15.たいせつなもの

88.待ち遠しい日

「本当に消したんだろうな、写真」


 仕事だからと帰宅した愛斗とは違い、なぜか夕食まで食べていくことになった来島。

 三人で楽しく(と感じていたのは母だけ)テーブルを囲んだあと、食後のコーヒーを用意するからと母が席を立った隙に凪人は声をかけた。「とっくに消した」と言うので問い詰めているところである。


「そんなに心配なら自分で確認しろ。なんならスマホ自体初期設定にしたっていいさ、惜しいものなんてないからな」


 来島は鬱陶しそうに顔をしかめてスマホを放り投げてくる。凪人は念のためと思ってデータフォルダをチラ見(すべて眺めるのはさすがにためらいがあった)し、例の写真がないことを確認する。


「もし隠していたら許さないからな」


「さてどうかな」


「やっぱりダメだ、スマホはおれが預かる!」


 ことアリスに関することになると気持ちに余裕がなくなってしまう。

 そんな凪人を来島は醒めた目でにらんでいる。


「別に信用しろとは言わない。この前のことは悪かったと思っているけど心を入れ替えたわけじゃないからな。ただ例の写真に関してはフェイクだと思ってた。気持ち悪いくらいおまえに惚れている兎ノ原アリスが他の男になびくはずないからな」


 そのときは色々あったのだとわざわざ説明するつもりはなかった。凪人とてそこまで来島に心を許したわけではない。


「もちろんフェイクだよ。共演者とホテルに戻ってきたところをそれらしく撮られただけ。だからこそ知りたい、そんなバカバカしい写真をだれからもらったんだ?」


「んー……」


 そのときスマホが鳴った。凪人がキープしたままの来島のものだ。画面には病院の名前が表示されている。


「よこせ!」


 先ほどと打って変わってスマホを奪い取る来島。立ち上がり、歩きながらだれかと話をしている。


「来島です。はい、お世話になっています。例の件――――あぁそうですか。良かった。はい九時ですね。分かっています、はい、よろしくお願いします。失礼します」


 別人かと思うほど丁寧な言葉遣いで、ぺこぺこと頭まで下げている。拍子抜けしていると心なしか顔をほころばせた来島が戻ってきた。凪人が見ていることに気づき、目をつりあげて元の不機嫌そうな顔になる。


「勝手に盗み聞きすんな」


「あのな、こんな近くにいるんだから仕方ないだろ。――病院て、もしかしてお母さんの」


「そうだよ。来週帰ってくるんだ」


「来週……夏休みか。退院するんだな、良かったじゃないか」


 凪人が嬉しそうに声を上げたので逆に来島はバツが悪そうに目線を背けた。


「ちげーよ。症状が落ち着いてきたから一時帰宅するんだ。二泊三日。医者が言うには母さんの病気は完治することはないけど、いまは薬の進歩も早いし、うまく合えば自宅で日常生活を送ることもできるようになるらしい。今回はその予行練習だ。店長さんに教えてもらったうまいオムライス作ってやるんだ」


「へぇ。だからそんなに嬉しそうな顔しているんだな」


「してねぇよ、バカ」


 本人は全力で否定しているがゆるんだ口元は隠しようがない。凪人にも来島の気持ちがよく分かった。


「来島ひとりで迎えに行くのか?」


「あいにくとオレはまだ未成年だから身元保証人のあの女も一緒だ。オレも夏休みに入ったら撮影があるし帰宅中の母さんの着替えや風呂の面倒までは見られないから手伝ってもらう。仕方ないだろう」


 義母への険のある態度は変わらないものの以前よりも態度が軟化しているように見える。和解する日もそう遠くはないかも知れない。


 時刻は七時半。来島は迎えのタクシーを呼んでから凪人と向き合った。


「おまえ、オレに写真を渡したヤツがだれなのか知りたいんだよな」


「そうだ。あの写真はアリスには絶対見せちゃいけない。おれが彼女を守る」


 これだけは譲れない。

 たとえ相手がだれであろうとも。


「ふぅん。騎士ナイト気取りか、勇敢だねぇ」


 からかわれてムッとしたが唇を噛んで黙っていた。ここで相手の挑発に乗ってはいけない。


「はいお待たせ。食後のコーヒーとプリンでーす」


 なにも知らない母が明るい声で割り込んでくる。生クリームにさくらんぼがトッピングされたプリンを目にした来島は「おお」と感激した様子でスマホのシャッターを切る。意外と無邪気だ。


「あ、やべ。電池残ってねぇや。すみません充電器お借りしてもいいですか?」


「いいわよ、持ってくるわ」


 母の姿がリビングから消えたところで来島が何事か呟く。それは一回で聞き取れないくらい小さな声だった。思わず身を乗り出す凪人。来島は目線を合わせない。


「マネージャーだよ」


「え?」


「写真を寄越したのはマネージャーの榛葉しんばだ。共演する相手の情報をネットでリサーチをするのが趣味とか言って『面白いものを見つけたよ』って写真を送ってきた。でも情報源は絶対に明かさないんだ。あいつはどうにも胡散臭い」



 ※



 いつの間にか夏が来て、蝉が声高に鳴くようになった。

 憂鬱だった期末試験もなんとか終わり、来週からは夏休みだ。


 凪人はアリスは大型ショッピングモールに買い物デートに来ていた。

 アリスは例によってウィッグで変装している。今日はショートボブにデニム生地のジャケットと短パンといったボーイッシュなスタイルだ。


「ねぇ凪人くんは何色が好き?」


 あるコーナーで立ち止まったアリスが笑顔で振り返る。凪人がぎょっとするようなものを手に持っていた。


「シンプルな白もいいけど大人っぽい黒もいいよね。あ、フリルのついた水色もいいなぁ。緑も捨てがたい……ねぇどれが好き?」


「ど、どどどれって」


 ドギマギしてしまう。

 だって、アリスは。


「どの水着、着て欲しい?」


 ほとんど肌が隠れないんじゃないかと思う水着を堂々と持っているのだ。逃がさない、と言わんばかりの笑顔で。

 



「んーおかしいなーまた胸が大きくなっちゃったかなぁ」


 試着してみる、と言って試着室に入ってから数分。アリスはカーテンの向こうに凪人がいることを十分承知の上で「胸」だの「お尻」だのと独り言を呟いている。


「見てみて、ウエスト結構絞ったんだよ。凪人くんの片腕にすっぽり収まっちゃうくらい細くなったの。すごいでしょう」


(もう勘弁してくれ)


 泣きたい。

 アリスのことは好きだ。好きだがカーテンという名の布きれ一枚隔てた向こう側で生着替えをしないで欲しい。しかも実況つき。


「水色のフリルは可愛いけど胸が強調されるからセクシーになっちゃうね。緑は肌色悪く見えるからダメだなぁ。ねぇ、何色がいいと思う?」


「なんでもいいよ」


「もう!」


 背中を向けていたらぐいっと袖を引っ張られた。

 仕方なく振り返るとカーテンの隙間から顔を出したアリスと目が合う。眉をつり上げてご立腹の様子だ。


「凪人くんのための水着なんだよ。初めての泊まりの旅行だもん。一番きれいな私を覚えていてもらいたいの。凪人くんが好きなもの選んでよ」


 今月末の離島への旅行(実際はアリスの仕事のついで)のための水着だという。いい加減な返事をしたら機嫌を損ねてしまいそうだ。


 かと言って男ひとりで水着コーナーを歩き回るのはあまりにも恥ずかしい。下手したら嘔吐するよりも辛いかもしれない。


「こ、これでいいんじゃないか」


 とりあえず一番近くにあったレモンイエローの水着を手に取った。飾りの少ないシンプルなものだ。


「これぇ?」


 アリスは不満そうな顔で水着を受け取り、カーテンの中にもぐりこんだ。

 ごそごそと衣擦れの音がする。凪人は帰りたくて仕方ない。


「なぁもういいか。おれ帰りたい」


「ちょっと待って。これワンサイズ小さくて――きゃっ!」


 つんのめったアリスがカーテンの向こうから飛びだしてきた。「危ない」「バレる」いろんな感情があふれてぎゅっと抱きとめる。


「ごめんなさい勢い余って……」


 胸の中で身じろぎするアリス。はらり、と足元にこぼれ落ちたのは水着の上だ。


(ちょっと待て!)


 これが足元に落ちたということはいま抱き留めているアリスの上半身は……。


(わーわーわー見ない見ない見ない絶対に見ない!!!)


 胸元に押しつけられる肌の弾力とか、どうしても視界に入ってしまう肩や腕の付け根の生々しさや、肌の質感。意識すればするほど体が熱くなる。

 しかしここは水着コーナー。幸いにしていまは人気ひとけはないが、いつ客が来てもおかしくない。


「いいかアリス、このまま後ずさりするからな。で、カーテンの中に入るからな」


「う、うん」


「一歩ずつだぞ。右足からな。はい右、左、右、左」


 慎重に、そろりそろりとカーテンの中にアリスを押し戻す。


(オイ! なんでおれをホールドしてんだよ)


 アリスひとりを戻すつもりがなぜか背中に腕を回されていて半ば強引に引きずり込まれた。結局、抱き合ったまま狭い試着室に入るはめになる。

 後ろ手にカーテンを閉めた凪人はそっと声をかけた。


「アリス、もうだれも見ていないから離してくれないか」


「や……もうちょっとこのままがいい」


 赤ん坊のようにぐずる。

 こうなったらアリスは


(ったく、仕方ないな)


 優しく抱き寄せて、ついばむようなキスを交わしアリスの体と心の火照りが収まるのを待つしかない。

 もっともそれは凪人にとっても至福の時間なのだけれど。


「ふふ。楽しみだなぁ、旅行」


 何度目かのキスの後、アリスがはしゃいだ声をあげた。

 まったくこいつは、とため息をつくかわりにまたキスを落とす。


 スマホが鳴っているのことには気づかなかった。

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