86.もうひとりの母

 来島が書いた住所を頼りに辿り着いたのはオフィスビルを兼ねた高級マンションだった。当然ながら入口には警備員が常駐し、第三者が侵入できないよう厳重な警備が敷かれている。


 来島の部屋は57階。入口のインターフォンで呼び出ししてみたが応答がない。以前一度だけ掛かってきた電話にリダイヤルしてもつながらない。

 困っていると車で待機していた愛斗が心配して近づいてきた。


「インターフォンも電話も応答がないんです。どうしましょうか」


「いまは九時。寝ているか外出か。どっちにしろ待つしかないんじゃないか。それとも先に水族館行くか?」


「うーん、たしかに出直した方がいいかもしれませんね」


 男ふたりで水族館というのも悲しいものだがここで待ち伏せしていても仕方ない。凪人は念のためと思って最後にインターフォンを鳴らした。やはり応答はないが寝ている(あるいは居留守)の可能性を考えて声をかけた。


「来島、また来るからな」


 すると隣で愛斗がぽつり。


「ダジャレみたいだな」


「有名俳優がそういうこと言うのやめてくださいよ……」


 凪人が思い詰めた顔をしていたので愛斗なりに明るくしようとしているのだ。苦笑いしながらきびすを返したとき、誰かが立ち止まる気配があった。

 ひとりの女性と目が合う。白髪が混じった黒髪に上品ないでたち。桃子よりもやや年上に思える。両手に抱えた大量の荷物を細い腕が支えていた。

 俳優の愛斗に気づいたわけではなく、じっと凪人だけを見ていた。


「もしかして怜史くんのお友だち?」


「友……はいそうです。来島怜史くんを訪ねてきました」


 いまはそういうことにしておこう。


「そう、そうなのね。お家に来てくれるようなお友だちができたのね」


 女性はとても嬉しそうに笑う。少女のような笑顔に凪人と愛斗は顔を見合わせた。


「あぁ紹介が遅れてごめんなさい。わたしは来島怜史の母の美和子です。血のつながりはないけれど、ね」


 ――日曜日に後妻がくる。

 来島の言葉を唐突に思い出した。



 ※



「じゃあお約束じゃなくて突然いらしたの? 残念だけど朝からいないと思うわ。日曜日はいつもそうなの」


 女性は本人が不在の部屋に勝手に入れることはできないと詫びた上で住人専用のカフェコーナーに案内してくれた。エレベーターの中でも彼女はずっと喋りっぱなし。学校の様子はどうか、食事はちゃんととっているのか、最近始めたらしい役者の方はどうか、ちゃんと寝ているのか。まるで本当の母親のようだ。


 50階のカフェコーナーに到着する。店員がおり、町中にあるカフェとまるで変わらぬ品揃えだ。女性は慣れた様子でふたりを促す。


「わたしは飲み物を頼んできますので先に席に行っていてください。なにがいいでしょうか?」


 凪人はコーヒー、愛斗はカフェオレ(本人としては甘い物を我慢している方)を頼んで窓際の席に着いた。愛斗がこそこそと話しかけてくる。


「なぁ、いまの人は来島を引き取った実の父親の再婚相手ってことだよな」


「そうだと思います。別居していて、毎週日曜日に来て部屋の掃除や料理の作り置きをしていくと言っていましたけど来島は嫌がっていました」


「その割には穏やかな感じの人だな」


「ですね。来島のことを心配しているのが伝わってくる」


 だからこそ実の母親との違いに苛立ってしまうのかもしれない。

 自分のことを忘れていく実母と、自分のことを気遣ってくれる義母。その差に。


「俺が思うに、なんとなく似てるよな」


「だれにですか?」


「だからさ……」


「お待たせしました!」


 女性が戻ってきたところで愛斗はようやくサングラスを外した。相手はすぐさま気づいて「あっ」と声を上げる。


「斉藤マナトと言います。申し訳ありません、俺たちは息子さんの友人ではないんです。話したいことがあって訪ねてきたんです」


 相手は大人だ。凪人が言うよりはと愛斗が説明してくれた。

 曰く、先日来島に一方的に店へと連れて行かれ、首を絞めるなどの暴行を受けたこと。そして「ある写真」の件で脅されていることを。


「怜史がそんなことを――本当に申し訳ありません……」


 青ざめて話を聞いていた女性は凪人に向かって深々と頭を下げた。謝罪してほしいわけではない。「写真」を消してほしい、それだけなのだ。


「いいえ。息子のしたことです。親のわたしが謝罪するのは当然のこと。本当になんとお詫びをしたらいいか」


 凪人はますます戸惑った。

 ここにいる女性は母親以上に母親らしい。来島のプライバシーを尊重して他人を部屋にあげないし、本人の非礼を親としてきちんと詫びている。最初は「怜史」と呼んでいたのに他者の前では呼び捨てにしているのも親としての自覚を感じさせる。


「おれは来島のことがよく分からないんです。幼い頃に女優のお母さんが離婚して海外を転々とし、その後お父さん……ご主人に引き取られたことは知っています。同情することもありますけど、どうしてあんなに攻撃的なのか」


「わたしのせいだと思います。わたしが毎週毎週部屋に来るのが鬱陶しいんでしょう。彼にとってわたしは両親を引き裂いた張本人。そんな相手が部屋を荒らしていると知ったらフラストレーションも溜まりますよね」


「失礼ですがどうして毎週?」


「以前は別の人間を派遣していたのですが本人の判断で勝手に断っていたことがあったんです。やはりわたしが、と一度来てみたらカーテンは閉め切られてコンビニのお弁当の空箱は散乱、洗濯も掃除もろくにしていなくて、『仕方ないなぁ』という感じで」


「あなた自身に気まずさはないんですか? 血のつながりはないのに」


 それまでは俯いて申し訳なさそうに喋っていた女性は、顔を上げてまっすぐ凪人を見た。揺らぐことのない瞳は自信にあふれ、卑しいことはなにひとつないとばかりに。


「ないと言ったらウソになります。けれど小夜子さんはわたしの学生時代からの友人。大切な人の最愛の息子さんです、病気の彼女の分まで愛情を注いであげたいと思うのは当然のこと。たとえ本人には迷惑だとしても「もう大丈夫」と言われるときまで支えてあげたいんです。それが母親というものでしょう?」


 その瞬間、彼女が「だれ」に似ているのかようやく分かった。

 母だ。母の桃子によく似ている。



 ※



『うにゃにゃーん(よくも凪人をいじめたわね、ネコパーンチ!)』


 クロ子は吠えた。

 性懲りもなく現れたにっくき来島に天誅を与えるべく右手をくり出し――。


「あ、曲がった」


 暑中見舞いのハガキにぽすんと肉球を押しつけられる。来島の手で。


『う゛にゃーん(ちょっとーなんであたしがこんなことさせられてんのよ!)』


「悪いわね来島くん。暑中見舞いのスタンプ押す手伝いしてもらって助かるわ。はいこっちもお願いね」


 桃子は笑顔でハガキを手渡す。

 定休日の店を訪れた来島は「丁度いいわ」とクロ子を抱かされてスタンプ押印係にさせられていた。状況が飲み込めないまま来島は言われたとおりにしている。


「……あの、店長さん」


「はいこれ次のハガキね」


「あ、はい」


 すっかり向こうのペースだ。桃子は鼻歌を口ずさみながらハガキ一枚一枚にメッセージを書き込んでいる。作業の手を休めずに声を掛けた。


「来島くん猫の抱き方上手ね。クロ子も全然嫌がらないじゃない」


「しょっちゅう野良猫を構っていましたから。母さんは病気を持っているかも知れないからやめてほしいと眉をしかめていましたけど、オレに寄ってくるのは犬か猫くらいしかいなかったから」


「淋しかったのね」


「友達をつくったら離れがたくなる。そうしたら母さんを追いかけられないと思ったから」


「いまはどう? お友だちはできた?」


「あんまり変わらないです。むしろ悪化している。凪人――息子さんに対してもひどいことを」


 ちらりと視線を向けたのは荷物と一緒においてある箱だ。

 謝罪に行くのなら手土産が必要だということは分かっていたが相手がなにを好きなのかまるで分からず店先で悩んでしまった。結局有名な菓子店のシュークリームに落ち着いた。これで良かったのかいまでも分からない。


「ねぇどうして急に謝ろうと思ったの? 愛斗さんに怒られたから?」


「それもあります。でも、それだけじゃない。凪人が」



 ――『これでも忍耐強さには自信がある。教えるのは下手だけど傍で見ていてやることはできるし、一緒に考えて悩むことはできる。愚痴を聞かされたり悪口を言われたりしても大抵のことは我慢できる』


 その言葉を聞いた瞬間、なぜか泣きそうになった。

 怒られることには慣れていたのに、あんなふうに言われたのは初めてで、どうしたらいいのか分からなかった。


「自分でもワケ分からないです。わざわざ手土産持って、なんでここに来てるのか……分かんないけど、なんか、気になって」


 言いよどむ来島。

 桃子は静かに微笑んでいた。


「来島くんこれ最後。お願いできる?」


「あ、はい」


 最後の一枚を受け取ってクロ子の肉球を押しつける。汚れてしまったクロ子の手を布巾で拭いながら何気なくハガキの内容を読んでいて気づいた。


「店長さんこれって」


 言い終わる前に桃子が顔を近づけてきた。恐ろしいほどの笑みを浮かべている。


「来島くん、わたしはきらいなものがたくさんあるの。食べ物をたくさん残す人がきらい。「いただきます」や「ありがとう」を言えない人がきらい。暴力を振るう人がきらい。自分の感情で他人を傷つける人がきらい。だから大事な息子を傷つけたあなたのことも好きにはなれない」


「当然だと思います」


「そうね。だけど悪いことを悪いこととも思わずのうのうと生きている人間がもっときらいなの。だからあなたへの罰としてハガキのスタンプ押しをしてもらったの。クロ子はしばらく機嫌が悪いだろうから面倒見てあげてね。凪人はそのうちに帰ってくると思うからあとは直接話してちょうだい。――あ、お昼食べていってね。なにがいい?」


 茫然としていた来島は思い出したように立ち上がる。


「……オムライス。オムライスがいいです。作り方、教えて下さい」

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