14.来島と母

81.来島の誘い

「くしゅっ」


 夕暮れ。店に来ていたアリスを送っていく道中、凪人は盛大なくしゃみをした。立て続けに何度かくしゃみしたあと体を震わせる。

 七月に入ったというのに長雨が続いていたせいかもしれない。


「風邪?」


 肩を並べていたアリスが前に回り込んで額に手を当てた。


「平気だよ。たぶん。でも念のため近づかない方がいい」


 彼女に感染うつしてはいけないと思い、凪人は鼻をすすりながら顔を背ける。けれどそれが癪にさわったらしく、アリスは凪人の頬をつまむと思いっきり顔を寄せてきた。


「い・や。くっつく」


 額と額がぴたりと合わさる。アリスの整った顔が急に迫ってくるとさらに熱が出そうだ。本人はそんなことには全く気づかずに体温をはかっている。


「んー、やっぱり少し熱いかな。お医者さんに行った方がいいかも」


「分かったからもう離れろ」


 肩を押しのけてようやく引きはがすことに成功した。アリスは不満そうだ。


「せっかく心配してあげてるのに」


「気持ちは伝わってる。感謝感謝」


「もぅその言い方~」


 などと言いあいながらアリスのマンションに到着し、玄関先まで送っていく。室内からの空気がいつもにも増して冷たく感じられた。


「じゃあ帰るよ。おやすみ。またな」


 きびすを返したところでつん、と袖を引っ張られる。アリスは置きざりにされる子犬のような瞳で凪人を見つめていた。


「いつもの、おやすみのキスは?」


 時々アリスは夜行性なんじゃないかと思うことがある。夜になると動きが活発になるのだ。


「今日は……なし。アリスにうつしたくないし」


「健康優良児だから風邪なんて平気だよ。真冬の海で水着撮影してもへっちゃらだし」


 そうではなく気持ちの問題なのだが説明したところでアリスは納得しないだろう。凪人はため息をついた。


「……分かった。目閉じてくれ」


「うん!」


 アリスは目を輝かせるとぎゅっと目蓋を閉じた。まったく、風邪をうつされるかもしれないというのにどういう神経だろう。


 覚悟を決めた凪人はアリスに向き合い、細い肩を抱いて引き寄せた。アリスがそわそわしているのが分かる。

 ゆっくりと顔を傾けてそっとキスをする。――――額に。


「ふぇっ!?」


 ハッと気づいたアリスが目を開いたときにはすでに遅く。

 凪人は廊下に飛び出して下行きのエレベーターのボタンを押したところだった。幸いにしてすぐに開く。


「ちょっと!やり逃げ!」


 玄関から顔を出して抗議の声を上げるアリス。


「おやすみ~」


 ぱたぱたと手を振ったところでエレベーターの扉が閉まった。やれやれと息を吐くつもりかゴホンと咳が出る。喉に違和感を覚えた。

 凪人の風邪はいつも喉からくるので本格的なものになりそうだ。


(早めに治さないとな)


 今月末はアリスとホテル――いや訂正。旅行に出掛けるのだ。

 人ごみで嘔吐してしまう凪人は遠出したことがほとんどない。飛行機に乗るのも宿泊を伴う旅行も初めてで、本音を言えばものすごく楽しみだ。できれば万全な体調で臨みたい。アリスもそのつもりでいるだろう。


(帰って飯食べたらさっさと寝よう)


 すっかり暗くなった夜道で自転車を漕いでいると一台のミニバンがハザードをたいて近づいてきた。凪人を追い抜いた先で停車する。後部座席からすべりおりてきた人物の姿が街灯に浮かび上がり、凪人は思わずブレーキをかける。


「……来島?」


「よう、黒瀬凪人」


 手を挙げて親しげに声をかけられる。

 よりによって、と思った。毎日のようにテレビや雑誌で見かけてうんざりしていたところへ本人が現れるなんて。


 その来島はいくぶん頬がこけているように見える。生意気な目つきと堂々とした佇まいは相変わらずだが全体的な印象が以前とは違う。明らかに痩せた。


「聞きたいことがある。乗れよ。夕飯おごるから」


「結構だ」


 身勝手な申し出に対する抗議の意味も込めて強く拒否した。しかし来島は動じない。小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「なんだ、母ちゃんのメシしか食べられないのか?」


「あいにくと母さんは友だちとの食事会に行ってるよ。自分が食べるものくらい自分で作る」


「じゃあオレと来ればいいじゃないか。別に変なところに連れて行ったりしねぇよ、聞きたいことがあるって言っただろ。ほら」


 ポケットから取り出したスマホに映し出されたのはとある動画だった。文化祭での劇の一幕で、イザ神が討たれるクライマックスだ。


「この化物役オマエだろう?」


「……なんで」


 反応が遅れた。来島は嬉々として笑い声を上げる。


「カマかけてみるもんだな。まさかドンピシャとは思わなかった。コメント欄に『黒瀬凪人』って書き込んだら面白いことになるかもな。あるいはオレのアカウントに……」


 余計な騒ぎは避けたい。観念するしかなかった。

 だからといって自転車を置いていくわけにはいかないと逡巡していると運転席からひとりの男が降りてきた。


「いやー怜史くんは本当に悪人だね。聞いててヒヤヒヤしたよ」


 へらへらと笑いを浮かべるスーツの男は凪人の自転車を引き受けてバックドアを開けた。


「後ろのシートを倒して……と、ん? どこを引っ張ればいいんだ? おぉそうか、ここか。よーしいいぞー」


 と独り言を呟きながらも三列目のシートを倒して固定してくれる。


「ふぅーこれでばっちり。心置きなく怜史くんと話ができるね。よしよし」


「来島、あの人は?」


 独特のペースをもつ男に圧倒される。

 すでに後部座席に座っていた来島はつまらなそうに答えた。


「オレのマネージャーの榛葉しんば。今年よそからヘッドハンティングされてきた優秀な人材らしいけど言動が子どもっぽくてイライラする」


 マネージャーと言えば柴山や葉山を思い出すが、彼のようなタイプもいるのだ。


「では出発しまーす」


 榛葉の号令で車はゆっくりと走り出す。時刻は七時半。あまり遅くなると帰ってきた母を心配させてしまう。

 凪人は隣の来島に視線を向けた。


「それで話ってなんだよ」


「おいおいこれから店に行くって言うのにもう本題に入るのかよ。せっかちだな」


「来島がおれのこと毛嫌いしているのは分かっている。くどくど嫌味を言われるくらいなら単刀直入に用件だけ言って欲しい」


「毛嫌い……?」


 来島は気だるそうに窓に寄りかかった。間近で見ると肌の白さや腕の細さ、眼窩の窪みが際立つ。ここまで酷くはないが凪人自身も風邪で体調を崩し、点滴でしか栄養をとれないときに同じような状態になったことがある。嘔吐してしまうので口から物を食べられなかったのだ。


「嫌いもなにもオレはおまえのことなんて知らなかった。この年までほとんどを海外で過ごしていたからな、黒猫探偵のリメイクがあることもそれが今でも人気があることも知らなかった。――奪うなんて言ったほど本当は取り戻したかったんだ、『小山内レイジ』はオレと母さんが考えた名前なんだから」

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