73.「アリスは本当に可愛いな」

「新妻さんどうしてここに?」


 訝しむ凪人に対して新妻愛理は余裕の笑みで自分の髪を払いのけた。


「学校帰りに近くの公園に寄ることがそんなに不自然?」


「不自然ですよ。あなたはさっき『お待たせ』と言った。だれかを待っていることを知らなければそんな言葉は出てこないでしょう。それにおれの名前も知っている」


「……安心したわ。彼と同じ顔をして間が抜けていたらどうしようと思っていたの」


 新妻は涼しい顔でベンチに座ると警戒心をあらわに立ち尽くす凪人を手招きした。


「隣へどうぞ。兎ノ原さんが来るまでもう少しかかるみたいよ」


「このままで結構です。アリスになにかあったんですか?」


 なんとなくイヤな予感がする。

 新妻はにっこりと微笑んだ。


「――座りなさい。でないと大きな声を出すわよ」


 公園内は閑散としているが人がいないわけではない。

 凪人は観念してベンチの隅に軽く腰掛けた。ただし持ってきた荷物をバリケードがわりに置いておく。

 新妻は満足したように髪を払いのけた。


「兎ノ原さん大変みたいよ。いまごろ泣いているんじゃない?」


「!? アリスに何したんですか!」


 泣いている、と言われて一瞬頭の中がまっしろになった。気がつくと身を乗り出して新妻の肩に掴みかかっている。


 ハッと我に返って手を離した。「すみません」と詫びるものの冷や汗が止まらない。一方の新妻は凪人に捕まれた肩を埃でも払うように無造作に撫でた。


「大変だと思うわ。先に連休があったでしょう、芸能コースは出席日数がゆるいかわりに大量の課題が出るのよ。兎ノ原さんは範囲を勘違いしていたみたいで学習指導室に呼び出されていたからいまごろヒーヒ―泣きながらやっているんじゃない」


 なんだそんなことか、と一気に肩の力が抜けていく。

 よからぬことがあるのではと早とちりしてしまったが、アリスはいつだって想像の斜め上をいく。


「――あ、改めて謝罪します。おれの勘違いで乱暴なことをしてすみませんでした」


 丁寧に頭を下げる凪人を見ても新妻は無言のままだ。

 そんな顔を見ていてふと思い出したのは出会って間もないころのアリスだ。怒るときも笑うときも皺が寄らないようにと意識するあまり人形めいた表情が多かった。


「……変なの。眼鏡をしていないと顔は同じなのに。怜史はそんなふうに軽々しく頭を下げないわ」


「おれと来島は赤の他人ですよ。母が親戚筋を当たったらしいですがやはり無関係でした」


「あたりまえよ」


 心外だ、とばかりに大きく息を吐いた。


「怜史のお父様は代々続く食品会社『三毛猫フーズ』の跡取りで取締役、お母様は高名な女優よ。あなたのような一般人と血のつながりがあるはずないわ」


 容赦なくディスってくるが一般人なのは事実なので反論しようとは思わない。

 それよりも重要な手がかりがあった。


「やはり母親は来島小夜子なんですか?」


「そんなことも知らないの。彼の猫っ毛は母親譲りなのに」


 新妻がウソをついているのでなければこれでひとつ確定した。

 来島の母は女優:来島小夜子。父親は食料品大手の三毛猫フーズの役員。


「ねぇ」


 考え事をしていると腕を掴まれた。新妻が真剣な面持ちで見つめている。


「あなたはどうして兎ノ原アリスと付き合っているの? あの子がどれだけの男と浮名を流したか知っている?」


 あぁそれが新妻の目的かと一瞬にして理解した。

 だからこそ凪人は自信をもって答える。


「大体は聞いています。それも含めていまのアリスが好きなんです」


 炎上していたころのアリスは男好きだと噂されていた。実際何人かと付き合いもあった。けれど人気商売である以上仕方ないと思うし、アリスがそうであるように凪人もいまのアリスが好きなのだ。過去は否定できない。


 新妻は黙っている。理解できない、と顔に書いてあった。

 それでいい。理解されるとは思ってない。今度はこちらが質問する番だ。


「この前来島がウチの店に来ました。あなたが教えたんですよね? だれから聞いたんです?」


「言わない。あなたの近くにいるだれか、とだけ答えておく。わたしあなたの顔好きよ。怜史にそっくりだもの。せいぜい疑心暗鬼になって不安におののくといいわ」


「悪趣味ですね」


「ありがとう。あなたのことを話したら怜史ったら水を得た魚みたいに活き活きしていたわ。お店まで行ったなんて初耳。だから敵愾心を剥き出しにして兎ノ原さんに慣れないアプローチをしていたのね、笑いをこらえるのが大変だったわ」


「え!?」


 来島がアリスにアプローチ。

 大事なものを奪うと言った来島が、アリスに手を出した。


 戸惑う凪人を前に新妻はうっとりと目を細める。


「そういう顔もいいわね。まぁ怜史のことだからきっと――」


 ふいに凪人のスマホが鳴り響く。発信先は『公衆電話』と表示されている。不審に思ったが念のため出てみることにした。響いてきたのは押し殺したような低い声。


『――黒瀬凪人か?』


「そう……ですけど」


『お前がアイドルの新妻愛理といることは分かっている。許せん。ツーショット写真を週刊誌に売り込んでやる。それがいやならオレの言うとおりにしろ』


「どうすればいいんですか?」


『立て。そのまま正面左手に歩いて来い』


 左手は林の中に続く小路がある。五月とあって濃く強く揺れる木陰の中にあやしげな人の気配は見いだせない。


「どうしたの?」


 心配してというよりどこか楽しそうに新妻が訊ねてくる。相手が語気を荒げた。


『早くしろ! もちろんひとりで来るんだぞ』


「なんか行かなくちゃいけないみたいなので、失礼しますね」


 つまらなそうに唇を尖らせる新妻を残し、自分の荷物を手に左手へ進む。


『いいか、まっすぐだ。ベンチがひとつ、ふたつ、通り過ぎたら十字路がある。そこで右手に曲がる。すると古めかしい電話ボックスがある。そこで』


 凪人はかなりのハイペースで歩きながら辺りを見回した。


「ベンチがふたつだな。それで? 十字路の先の電話ボックスでなにをしろって?」


『……』




 しばし間が空く。

 ふぅ、と息を吸う気配がした。




『ハグ、してもいいぞ。――――きゃっ!』


 電話ボックスの扉を開けるなり凪人は腕を伸ばして「犯人」を確保……もとい後ろから抱きしめた。


「なーにしてんだアリス」


 驚いて受話器を取り落したのは他でもないアリスだ。黒いサングラスに茶色いセミロングのウィッグをつけて変装している。


「凪人くん!? え、早くない? 歩いて三、四分かかるはずなのに」 


「ショートカットの道を走ってきた。公園内の地図は頭に入っていたから」


「最初から私だって分かって?」


「当たり前だろ。言っちゃ悪いけど声まんまだったぞ」


「無念~」


 ぶら下がっていた受話器を戻すとピーピー音がしてテレフォンカードが戻ってきた。凪人はアリスを抱きしめたまま問いかける。


「どうしてわざわざ公衆電話を?」


「さっき新妻さんといるのが見えて。なんとか引き離そうと考えていたらこの公衆電話が目に飛び込んできたの。緊急時のためにカード持っていたから、いたずらしてやろうと思って」


 つまりは嫉妬したらしい。


「ふたりの姿を見たとき自分でも信じられないくらいムカムカして、あのまま割り込んだら、その、修羅場……になっちゃうかなぁって思って」


 あまりのおかしさに内心噴き出しそうになった。

 アリスは新妻が凪人にアプローチしたと勘違いしているのだ。


 自分が好きな女性はアリスひとりなのだから修羅場なんてありえない。

 けれど勘違いしているアリスがなんだか可笑しくて、わざと訂正せずにいた。怒りを抑えようと必死な顔が可愛い。


「そりゃあ新妻さんは美人で黒髪がすごくキレイだけど、好きな気持ちは絶対に私のほうが強いんだから」


「うん」


「海よりも広くて空よりも高いんだから」


「うん」


「もぅ笑ってないでなんとか言――」


 振り返りざまのアリスにキスをした。この驚いたような顔も可愛い。

 体勢的に苦しそうだったアリスも一度唇を離したら今度は自らかぶせてくる。狭い電話ボックスの中では酸欠になりそうだった。


「心配させたならごめん、あの人とはなにもなかったよ。アリスが課題で足止めされているって聞いただけ」


「あぁそれ……課題の一部が白紙だったことに気づいて目の前まっくらになっちゃったよ。待たせてごめんなさい……」


 背中に腕を回し、肩にぎゅっと顔を押しつけてくるアリス。

 甘えてくる姿が愛おしくてこちらも抱き返した。シャンプーと汗のにおいがする。


「平気だよ。来島に変なことされなかったか?」


「された! 凪人くんの顔で猛アプローチしてくるの。すごく気分悪かった!」


 いやいや、ほぼ初対面の自分を学校まで追いかけてきて脅迫のキスしたのはどこのどいつだ、そんな突っ込みが脳裏に浮かぶ。まぁ結果オーライだったが。


「でも先生にお願いして席を替わってもらったからもう大丈夫。来島くん忙しいみたいで早退していったし。だからそんなに妬かなくてもいいよ」


 「だれが」と言い返しそうになって、やめた。

 黙らせるのならキスがいちばんだ。




 その日の放課後デートは家まで手をつないで帰ることにした。

 途中の店でクレープを買い、花火を見た湖畔公園に立ち寄る。ベンチに座って文化祭のことを聞いたアリスは嬉しそうに目を輝かせた。


「もうそんな時期なんだね。お忍びで行っちゃおうかなー」


「ダメだ。外部のお客さんも来るし騒ぎになったら大変だろう」


 というのは建前で、本音は猫耳に尻尾つきの自分を見られたくない。


「ぶー」


「拗ねてもダメ」


「分かった……じゃあそのかわり七月に一泊二日で予定空けてくれない?」


 アリスはスマホを取り出して画面をタップした。見せてくれたのは南国のリゾートホテルのホームページだ。新着情報のところに七月のイベント告知がある。


「ここ三月に撮影に行ったところなの。ほら、終業式の前日。今夏にいよいよグランドオープンでオープンイベントにゲストとして呼んでもらってるんだ。オーナーさんが『ご家族やお友だちもどうぞ』って言ってくれたから、この前のデートと誕生日プレゼントのお礼したいから招待するよ」


 なにを言われているのか、一瞬思考が追いつかなかった。


「……ホテルに? おれと?」


 凪人の戸惑いから『なにか』を察したアリスはたちまち顔を赤くする。


「ち、ちちち違うよ。誤解しないで。同じ部屋じゃないよ。やだなぁ……アハハ」


「別におれは構わないぞ。同じ部屋で、なんならシングルベッドでも。寝るだけだろ?」


「えぇっうえっえー」


 もはや言葉を失っている。ちょっと意地悪をしてみたくなっただけなのに。


「冗談だよ。そんなに狼狽うろたえるとは思わなかった。大丈夫、母さんに頼んで店番外してもらう」


「もう! 彼女をからかわないで!」


「ごめんごめん。アリスは本当に可愛いな、そういうところも好きだ」


 可愛いな。

 どきっとしたように目を見開いたアリスは、ぎゅっと唇を噛んで寄り添ってきた。


「そのセリフ、やっぱり凪人くんからの方がいいな」


「?」


「なんでもなーい」



 そのまま静かに寄り添っているとスマホの着信音が割り込んできた。「柴山さんだ」と呟いたアリスは凪人に目配せしてしてから電話に出る。

 仕事の話だったらしく二歩三歩と距離をとりながら「本当ですか?」「嬉しい」などの明るい口調でのやりとりが続いた直後「えっ!」と声を上げた。凪人がぎょっとするほどの音量だ。


「……あ、はい、詳しくはまた。はい、失礼します」


 電話を切って戻ってきたアリスの表情は浮かない。呆然と足元を見つめている。さすがに心配になった凪人は「どうした?」と問いかけずにはいられなかった。

 芸能人であるアリスにはCM等に関する守秘義務がある。そこは恋人であっても軽々しく越えてはいけないとわきまえていたがあまりにも態度がおかしい。


「うん……その、新しいCM決まって。嬉しいんだけど、うん、共演者がいて」


 今度は凪人のスマホが鳴り響く。登録のない相手は通話ボタンを押すなり挨拶もなしに喋りはじめた。


『アリスから聞いたか?』


「……その声、来島か? なんでおれの番号知ってるんだ」


 相手は問いかけには応えず楽しそうに笑っている。


『三毛猫フーズの夏のCMが決まったんだ。甘酸っぱい恋とか青春とかをテーマにした清涼飲料水のCMだな。高校生の男女が出演する。ひとりはアリス。もうひとりは『小山内レイジ』。そう――オレだ。おまえじゃない』

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