87.母と子のオムライス
「卵はよくかき混ぜてね。うん、上手よ」
キッチンに立った来島は桃子にレクチャーされながらオムライスを作っていた。
ふだんコンビニか外食で済ませている来島は料理を作ることに慣れておらず、卵の殻を割るにも手加減を知らずに中身を飛び散らせていたが、それでも根気よく作業を進めていく。とろとろのオムライスにするため牛乳を入れた卵液を使うのだ。
「料理するのってこんなに難しいんですね」
「手間と時間と栄養、考えなくちゃいけないことはたくさんあるからね。凪人も昔はトマトが苦手だったけどトマトケチャップは喜んで食べるからオムライスをよく作ってあげていたの。玉ねぎのみじん切りやグリーンピース、パプリカを細かくしたりして野菜も一緒に食べられるようにしてね」
「ふぅん」
来島の脳裏に浮かんだのは義母の顔だ。作り置きされていく料理はどれも手の込んだものだったが、彼女への嫌悪感からほとんど手を付けずに捨てていた。毎週やってくる彼女は生ごみの中身に気づいていただろうに、それでも懲りずにやってくる。
「お客さんが料理を食べて『美味しい』って頬をほころばせてくれる姿を見るのが好きなの。こっちまで嬉しくなる」
「だから店長さんはカフェをやっているんですか?」
「夢だったの。わたしと主人の、大切な夢」
カフェを作ることは高校時代から交際していた桃子と亡き主人との長年の夢だった。結婚して凪人が生まれてからもその思いは変わらず、少しずつお金を溜めて準備していた矢先、主人が他界。
失意の中にあった桃子は精神的に不安定な時期が続いたと話す。
「親子三人の幸せな生活から一転して地獄へ。『なにか悪いことをしたんじゃないか』って変な妄想に取りつかれるようになって、次第に周りの目を気にするようになったの。凪人が引っ込み思案なのはわたしの育て方が悪いんじゃないか、主人が亡くなったのはカフェ経営なんて贅沢しようとしたからいけないんじゃないか。なにもかも否定的に考えて落ち込んでいた時に『黒猫探偵レイジ』のオーディションのチラシが舞い込んできたの。「やってみたい」って凪人が言ったのよ、これに受かればきっと引っ込み思案なのも治るし、みんなお母さんを褒めてくれるって元気づけてくれた。――まさか受かるとは思わなかったけれど」
「でもそのせいで嘔吐を?」
「……うん、そうなの。凪人はわたしのことを気遣ってくれた。「病気になったのは自分のせいでお母さんは悪くない」ってずっと言い続けていた。まだ十歳にもならない子がよ、愛情たっぷりもらって親に甘えていていいはずの凪人はいつも心配ばかりしていた。わたしの体調が優れない日は料理や家事もしてくれたし、友だちとケンカしてケガして困らせたくないからと学校でも友人を作らなかった。わたしは本当に本当に大バカだから、あの子に甘えていたの」
ぶるぶると肩を震わせる桃子。来島は泣き顔を見ないようにして卵を解く。卵白と卵黄と牛乳、異質なものが優しくまじりあっていく。
「カフェの夢を忘れかけていた五年前、わたしは会社勤めしていたわ。凪人は風邪ぎみだったけど「大丈夫」と言って学校に出かけていった。わたしもふつうに出勤したんだけど夕方になって担任の先生から電話があったの。「凪人くんの様子はどうですか」って。熱が出たから午前中に帰ったって言うのよ。それも先生の前でわたしに電話する芝居を打ったらしいわ。慌てて帰宅したら家のそこらじゅうにティッシュやトイレットペーパーが散らばっているの、嘔吐したあとだった。パジャマをびしょびしょに濡らした凪人がわたしに「大事なおしごとのじゃましてごめんなさい」って弱々しく頭を下げた瞬間――どうしようもなく自分を殴ってやりたくなった」
どうして凪人を休ませなかったのか。
どうして仕事を休まなかったのか。
どうして大事な息子に謝らせているのか。
「申し訳ないのと情けないのでオイオイ泣いてね、凪人もわたしの胸の中でビービ―泣いてた。互いにおかしくなりそうなくらい泣いたその夜は、凪人のリクエストでオムライスを食べたの。これはそんな思い出の味」
フライパンにバターを引いて卵液を広げる。半熟になるまで混ぜながら加熱し、一度ラップにとって丸める。そうして再びフライパンに戻して加熱したあとケチャップライスに乗せる。縦に切れ目を入れて広げればとろとろオムライスの完成だ。
「おおースゲー」
感激した来島はスマホで撮影しようとする。そこでやっと気づいた。凪人からの着信があったことに。
※
「ラッキーでしたね。たまたま寄った道の駅に水族館のクッキーが置いてあるなんて」
凪人たちはマンションを離れて自宅に戻る途中だった。手の中にはイルカのクッキー。これさえあれば水族館に寄る必要はない。
「あーぁ。クロマグロの人生ゲームほしかったな」
不満そうなのは運転中の愛斗である。
「ダメですよあんなの。せっかく自分がクロマグロになった気持ちで世界中の海を回遊するのに、獲得したお金が最後「競り」の値段になるなんてシビアすぎます」
「なに言ってんだ、その値段によって安い回転ずしか高級すし店か変わるんだぞ」
「自分が食べられるところまで味わうってどんな人生ゲームですか」
「世の中は金なんだよ、金」
クロマグロの人生ゲームは凪人と愛斗の間に微妙な壁を作っていた。本当に微妙な。
そのとき凪人のスマホが鳴った。電話の着信ではなくショートメッセージだ。相手は来島。
「ん……早く帰ってこい? なんだこれ」
※
一時間後、帰宅した凪人たちは驚愕した。
「おかえりなさい凪人」
「か、かかか母さん……」
「なぁに?」
キッチンにいた母が小首をかしげる。
「なんで来島がウチで寝てるんだよ!?」
リビングのソファーで来島が熟睡している。その腕の中でクロ子も丸くなっていて、凪人の気配にちらっと片目を開けた。
『んなー(おかえりー)』
と尻尾をそよがせて再び眠る。一体どうしてこんなことになっているのか。答えは母がお茶と一緒に出してきたシュークリームにあった。
「彼、手土産持って謝りに来たみたいなの。凪人たちが出ていってからそんなに経ってない時間にね」
「まじか」
どうやら完全に行き違いになったらしい。
叩き起こすのも可哀想なのでシュークリームを食べながら待つことにした。アリバイ作りのため買ってきた水族館のクッキーも忘れずに取り出す。
「母さんごめん、じつは来島に会いに行ってたんだ。本人とは行き違いだったけど来島の母親だっていう人に会った。とても優しい人だ」
その先の説明は愛斗がしてくれた。シュークリームを頬張りながら。
「彼女はとある飲料メーカーの令嬢で、いまのご主人とは家のつながりで生まれたときから婚約していたんだそうです。くわえて、女優の来島小夜子さんと同い年で学生時代からの知り合いでした。二十歳の時に小夜子さんの妊娠が判明して相手が自分の婚約者だと分かったそうです」
世間的に「女優・来島小夜子」が注目されていたこともあってふたりは結婚。けれど三年あまりで終焉を迎えた。小夜子は息子を連れて海外を点在。ようやく帰国したときには取り返しのつかないほど病状が進行していた。
「もちろん彼女にとっては婚約者の不貞も友人の裏切りも許せるものではなかった。両親の説得で渋々結婚したもののずっと根にもっていたそうなんです。でもあるとき病院に小夜子さんの面会に行ったとき、頼まれたと」
――わたしのことは一生恨んでいい。だから。
――怜史をお願い。お願いします。お願いします。
自分の名前すら忘れることもある小夜子が、泣きながら彼女の手にすがりついて息子のことを頼み込んだ。そのときは元女優の迫真の演技かもしれないと思ったが、どうしても忘れることができずにいた。
彼女は言った。
『わたしたちには子どもができなかった。だからなのかしら、一回くらいお母さんになってみたかったの。血のつながらない母親に。でもね』
来島は浅はかな気持ちを見透かしたように反発し、傍若無人に振る舞い、関わろうとしなかった。「母親ぶるな」と罵倒されたこともある。それでも放っておけなかったのだと言う。
『最初のころは散らかしてひどい状態だった室内も最近はピカピカに掃除してあるの。ゴミ箱にも紙屑ひとつない。嫌がらせだと思うけどわたしが来る前に必死に掃除しているのかと思うと可笑しくて。作り置きの料理だって以前はそのまま捨ててあったのに最近ではちょっとずつ減っているのよ。近所の野良猫にでもあげているのかもしれないけど、いつか空のタッパーを返却されるのが目標なの。単純よねわたし』
彼女だって迷い、ときには苛立ちながら来島に接していただろうに、凪人たちに向けた笑顔は吹っ切れていた。正しい親子の形なんてないのだと知ったのだ。
「……うっせぇな」
ぽつりとこぼして来島が上体を起こした。クロ子を落とさないよう気を遣いながら立ち上がる。不機嫌さを隠そうともせず凪人に詰め寄ってきた。
「黙って聞いていれば人の家のことあれこれ詮索しやがって。ほんと迷惑だ」
ついムッとする。
「おまえこそなんの用事でウチにあがりこんでるんだよ」
「店長に呼ばれたんだよ。従うしかねぇだろ」
「断ればいいだろ、おれに対しては毒づくくせになんで母さんには従順なんだ。意味が分からない」
一触即発の空気だ。桃子が駆け寄ってきて助け舟を出す。
「来島くんね、オムライス食べて欲しくて待っていたのよ」
「オムライス……?」
来島とオムライス。あまりにイメージがかけ離れていて言葉を失う。
桃子は「そうそう」と何度も頷いた。
「むかし小夜子さんが作ってくれたオムライスの味が懐かしくてたまに食べたくなるんですって。で、この前来たときにわたしが作ってあげたものを気に入ったみたいなの。さっき一緒に作ったから食べてあげて」
キッチンのテーブルの上にはラップにかけたオムライスが置いてある。腹は減っていなかったが折角なので食べてみることにした。が、箸をつける直前に来島が手で遮った。
「ちょっと待ってろ」
ケチャップを手に何事か書いて「おら」と皿ごとぞんざいに寄越す。
真っ赤な文字で書かれていたのは。
『ごめん』
その一言だ。
驚きのあまり息をするのを忘れた。傍らで心許なさそうに佇んでいる来島の顔を見上げるが視線は合わなかった。向こうが意図的にそらしているのだ。
「悪かったな。この前は。うん、悪かったと思ってるんだ、これでも、一応」
なんだか歯切れが悪い。謝ることに慣れていないのだろう。
凪人は無言のままオムライスをひと匙口に運んだ。
「うん、美味い」
来島がにんまりと笑った。
「だろ。オレ才能あるかもな」
「かもな。演技はダメだけど」
「うるせぇ! オレだって本気出せばよゆーだ!」
「こーら。仲直りしたんだからケンカしないの」
いがみあうふたりの間に割り込んだのはまたしても桃子だ。
「母さんおれのせいじゃないよ、こいつが一方的に吹っかけてきたんだ」
「はぁ!? そもそもてめぇがオレの真似してきたんじゃねぇか。『小山内レイジ』を名乗って顔まで似せやがって」
「この顔は生まれつきだ」
「オレだって生まれつきだ!」
きりがない。まるで兄弟げんかだ。
しびれをきらした桃子が足元にいたクロ子をスッと抱き上げた。
「ねこぱーんち!」
クロ子の両手で凪人と来島の頭をぱしぱしと叩く。
ふたりはきょとんとして静かになった。
「これ以上騒ぐなら追い出すわよ。凪人は残さず食べなさい。来島――いいえ怜史くんは食器片づけ。いいわね!」
「「……はーい」」
しゅんと項垂れるふたり。
ひとり笑いを噛み殺していたのはソファーでドーナツを食べている愛斗だ。
「まるで兄弟みたいだな」
『まったく猫をなんだと思っているのよ』と騒動に巻き込まれたクロ子が避難してきた。とん、と飛び乗った拍子に机の上にあったハガキが一枚落ちる。それを拾い上げた愛斗の笑みがさらに深くなった。
「ほんと桃子さんには敵わないな」
ハガキにはこうある。
『暑中お見舞い申し上げます。厳しい暑さの毎日ですがいかがお過ごしでしょうか。
この夏も例年以上の猛暑とききます。この折りはクーラーの効いた『黒猫カフェ』で冷たいかき氷を用意していますのでぜひお越しください。もちろんお客様としてだけでなく息子の友人としてでも大歓迎ですよ。早く仲直りしてくださいね。店長より。来島怜史さまへ、親愛をこめて』
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