しい思いをしなくちゃいけないの……』
嗚咽が漏れ聞こえてくる。
それでも必死に我慢しているのが分かった。
いますぐ抱きしめたい。
大丈夫、不安になる必要はないよ、と抱きしめてやりたい。
(大丈夫。なにがあってもおれが守る。必ずだ)
だから。
「アリス。おれたち一旦、別れよう」
『……え』
「これからしばらく会えないし連絡もできない。彼氏失格だ。もし付き合っていることでアリスが悲しむのなら一旦交際を解消しよう。なにもかも終わったらちゃんと説明するから、そのとき判断してほしい。もう一度おれと付き合うか、それとも関わりを絶つか。――だから一旦、別れよう」
『な……にそれ。なんでそんなこと言うの。凪人くんは平気なの? もし……もしも私が凪人くんのこといらないって言ったら』
「怖いよ。自分で言い出したことだけど怖くて怖くてたまらない。おれはアリス以外を好きになれないから」
自分でも愚かだと思う。
他に言いようがないのか、方法はないのか、いまもまだ考えている。
けれど言葉を尽くせば尽くすほどアリスを傷つけるような気がするのだ。
アリスは自分を選んでくれた。なら今度も……そんなことを思ってしまうのはワガママだろうか。
(おれは最低だ)
『凪人くん、私は……!』
「愛してるよアリス。一旦、さよならだ。本当にごめん」
返事を聞かずに電話を切った。
握りしめたスマホを床に叩きつけたい気持ちになるが懸命にこらえる。自分に対する怒りしか湧いてこない。
「いやー、じつに素晴らしい演技だねー」
信号待ちの車内に白々しい拍手の音が響く。
凪人はワンボックスカーの後部座席に乗っていた。運転しているのは榛葉だ。
「おれはあなたのことが大嫌いです」
「結構結構。仕事の付き合いはドライじゃないとね。恨まれるのは慣れっこさ、いちいち気にしていたら病気になってしまうからね」
バックミラーごしに睨まれても榛葉はどこ吹く風。信号が青に変わると悠然とアクセルを踏んだ。
『――でもな凪人、本当に悪い人間ってのは優しい顔して近づいてくるもんだぜ』
唐突に来島の言葉を思い出した。
「さぁ行こうか、『小山内レイジ』くん?」
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