72.アリスは本当に可愛いな
「ふっふふーん」
登校したアリスは鼻歌まじりで廊下をスキップしていた。
今日の放課後に凪人が迎えに来てくれる。つまり放課後デートだ。楽しみで仕方ない。
他の生徒たちが怪訝そうに振り返る中でもまったく意に介さずに教室へと飛び込んだアリスの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「そんな、まさか。…………凪人くん?」
自分の席の隣に座る人物。その姿が大好きな彼氏にそっくりなのだ。転校前の教室に戻ってしまったのかと錯覚する。
「よう、兎ノ原アリス」
凪人――によく似た少年は凪人とは違う笑い方をしてアリスの反応を楽しんだ。
少し丸まった背中とアンバーの目が「彼」の正体を示している。
「来島くん? びっくりした、髪の毛染めたの? ピアスもないし」
黒から赤のグラデーションという派手な色だった髪はまっくろ。悪目立ちしていたピアスもない。来島はいくぶん気恥ずかしそうに自らの髪を撫でた。
「まぁ気分転換にな。自分でも鏡見るたびに分かんなくなるぜ」
「へぇ、随分と思いきったね」
先週あんなことがあったので文句のひとつでも言ってやろうと思っていたのを忘れ、アリスは自席に着くなりまじまじと顔を覗き込んでしまう。
こうして間近で見ても輪郭や顔の形がそっくりだ。別人だと分かっていても自動補正して見てしまう。瞳の色の違いだけが際立った。
「あなたたちって実は生き別れの双子とかじゃないよね?」
「まさか。こっちだって好きで似てるんじゃない。あいつが似せてきたんだ、オレの方が先なのに」
「なんの話?」
「……べつに」
ふて腐れたように頬杖をつく来島。シャツの第一ボタンこそ外しているものの袖口までしっかりとボタンを留め、生真面目な印象を与える。傍若無人な態度はすっかりなりをひそめ、ますます凪人そっくりだ。
(もしかして感化されたのかな。当然だよね、私の彼氏なんだし)
のろけだと自覚があっても想いは止められない。自分の彼氏は最高に最高なのだ。
(今日はせっかくの放課後デートだもん。ただ家に帰るだけじゃつまらないよね。公園のベンチでひたすらお喋りするのもいいし、いま流行っているクレープも食べに行きたいし、思いきって遊園地でもいいなぁ。時間が限られている分濃厚な時間が過ごせそう)
来島の変化などあっという間に意識の外に置かれ、アリスは昨日のメールを見返しながら放課後デートの妄想を膨らませた。
凪人と一緒ならどこだっていい。
悔やまれるのは学校が別という点だ。どうしても時間をロスしてしまう。
(同じクラスにいる間にもっとイチャイチャしたかったなぁ。席も隣だったんだし。たとえばどちらかが教科書を忘れて――)
「アリス」
名前を呼ばれてどきっと心臓が鳴った。
相手は隣の来島だ。
「立てよ。授業始まるぞ」
「……あ、うあっ」
すでに国語の男性教師が教壇に立っていた。遅れて立ち上がったアリスを待って「礼」をし、授業が始まる。
「バカだな。ボーっとしてるからだよ」
くすくすと笑う来島の声はやたらと優しい。なぜか凪人の姿と重なった。とくとくと心臓が早くなる。
(そんなワケない。私は凪人くんしか好きにならないのに)
「アリス。悪いけど教科書見せてくれないか。忘れてきたんだ」
思ってる傍から相手が顔を寄せてきた。なぜか体が熱くなる。
「いいけど」
仕方なく了承し、お互いの机をぴったりと合わせて真ん中に教科書を置く。右端をアリス、左端を来島が持つ形だ。
「じゃあ次のページをめくって」
教師の指示でページをめくろうとしたふたりの手が重なる。「あっ」と弾かれるように手を離したアリスを見て来島が小さく笑い声を立てる。
「さっきから動揺しすぎじゃないか。アリス」
「し、してない。してません。いきなり呼び捨てするのはやめてください」
「なんで敬語なんだよ。あいつ、凪人は呼び捨てなんだろ、だったらいいじゃないか。それともオレのこと意識してんの?」
「してません!」
「こら兎ノ原しずかにー」
大声で叫んだせいで教師に叱られた。すいません、と謝って下を向く。しかし来島はなおも絡んでくる。
「あーぁ怒られた。アリスが悪いんだぞ」
「……Je vous prie de vous taire!(静かにしてください)」
来島と話すつもりはないという抗議の意を込めて父の母語であるフランス語を使い、ついでにぎろりと睨みつけてやった。
ここまですれば多少怯んで静かになると思ったのに相手の方がなお上手だった。
「Super jolie!(超かわいいね)テレビや雑誌で見せないそういう顔もいいな」
達者なフランス語で返してきた上に歯の浮くようなセリフを吐いた。
(ひぃ!)
全身にぞわっっと鳥肌が立つのを止められない。
(もうやだ。無視無視無視……!!)
完全無視を決め込んで黒板の方を見た。教師が書き込む漢文だけに集中し、シャープペンの芯がぼきぼき折れるほどの筆圧でノートに書き込んでいく。
「アリス」
また呼ばれた。無視だ、無視。
「髪になにかついてる。ケサランパサランかもしれない」
ケサランパサランと言えばふわふわとした毛玉状でおしろいを好み、持ち主に幸福を運んでくれるという謎の生き物だ。もちろんアリスにとっての幸福と言えば。
(凪人くんと結婚したい!)
急いで捕獲しようとすると先に来島の手が伸びてきた。
「動くな。逃げちゃうだろ」
あまりにも距離が近い。動きたい。ものすごく動きたい。
けれどケサランパサランが逃げるのはイヤだ。
「大丈夫、もうすぐだ」
自分の髪を熱い手がなでていく。もう我慢できない、と体を震わせたとき、目と鼻の先に来島の笑顔があった。
「ばーか。ウソだよ」
トドメとばかりに耳たぶに息を吐きかけてくる。つい反応してしまいそうになり咄嗟に唇を噛んだ。
「こんな簡単に騙されるなんてアリスは本当に可愛いな」
「~~~~!!!」
「おい兎ノ原どうしたー?」
「なんでもありません。授業を続けてください」
アリスは自らの教科書を放棄し、反対側の生徒の席に寄って教科書を見せてもらうことにした。そんな仕打ちをされたくせに来島は楽しそうに笑っている。
あいつは空気だ、机だ、カーテンだ。そう思い込もうとしても凪人と重なるその面差しにどうしても視線が吸い寄せられてしまうのだった。
※
「え、放課後に文化祭の係決めがあったのか? 悪い、もう駅の改札入っちゃった」
凪人のスマホの通話相手は国見だ。授業が終わるなり一目散に教室を飛び出したことを心配して電話をくれたらしい。
『問題ない。さっき終わったから。黒瀬は去年焼きそば係だったから気を利かせた福沢が「やっぱりこれよね」って喫茶店の担当に名前書いていたぜ』
喫茶の担当と聞かされてイヤな予感がする。
昨年は『ウサギ喫茶』と銘打って耳や尻尾をつけて接客したのだが。
『今年は白猫喫茶だってさ。道具係の俺が猫耳と尻尾ちゃんと用意しておくから心配すんな』
「……どうも」
もはや拒否権はない。甘んじて猫耳と尻尾をつけさせてもらおう。なに、ほんの数時間だけ耐えればいいのだ。うん。
『そういえば今日はやけに慌てていたけどどうしたんだ? 彼女とデートか?』
凪人の心中を知ってか知らずか国見の声は底抜けに明るい。
「まぁそんなとこ。迎えに行くって約束したんだ。さすがに学校前で待つと目立つから近くの公園で待ち合わせ」
『いいなぁ……俺も早くあの子とデートしたいぜ』
「彼女できたのか?」
『まだお友だち。一回会ってお茶しただけの清い関係さ。でも向こうから連絡してきてくれたんだ』
「そうなのか、おめでとう」
『サンキュー。黒瀬も頑張れよ、応援してっから』
電話を切り、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。車内はがらんとしていたが数駅程度なのでドアの前に立って窓の外をぼんやり見つめる。
思い出すのは昨年の文化祭。焼きそば係をしていたところへアリスを訪ねて愛斗がやってきて大パニックになった。凪人が仲介して話し合う場を設けたことで二人は仲違いを解消。良好な友人関係へと落ち着いた。
話をすることで互いを理解し、分かり合えたのだ。
(来島はあんな態度をとってきたけど、おれだって嫌いになりたいわけじゃない)
自分とそっくりの相手。びっくりはしたが親近感も湧いた。仲良くしたいとまでは思わなかったがケンカをしたいとも思わなかった。面と向かって話をすれば案外馬が合ったかもしれない。
『随分な対応のちがいだな』
愛斗はそう指摘した。
あの日、凪人が帰宅したときぐっすり寝ていた母の背中には毛布がかけられ、テレビも消してあった。オムライスの皿やお茶に使ったマグカップもきれいに洗って伏せてあったが母はやってないというので来島がしたのだろう。
とても奇妙だ。
母・桃子の前でとった饒舌で礼儀正しい一面と凪人に対しての露骨なまでの嫌悪感。相対するような態度が来島の中で両立している。その差はなんだろう。
(できれば感情抜きで話をしてみたいけどやっぱり無理かな)
来島の目を思い出すと寒気がする。あんなに嫌われたことは一度もない。
だれかを嫌いになるのは意外と労力を使う。相手の些細な点に都度反応して自らの態度や言葉遣いを普段と変えなければいけないからだ。気が抜けない。無視する方がよほど簡単にダメージを与えられる。
ガタン、と電車が揺れる。警笛を鳴らしながらトンネルの中に入った。
暗闇をじっと見つめているとアリスにすら言えない醜い感情がふいに浮かび上がってきた。
(でもおれにも世界一嫌いな相手がいる。たったひとりだけ、どうしても許せないやつが――)
窓ガラスに映る自分はあの日の来島と同じ顔をしていた。
※
アリスの通う高校は芸能人やスポーツ選手が多く通うことから警備が厳しい。
到着した凪人は確認のため歩き回ってみたが三か所ある出入り口の前には警備員がおり、ざっと見ただけでも数十台の監視カメラが至るところに設置してある。ぐるりと張り巡らされた外壁の高さを見上げると「モデル」であるアリスと自分との距離をいやでも実感する。
とりあえず近くまで来たことをメールしてその場を離れた。
待ち合わせは近くの公園。敷地内に一歩踏み入れると鳥のさえずりだけが聞こえ、外の喧騒がウソのようだ。
ここなら、と目をつけた噴水前のベンチに腰かけてカバンから文庫本を取り出す。今度愛斗が出演する映画の原作小説で、江戸を舞台にした時代物だ。集中して本を読むときは眼鏡を外すことにしている。
――どれくらい経っただろう。
ピロリン、とスマホが鳴った。アリスからの返信で「いまいきゅ」とだけ綴ってある。誤字。よほど焦っているのだろう。
急がなくていいから、と打っていると近くで足音がした。
「おまたせ」
来た。文庫本を閉じて立ち上がった凪人は「あれ」と固まる。
相手はアリスではない。
「こんにちは。黒瀬くん」
目の前に佇んでいるのは黒髪の高校生アイドル、新妻愛理だ――。
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