85.すれちがい
凪人たちはふたたび部屋に戻ることにした。ここから先、母には聞かれたくないことがあったのだ。
「さっきの、本当に来島に会いに行くつもりか?」
「はい。このままじゃモヤモヤして仕方ない。どういう形であれ決着をつけなくちゃいけないと思うんです。気になることもあるし」
そこで言葉を切り、ちらりと愛斗を盗み見た。
「来島が見せてきたんです。一年前の写真を」
息を呑む気配が伝わってきた。
「なに……言ってんだよ。アリスが俳優とホテルに入る写真は全部買い取ったはずだ。コピーがないことも確認した。俺はパソコン類には詳しくないからマネージャーも一緒にだけど。もちろん巧妙に隠されていればどうしようもないけど誓約書だって交わしたんだぞ」
「……」
凪人の沈黙が事実を肯定している。
愛斗は呆然と息を吐く。
「マジで……マジなのか?」
そこで別のことに思い至り、怯えたように凪人を見据えた。
「もしかして俺が流出させたと疑っているのか?」
「いいえ、そこまでは頭が回りませんでした。ただ
あの写真の存在をアリスは知らない。
凪人が恐れているのは写真流出によるアリスのイメージダウンだけでなく精神的なショックだ。憔悴し、触れられることを恐れて食べ物すら受けつけなくなったアリス。あんな姿はもう見たくない。
「だから来島に会いに行くんです。写真データをどうやって入手したのかを聞いて、削除して欲しいと頼みます」
「俺も一緒に行ってもいいか?」
「……会うのはおれひとりでと思っていますが、もしものときのために待機してもらえると助かります。ケンカは得意じゃないから」
「オーケー、次の日曜日なら都合がつくと思う。こんな話、桃子さんの前じゃできないな」
労わるように肩を叩いた愛斗はふと声音をひそめた。
「『黒猫探偵』がリメイクされるとき、主人公は来島が再演する案が有力だったそうだ。だけど来島側はそれを断ったらしい」
「だからオーディションで来島に似ていたおれが選ばれたんですね」
「いやちがう。顔が似ているのはむしろマイナス要因だったそうだ。顔を似ているだけで選んだらオーディションに子役を出した事務所が騒ぐからな。でも凪人は選ばれた。マイナスをプラスにしてしまえるくらいの確かな演技力があったんだよ」
愛斗の声は優しい。
優しいけれど、怖い。
「凪人はもう小山内レイジには戻らないのか? 俺はこれでも凪人の演技力を買っているんだ。先日話題になっていた文化祭の演技もおまえだろう」
またその話だ。
またそちらへ引っ張っていこうとする。
「愛斗さんを前にこんな話をするのも失礼かもしれませんが、おれにとって芸能界はどこか現実離れした――雲の上みたいな所なんです。たまたま木登りが得意で雲の上にすんなり辿り着けたからと言って、そこで生活することはできない。下界の景色やそこでの生活に興味がないし生業を見つけようとも思わない。地面に足をつけて目立たず地味に生きていたいんですよ」
「ひどい言い草だな」
愛斗は乾いた笑い声をあげる。
「いまの例えなら役者を目指しているアリスは木登りの最中なんだぞ。それを興味ないって? 才能があるのに? そんなこと面と向かってアリスに言えるのか?」
現在進行形で「雲の上」にいる愛斗にとっては不快でしかないだろう。
口調がきつくなるのも仕方ない。
「――すみません。正直まだ答えはでていないんです。もしアリスがようやく辿り着いた雲の上で生活したいと言ったら、そこから引きずりおろすことなんてできない。どんな道を選ぶのかはおれにも分かりません。ただ幸せであってほしいと願うだけです」
どんな未来が待ち受けているのかは自分にも分からない。
自分の意見を殺してでもアリスとともに雲の上にいることを選ぶかもしれないし、別れを告げて地面から空を見上げる生活になるかもしれない。
分からない。
けれど変わらないのはこの気持ちだけだ。
アリスには幸せでいてほしい。ずっと笑っていてほしい。
「ごめん、きつい言い方して悪かったな」
凪人の気持ちを察したのか愛斗はポンポンと肩を叩いて離れた。
「とりあえず次の日曜に来島のところに行こう。住所は分かるのか? さすがに俺もそこまで教えてもらえるかどうか」
「あっ大丈夫です」
そう言って一階から持ってきたのは来店客に度々渡しているアンケート用紙だ。
趣味でパソコン教室に通っている母が見よう見まねで作成し、店の雰囲気や飲食物の評価などを★の数で回答してもらっている。いちばん下のスペースには『クリスマスカードなどを贈りますので住所とお名前を記入いただけると助かります』と一言。
「じつは前に来店したとき母が来島に渡していたんです。律儀に全項目書いてありましたよ、もちろん住所も」
初対面の来島に対しても物怖じせずアンケート……しかも警戒されてもおかしくない住所まで書いてもらえるとは。愛斗は嘆息する。
「知ってはいたけど桃子さんてすげぇな……」
「まったくです。敵にまわすと怖いですよ」
この点は完全に意見が一致した。母・桃子は最強だ。
※
――次の日曜日。
「母さん、じゃあ行ってきます」
迎えに来てくれた愛斗の車に乗り込んだ凪人は窓を開けて声をかけた。桃子はいつもそうしているようにクロ子を抱きかかえ、その腕を借りて手を振る。
「行ってらっしゃい、お土産は気にしなくていいからね」
「んにゃー(早く帰ってきてアタシと遊びなさいよ)」
ゆっくりと走り出した車。バックミラーを気にしつつ愛斗が小声で話しかけてくる。
「お土産なんて言っていたけど行き先はなんて伝えたんだ?」
「パッと思いつかなくて、それで、水族館と」
あぁ、と遠い目になる。
「男ふたりで水族館ねぇ……アリバイ作りのために帰りに寄ってくるか」
「おれは車で待ってますよ。愛斗さんだとバレたときに周りが怖いので」
「うわ水族館で斉藤マナトがぼっちかよーきついなー」
来島の家に行くとは伝えていなかった。当然約束はしていないし、下手したら殴り合いをするかも知れないなどと母に言えるはずがない。
バックミラーに桃子の姿が見えなくなった。愛斗は躊躇いつつもかねてから気になっていたことを口にする。
「お父さんは病気で、だっけ」
「……事故です。自宅の前で車にはねられました。打ち所が悪くてそのまま。おれが七歳になる前です」
淀みのない言葉。けれど表情は見せない。
「ごめん、誤解しないで欲しいんだけど桃子さんと凪人っていい意味でアッサリしているよな。死別による片親って溺愛するか拒絶するか……なにかしら目につく違和感があるものだと思っていたけど。あ、でもこれは俺の偏見だから怒っていいからな」
凪人は無言のまま首を傾けて窓の外を見つめた。やがてぽつりと、
「すみません、この話はしたくない」
とだけ告げる。
愛斗は「ごめん」と再び謝ってから顔隠しのためのサングラスをつけつつラジオの音量をあげる。日曜日らしい陽気な音楽が流れる車内で凪人はきつく目を閉じた。
来島の過去は悲惨だ。同情する点もある。けれど憐れむ気持ちはない。
何故なら父親がいるからだ。
離婚したとは言え父親がいる。生きている。
そんなに羨ましいことがあるものか。
※
「さぁクロ子。今日は暑中見舞いを全部片づけちゃうわよ。手を貸してね」
日曜日なので店は休み。桃子が元気よく引っ張り出してきたのは大量のハガキだ。このご時世だからこそアナログなものが良いと信じている。クロ子の肉球をスタンプがわりに押して愛らしさをアピールしようという作戦だ。
万年筆を手にいざ一筆、というところで玄関のチャイムが鳴った。勢いを削がれた桃子は「ぐっ」と呻いたものの姿勢を正して深呼吸する。怒らない怒らない、笑顔笑顔と自分に言い聞かせながらインターフォンに向かった。
画面の向こうに現れた姿に「あっ」と息を呑む。
『突然すみません。凪人くんは――――いますか?』
有名な洋菓子店の箱を手に気まずそうに佇んでいるのは来島だった。
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