83.お見舞いと看病 ※R15
「お・は・よ」
凪人が目覚めると鼻先数センチにアリスの顔があった。
一瞬理解が追いつかない。
ゆっくりと上体を起こした。ここは自分の部屋で、自分のベッドで、なおかつ寝間着に着替えている。いつのまに。
憶えているのは来島に連れて行かれた店に愛斗が迎えに来てくれ、車に乗りこんだところまで。もし車内で吐いたら申し訳ないと思いつつシートベルトを締めたところでぷつりと記憶が途絶えている。
「おーい、起きてる?」
目の前でひらひらと手を上下させる。「うん、たぶん」と頷くとアリスは安堵したようにベッドから離れた。
「昨日の夜に風邪こじらせて吐いちゃったんだってね。桃子さんや愛斗さんも心配してたよ。お水飲む?」
勉強机の上に置いてあったグラスに水を入れて差し出してくれる。程よく冷えた水が渇いた体に染み込んでいくようだった。美味い。
(夢……だったのかな。来島に誘われた店でつらい過去を聞かされたのは)
夢。そうだったらどんなにいいだろう……来島にとっては。
凪人の手首にいまも残る爪の痕は来島の過去が事実だった証だ。
あのあとどうしたのだろう。
「早く元気になるといいね。あぁでもこのまま付きっきりで看病するのも悪くないかなー」
どこか楽しそうにしているアリスは制服姿だ。七月に入って夏服に衣替えしたらしく、淡い色のシャツの上にチェック柄のベストが涼しげだ。
学校に寄ってきたのなら来島の様子を知っているかもしれない。
「アリスいつ来たんだ」
「ん……と。ついさっき」
目が泳いでいる。あやしい。
「今日学校じゃないのか? いま午後三時だけど」
「授業と彼氏、比べるまでもないじゃない。昨日の夜に桃子さんから連絡もらってすぐに飛んできたかったくらいなんだから一晩我慢しただけでも偉いって褒めて欲しい」
やたらと潔い。
ということはアリスは朝からここにいたことになる。
「あのなアリス。学生の本分っているのは勉強」
「あー聞こえない聞こえない。病人はおとなしく寝ててください」
うやむやにして強引に肩をついてくる。仕方なくふたたび横になると目の前でターコイズの瞳が泳いだ。
「んーあれれ、ちょっと体が熱いかも。私も風邪うつったのかなぁ」
わざとらしく額に手を当てるので思わず笑ってしまった。
「どうせ入りたいだけだろ」
そう言って布団を持ち上げてやると「やった」と小さく飛び跳ねてもぐりこんできた。
風邪をうつしたくないと拒否してもなんだかんだ言いながら入ってくるのだ。こうなったら健康優良児を自負するアリスの抵抗力を信じよう。
「ふふ、凪人くんの匂いがするー」
アリスは目をきらきらさせてすり寄ってきた。枕元に流れたミルクティーの髪がきれいだ。
「ねぇねぇ知ってる? こういうの『どーきん』って呼ぶんだよ」
「……もう出てけ」
「あ、やだ、ごめんなさい添い寝です添い寝! ほらいい子だからおやすみー」
子どもを寝かしつけるようにポンポンと軽く叩いてくる。悪くない感触だ。
「……なぁアリスのお母さんていつも忙しそうだろ。子どものころ淋しくなかったか?」
来島は母親に異常なこだわりを見せていた。それは子どものころに与えられるべき愛情を受けられなかったからだ。大人に負けじと世渡りしてきたせいで歪んだ強さを身につけてしまった。だからそれを脅かすものに敏感で激しい拒絶反応を見せる。
「ママ? うーん、あまり思わなかったな。日本式の育て方と少し違うのかも知れないけど、自分でやれることは自分でやる、親は危険がないよう見守るだけの存在って感じだったから。ママはたしかに忙しそうだったけど私がモデル活動はじめるまでは国内にいることが多くて、毎日必ず帰ってきてくれた。私が作った下手くそな料理を残さず食べてくれたし、寝る前にはおやすみのキスをくれるの。そのあとは書斎で海外とやりとりしていたなぁ」
凪人から見れば海外を飛び回っているアリスの母は冷たくて薄情に思えるが、いろんな母子の形があるのだ。当人はさほど気にしていないし愛されていることを知っている。だから家で灯りをつけて待つのだ。
「私が学校で熱だしちゃったときなんか飛行機で九州に着いた途端とんぼ返りしてきたんだよ。もう血相変えてさ、お気に入りのヒールが片方なくなっていることにも気づいてなくて、もう笑っちゃったよ。でも嬉しかった」
「いいお母さんなんだな」
「うん、大好き。モデル活動始めてからはちょっと微妙な関係だけどね。凪人くんのこともまだ話せてないし」
「大丈夫。きっと分かってくれるよ、なんたってアリスのお母さんなんだから」
「――うん!」
まるで自分のことのように嬉しそうだ。アリスが嬉しいと凪人も嬉しい。
自分の母の桃子だって凪人の体調を心配するがゆえ、無理して自宅に併設する形のカフェを作ったのだ。こうすればいつでも凪人を迎えられる。
もしも桃子が来島の母のようになってしまったら、きっと自分も同じようになる。
他者からの厚意を棘のように感じ、劣等感を刺激されて周囲に当たり散らすだろう。そうならないのは一重に母の努力と、そしてアリスの存在があるからだ。
「ありがとうなアリス。おれのこと好きになってくれて」
吸い寄せられるように手を伸ばし、透き通るような白い頬に触れた。アリスは少しくすぐったそうに笑みをこぼす。
「? 突然どうしたの?」
「急にそう思ってさ。感謝してる」
「面と向かって言われるとちょっぴり恥ずかしい……」
照れ隠しのように布団に顔を隠した。
体をちぢこませる姿が可愛くて布団の上から軽く抱きしめる。かわりにアリスはひょっこりと顔を出して凪人の胸に顔を埋めた。
「なぁ――ちょっとだけ。ちょっとだけ、触っても、いいか?」
「甘えんぼさんだね」
「ダメか?」
「全然。むしろ大歓迎」
ご自由に、とばかりに体の力を抜く。早速細いうなじに手をくぐらせると髪の冷たさが感じられた。シャンプーの匂いが広がる。この匂いが好きだった。目を閉じれば胸いっぱいに満たされる。耳元で囁く。
「アリスのことが好きだ」
「うん、私も凪人くんのことが好き」
指先を滑らせればアリスの体の尖ったところ、硬いところ、弾力があるところ、やわらかいところが分かる。そのすべてが愛しい。
どちらからともなく唇を合わせた。つっくいては離れる磁石みたいだ。
ころころとした舌が甘い。
「前の続き、したくない?」
アリスの手が導いたのは胸元だ。ベストのボタンは外され、薄桃色のシャツが目に飛び込んでくる。
「外してもいいよ。一個ずつ。優しくね」
「……お、おお」
急にどぎまぎしてくる。だってシャツのボタンを外したらその下には――。
いいのかな。
緊張しながら一番上のボタンに指をかけた。
「~~!!」
アリスは恥ずかしそうに身をよじる。凪人は慌てて手を離した。そのせいでボタンが外れてしまう。
「ちがうの。凪人くんの指が鎖骨に当たったからドキドキしちゃって。私の心臓の音、漏れてないよね」
「そ、そんなこと言ったらおれの方が」
心音が大きすぎて自分の声すら聞こえない。
まるで時計の秒針みたいだ。ふたりを急かす。
やたらと体が熱いのは風邪なのか別の要因なのか、もはや分からない。
「驚かせちゃってごめんね。もう平気だから」
アリスは深呼吸してからふたたび体の力を抜いた。
ふたつめのボタンが心許なさそうに凪人の方を向いている。
凪人は深呼吸してからボタンが留めているシャツの合わせに手を乗せた。震えているのは自分の手とアリスの体、両方だ。
「ど、しよう。震えて外せないんだけど」
「あわてなくていいから、ね、ゆっくりで」
促すアリスの声も震えている。
ボタンを外すのがこんなに難しいとは知らなかった。
「ごめん。もうちょっとだからな」
「ん、くすぐったいよぉ」
ボタンを外すのに必死の凪人と触って欲しいアリス。ふたりはそれぞれに真剣だ。
――――と。
(足音!!)
黒瀬家の階段は音が響く。
誰かがあがってきたのだとすぐに分かった。
「まずいだれか来た!」
「え、うそっ」
大パニックである。ばたばたと身支度を整える。
しばらくして。
「お邪魔しまーす!」
短いノックのあと扉が開いた。福沢と母がお盆を手に並んで立っている。
「凪人、七海ちゃんがお見舞いに来てくれたわよ……あら?」
「んん?」
部屋の中の異状を察して目を細める。
凪人は布団の中から顔を出して片手を挙げた。
「あ、福沢。わざわざ悪いな」
「久しぶり福沢さん。先にお邪魔しています」
ベッド下の床に座っていたアリスが背中越しに挨拶する。取り澄ました表情で。
すると福沢はなにかを感じ取ったらしくゆっくりと腕を組んだ。
「どうも。ずいぶんと静かなのね。てっきりイチャイチャしていると思ったけど」
「ななななに言ってるんだよ、おれは病人。なにもするわけないだろう。な、アリス」
「も、もちろん、です」
「ふぅん」
胡乱げな表情の福沢。
その足元にボタンがひとつ転がっていった。すぐに気づいて「なにこれ」と指先でつまみ上げる。
「あ、それ私のボタン」
慌てて立ち上がったアリス。その胸元のボタンは乱暴に引きちぎられたせいで糸が飛び出している。もはや言い逃れしようがなかった。
「へぇーそう。そういうことしてたんだへぇー、お楽しみのところ邪魔しちゃってごめんなさいねぇー」
福沢の目と声が怖い。戦慄する凪人とアリス。
「ほんと若いっていいわねぇ……」
桃子は事態を見守りながらにこにこしている。完全に面白がっている顔だ。
――二階でそんなことをしている間に、階下では電話が鳴り響いていた。残されたクロ子だけが気づいてじっと文字盤を見つめている。相手は、愛斗だ。
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